法螺貝の唄

ジュン

第1話

掛け軸の中から仙人が現れた。仙人は言った。

「お前の願い事を何でも叶えてやろう」

僕は掛け軸の中から急に現れた仙人に不快感を覚えた。視線でこの仙人に「僕は不快に思ってるんだけど」と暗に伝えた。

「お前の願い事を何でも叶えてやろう」

この仙人はまだ言った。僕はこれから昨日作って食べた食事の洗ってない食器を洗おうと考えていたところだったから、この掛け軸の中から不意に出てきた仙人の応対をするのは面倒だと思った。

「願い事を叶えてやるぞ。さあ、何がいい?」

「別に」

「何でもいいんだよ。なぜ黙ってる? さあ言ってごらん」

「ブラジャー」

「ブラジャーか?」

「ブラジャーが欲しい」

「そうか。でもお前は男だろう」

「いいじゃないか別に」

「ブラジャー着けるのか? 今も着けてるのか?」

「着けてない」

僕はそう言った。仙人は僕の顔を凝視しながら僕に訊いた。

「お前はブラジャー・コレクターか?」

「違う」と僕は言った。

「ねえ、おじさん、僕これから洗い物しないといけないから悪いけどブラジャーを置いていって、それで早々に掛け軸の中に還ってもらえないか」

「わかった。でも困ったな」と仙人は言った。

「何が困ったの」

仙人は腕組みしながら頭を掻いた。白髪の長髪に結節型の指を無理に通してかきあげると、パン生地にまかれたグラニュー糖のようなフケが舞った。

僕は言った。

「迷惑なんだけど」

「だよね」

「わかってるんだったら早く還ってくれないか」

「わかった。じゃあブラジャーここに置いて還るから」

仙人はピンクのブラジャーをスーツケースから取り出すと僕のいる部屋の仏壇の前の座布団の上にそれを置いた。

「ありがとう」

僕は一応お礼を言った。仙人はそうっと掛け軸の中に還っていった。


「鮎子。待った?」

僕は鮎子に謝った。二十分も遅刻してしまった。鮎子は東京都K市のジブチというカフェで働いている。僕はジブチに寝台列車ツキノワグマ号で向かった。ツキノワグマ号は春めいていた。電車の中はタンポポが咲いていた。タンポポだけではない。アズマギクや春菊も咲いていた。陽の光がさんさんと射していた。電車の中には芋畑もあって小柄な少し背中が丸くなったおじいさんが土を耕していた。僕はその額に汗して働いているおじいさんに僕のポケットからピンクのブラジャーを取り出して「あげます」と言った。そのおじいさんは黙った。そのおじいさんはそれからほどなくして笑顔で「いりません」と言った。


「ここのジンジャーエール美味しいの」。鮎子の決まり文句「ここのジンジャーエール美味しいの」はもう一万回は聞いた。僕はポケットの中のピンクのブラジャーをそのポケットに突っ込んだ手で握りながら「ジンジャーエールといえば」と言って話始めた。

「ジンジャーエールといえば何?」と鮎子が訊いた。

「ここに来る前に近所の神社に行ったんだ」

「それで」

「その神社の境内で僕は『神社がんばれ』って叫んだんだ」

「そう」

「何でかといえば、その神社が浮かない表情をしていたから。あまりにも陰鬱なその横顔を見て、僕は思わずその神社を応援してやりたくなったんだ」

「そう」

鮎子はカウンターに置かれた七宝焼の見た目の皿に盛られた辛子蓮根を器用にそして上品にかつ勢いよく箸でつかんで鮎子の口を経由してそして鮎子の胃袋に収めた。

「この辛子蓮根美味しいわ。ジンジャーエールによく合うわ」

「僕も一杯もらっていい?」

そう訊いて僕はホットウーロン茶でわさび茶漬けを食べた。

「わさびはサメ皮でおろしてさらに粘りが出るまで包丁で叩かなくても辛いじゃないか」


僕はポケットに突っ込んだピンクのブラジャーを握ったままの手をポケットから出して鮎子に「ブラジャーいる?」と訊こうとした。けれど鮎子はわずかな間が空いたその時にカウンターから姿を消した。

どこにも鮎子の姿が見当たらない。残されたジンジャーエールがグラスに半分、辛子蓮根が三片。店はいつもより静かで棚に並べられたワイングラス、シャンパングラス、コーヒーマグ、そして中央の掛け軸に至るまで何一つ今までと変わらなかった。僕はしばらく呆然として涙が止まらなかった。ただの涙じゃなかった。熱い涙だった。とても熱い涙だった。こんなにも熱い涙が流れるのは僕は風邪でも引いたのかと思った。

僕は鮎子が残した辛子蓮根を食べた。七宝焼の見た目の皿は付着した辛子を除けば空になった。残されたジンジャーエールも飲もうと思ったが止めておいた。


家に帰って洗い物の続きをした。皿を洗った。次々と皿を洗ったが、それでも満足できずにスプーンを洗った。フォークを洗った。ナイフを洗った。まだ満足できなかった。パンツを洗った。Tシャツを洗った。掛け布団カバーを洗った。

「台所用洗剤も大分減ったな」

僕は足を洗って今日の洗い物を止めた。


「ピンポン。ピンポン」

僕はドアを開けた。こんな遅くに誰だろうと思いながら。

「こんばんは」

「鮎子」

立っていたのは鮎子だった。

「寒いわ。二月だっていうのに」

「二月はまだ寒いよ」

二月は月の始めの方に二十四節気でいう立春があって確かに暦のうえでは春だが、しかし実感はまだ冬だった。

「鮎子。こんな遅くに僕の家に来るなんて珍しいじゃないか」

「ええ」

鮎子は俯いて玄関先を見た。何か困ったような表情をした。

「どうしたの?」

「実は困ってることがあるの」

「困ってること?」

「そうなの」

「何なの?」

鮎子は僕の目をじっと見た。

「とにかく中に入りなよ」

僕はそう言った。

「ありがとう」

鮎子は友達のモモコから貰ったハイヒールの靴を脱ぐとそれをきれいに並べて部屋に入った。

「ここに来るのは何年ぶりかしら」

「そうだな。二十年は下らない」

「そんなになるのね」

「僕らが初めて出会ったのはジブチがまだできる前、築地小喫茶店だった」

「そうね」

「懐かしいなあ」

「そうね」

「憶えてる鮎子。当時流行ったインベーダーゲーム」

「憶えてるわ」

「それから、テトリス」

「テトリス、懐かしい」

「ああ。思い返してみると八十年代がテレビゲームの黄金期だった」

「そうね」

「もう死語になったけど、マルチメディアなんてものが登場してからゲームはつまらないものになった」

「そうね」

僕は鮎子と携帯ゲームの先駆けN社のGBで遊んだ。特に好きだったのはテトリスだった。テトリスの単純さが逆に僕を夢中にさせた。

「ところで困ったことって何?」

僕は鮎子に訊いた。

「その前にお水を一杯貰えないかしら」

「ああ。気が利かなくてごめん。ちょっと待ってて」

僕は下に降りて、水道の水をコップに一杯入れて上に戻った。

「ありがとう」

「で困ったことっていうのは。何が問題なの?」

「それはね今飲んでいる水のことなの」

「水のこと?」

「カルキ臭いの」

「そうか。それが困ってることなんだ」

「そうなの」

「それはいつから?」

「ずっと前から」

「鮎子は今飲んでいる水がカルキ臭くて困ってるんだね」

「そうなの」

「なんでもっと早くに相談してくれなかったの?」

「だって水の問題だから」

「水に流そうと」

「そうなの」

「水臭いなあ」

「ううん。おそらく水自体の臭いじゃない。カルキの臭い。消毒用の水道水に混ぜる塩素の臭い」

「そうか」

「でももう大丈夫よ」

鮎子は振り切るように一気にコップの水を飲み干した。

「僕は役に立てた?」

「ええ。ありがとう」

「よかった」

僕はポケットの中のピンクのブラジャーを握りながら鮎子が飲み干した水に混ぜてあるカルキは、このピンクのブラジャーを洗った時に漂白剤の働きをするのだと思った。もし僕の考えが当たっていれば鮎子の問題も根本的に解決すると思った。

「あまり力になれなかった?」

「そんなことないわ」

「そうか」

「それにこの問題は自分で解決するべき問題だと思うし」

「うん」

「いつかこの問題を克服してみせるわ」

「がんばって」

「お水、ごちそうさま」

僕は空になったコップを受け取った。

「そろそろ帰るわ」

鮎子は下に降りてゆき、ハイヒールを履くと「じゃあ」と言って出ていった。

僕は本当に鮎子の力になってあげられたのか。正直自信がなかった。しかしこんな下らない関係がすでに二十年は下らなかった。ずっと続いていた。これからもだった。

僕はふと我に返ると、冷蔵庫の中に常備してあるミネラルウォーターをグラスに注いで飲んだ。僕はウイスキーが飲みたくなった。水割りも好きだが、今はオン・ザ・ロックで飲みたかった。僕はロック・アイスを冷凍庫から三つ取り出し、ウイスキーをそれに浴びせた。氷の溶ける音を聴きながら、静かに鮎子の問題が解決することを祈った。


一時間も過ぎると軽く酔ってきた。僕は酔いを醒ますため、ネットゲームをやろうと思った。それで二階に上がった。

酔い醒ましにはネトゲが一番だった。でも、まあエロゲでもよかった。

「昔テトリス今クリトリスだ」

「下品なことを言うんじゃない」

掛け軸から仙人がまた現れた。

「お若いの。おっさんみたいなことを言うんじゃない」

「あー。眠い」

「おい。聞いてるのか」

「はいはいっと」

「なんという返事だ」

寝てしまったようだな。仕方がない。よく寝ること自体は体にいいからな。そう思って仙人は掛け軸に還っていった。


今日は天気がよかった。僕は久々にドライブでもしようかと思った。「どこへ行こうか」。僕はドライブをしたいとは思ったけど、特に行きたい場所を思いつかなかった。「とりあえず車を走らせてみるか」。僕は庭に停めてある僕の車へと向かった。僕の車はよく目立つ黄色いセダンだった。

僕は車に乗ってひばりヶ丘の方に向かった。車を走らせて直に車が止まった。「エンストか」。僕は公道で車が止まってしまって困った。

「エンストですか?」

若い女が僕に声をかけた。

「そうみたい」

「困りましたね」

「ええ」

「あの」

「はい」

「よかったら、私の車使って下さい」

「え。でも。いいの」

「はい。私、今乗ってる車いらないと思ってたところなの」

「なんで」

「私の乗ってる車、ほらあの車ね、ちょくちょくエンストするのよ。今さっきも。だからそろそろ新しい車を買おうと思ってたところなの」

「そうですか」

「そうなの」

「あなたはどうやって帰るの?」

「タクシーで帰るわ」

僕は僕の黄色いセダンを降りてその若い女の乗っていた車に乗ってドライブを再開させた。しばらくすると車が動かなくなった。「エンストか」。道の真ん中で困っていると若い女が僕に声をかけた。

「どうしたんですか」

「エンストしちゃったみたい」

「それは困りましたね」

「ええ」

「私の乗ってた車、やっぱり止まっちゃった」

「はい」

「よかったら私に乗ります?」

「いいんですか」

「私の上に乗ってください」

「あなたはとんでもないものを盗んでいきました」

「え?」

「僕の心です」

「勘違いです。私彼氏いるの」

「そうなの?」

「ええ」

「じゃあ、やめとく」

僕はついでに訊いた。

「彼氏ってどんな人?」

「舟木一夫」

「そうか」

「高校三年生の時から付き合ってるの」


いつの間にか夕方になっていた。赤い夕陽が僕のサングラスをそめた。「帰らなきゃ」。僕は一番近くの駅まで歩いてそこからツキノワグマ号に乗って僕の家に帰った。

「やれやれ。散々な一日だった」

僕は熱いほうじ茶を一気に飲み干した。それから掛け軸の方を見た。

「今日は出てこないのかな」

しばらく見ていた。

「出てこないみたいだな」

僕は部屋の蛍光灯を消して寝た。


仕事の帰りに鮎子が働いているジブチに寄った。ちなみに僕は何の仕事をしているかといえば個別指導の学習塾の講師をしていた。教えている教科は英語だった。英語は一番需要の多い教科だった。入試ではほぼ確実に英語が出題された。だから、受験生は何がなんでも英語ができるようにしなければならなかった。僕は英検一級を持っていた。好きな作家はレイモンド・チャンドラーだった。しかし僕は実は英語が好きではなかった。なぜなら、英語帝国主義という言葉を聞いたからだった。僕は帝国主義には反対だった。民主主義がいいと思った。「そうか、英語は帝国主義を支持しているんだな」。僕はその事を知ってから英語に強い反感を覚えた。しかし、人というものは食べていくためには嫌いなことでもやらなければいけなかった。だから僕は不本意ではあるけれど英語帝国主義のお先棒を担ぐことを仕事にしていた。帝国主義がアジア、アフリカを抑圧した歴史から目を背けてはならないと思った。しかし、僕は英語帝国主義者として今日も仕事した。僕は強い罪悪感に苛まれた。苦しくなってきた。

「僕は帝国主義者じゃない!」

「僕は帝国主義者じゃない!」

「僕は民主主義者だ!」

「民主主義万歳!」

僕は「僕の春」がやって来て、デタントが僕の中で進み自分が自己の矛盾や葛藤と和解することができた。時は 一九八九年、マルタ会談が行われた年と偶然同じ年だった。僕は四谷にある個別指導塾に就職した。採用担当者との四谷会談を無事に終えた。それから僕はこの学校の出世階段をかけ上がっていった。しかし、僕は今でも帝国主義には反対だった。英語帝国主義に反対だった僕はいっそのことスワヒリ語がもっと広まればいいと思った。しかし、僕は日本人だから最後は日本語が世界の共通語となればいいと思った。しかし、それでは日本語帝国主義になってしまい本末転倒だと思った。僕は帝国主義に反対だったから日本語が帝国主義まではいかないぎりぎりのところまで広まればいいと思った。


「鮎子」

「ここのジンジャーエール美味しいの」

「僕もジンジャーエールを貰おうか」

「お仕事お疲れ様」

「子ども相手の仕事だから。僕はディクテーターの立場だから。支配欲が満たされるからたいして疲れもしない」

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法螺貝の唄 ジュン @mizukubo

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