第38話 - 地下迷宮 信念

 あの日の記憶が蘇る。

 森の中。誰にも見つからないように、ひっそりと。隠れるようにして生きていたあの日々。

 お父さんがいつの間にか連れてきた、三人の従士、と名乗る人たちといつも遊んでいた。

 でも、あの人たちは、私を一人の人間としては見てくれていなかった。

 尊いものを崇めるような。妖精に傅くような態度で、いつも接していた。

 だからずっと、埋められない距離があったので、つまらなかった。


 山を駆け回り、お喋りして、魔法のことを学び、暗い森だったけど、楽しい日々であったと思う。

 いつも笑顔で、姉さんは、私と手を取って、あの森の中を走っていた。


 姉さん。私の大事な人。命を賭けてでも、絶対に取り戻してみせる。


 だけど何故だろう。

 私は、姉さんの顔を、思い出せないでいる。

 私の手を引いて、草原を走っているその顔が、蜃気楼のようにぼやけている。

 何故だろう。どうして私は、大事な人の顔を思い出せないんだろう。

 どうして、どうして、どうして……。


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「お前ら。とんでもないことをしてくれた。まさか本当に――《黄金騎士》を倒すなんてよ」


 地下迷宮に戻り、倒れるように寝込んだ後、いつもの如くハーヴィスはやってきた。

 彼は、本当に不思議そうな顔で、レウをまじまじと眺めている。

 レウはその視線を受けて、至極迷惑そうに顔を振った。


「あんたの言う通りにやったんだよ。労いの言葉くらいあってもいいだろうさ」

「――大物なのか、本物の能天気なのか。坊ちゃん。あんたはな、王国の最高戦力を倒したんだ。つまりS級相当の実力があるってことだ。S級だ。戦略級の戦闘力を保持しているのと同等なんだよ。王国もギルドも、どこもかしこも、お前さんを本気でなんとかしなきゃいけなくなった」


 そしてハーヴィスは、懐から一枚の紙を出した。

 高級な素材を使用した、貴族しか使用しないであろう、その紙には、物々しい筆致で文字が書かれていた。


「超高難易度クエスト。依頼主、国王。受注条件、一名。王国に仇為す狂剣病、レウ・ユーキリッツの完全なる殺害。特殊案件故、報酬などは応相談である――ああ、大変なことになったなぁ、こりゃ」


 読み上げたハーヴィスは、大きく溜息を吐く。

 それを聞いたシャロの目が、丸々と見開かれた。


「お、王国からの依頼? つまり、これから王国もギルドと一緒になってレウを追うってこと?」

「いや、そう単純な話じゃない。これは政治問題で、パワーゲームの真っ最中だ。簡単に言うと、王国はこれでギルドがレウの返り討ちに会うことを期待している。そうなりゃ状況はイーブンになるからな。そんなことはどうでもいい。来るぞ、レウ」


 ハーヴィスはゆっくりと、その名を出した。


「《星崩し》アルスが、この依頼を受注した。俺の息のかかった奴らを総動員させたのもあるが、おい、こんなに話が綺麗に乗って来るなんてよォ……滾るじゃねえか、オイ、やってくれたなぁ、坊主!」


 男は、わなわなと身を震わせ、爆発するように叫び、うわはは、と笑った。


「最強の剣士と《水平線》最後の秘剣の対決! はは、ははははは! 最高じゃねえか、こんなの! 震えねえ奴は、男じゃあねえさ!」

「……盛り上がってるところ悪いけど、でかい声は遠慮してくれ。あちこち骨に罅が入ってるんだ」

「ははははは! そんなのすぐに治せ治せ! 治療水なんざいくらでもくれてやらあ! シャロ! 丁寧に塗り込んでやりな!」


 ハーヴィスはマントの懐から、硝子の小瓶をシャロに投げてよこした。

 仄かに光る怪しい液体から、魔力の力を感じる。

 かなり貴重なアイテムのようだが、そんなものに《魔法卿》は目もくれず、興奮した様子で話を続ける。


「さあ、対策を会議しなきゃなあ! だが相手はかなり強い。心してかかろう。俺の知っている情報を全て渡す。なんせ、星を崩す男だからなぁ」

「……あんたの情報を当てにしていいかどうか、僕ァまだ半信半疑なんだがなあ」

「【破神の籠手】を得たのは、とても大きい。是非活用したいところだが、安全装置が壊れているようだな。下手に使うと、こちらの被害が大きいな。使用できるとしても一回きりだ。慎重に考えよう」


 レウの苦情を無視して、ハーヴィスは机の上に鎮座している、金色の籠手を見やった。

 エルセイドとの戦いの戦利品だ。装着する者に最強の怪力を付与する妖精武器。

 だが、レウ自身の手によりその性能は狂わされ、持ち主ごと破壊する過剰な力が注がれる、呪われた武器へと変貌した。

 健全であればこれを活用できたのであろうが、ハーヴィスの言う通り、下手に使うことはできなくなってしまっている。


 だがそれを悔やんでもどうしようもない。

 ハーヴィスはアルスの情報を惜しげもなく開陳し、レウとシャロは遅くまで、どう戦うかの議論を交わした。




「なんだか、ずっと、夢の中にいるみたい」


 議論を終えると、とても満足した顔で、ハーヴィスは消えていった。

 残ったシャロとレウは、心底疲労しており、そのまま二人は、頭を休息させるため、地下湖が見下ろせる広場までやってきた。

 光苔の燐光が、二人だけの世界を微かに照らす。幻想的で、何処か優しい風景に、彼らは心を落ち着かせることができた。


「魔導書を集めていた頃は、前に進んでいる感じがしなかった。碌な魔導書なんかないし、ちょっと火を起こせたり、魔物を呼び寄せたりするような、どうしようもない魔法ばっかり覚えて、姉さんを助けることができるのは、いつになるのかって、思っていた」

「あのおっさんの言うことを真に受けるからだよ。《魔法卿》だか何だか知らないが、常人の感性ってものを持ち合わせてない野郎だ」

「ふふ。うん、今思えば、本当にそう。だけど、レウ。あなたに出会ってからは、私はずっと、慌ただしく前へ前へ、走ってばかりの毎日だ」


 その時、シャロが、レウの手を取った。

 光苔に照らされた、その白い肌は暖かく、彼女の顔は、透き通るように綺麗だった。


「まだこれから、強敵と戦わなきゃいけない。その覚悟を決めたレウに、とびきりの感謝を。勿論、私も一緒に戦う。そして――もしも。【星剣】を得て、姉さんを取り戻すことができたら」


 ほんの少し、レウの手を握る彼女の指が、震えているように感じた。


「ここからもまた、一緒に冒険をしてくれない、かな。その、ええと――レウ。私は、その、あなたのことが」


 互いに同じ場所で命を賭けた。その生死の狭間の体験が、こんな感情を生み出すのであろうか。


 レウはシャロと見つめ合った。

 耳を打つような、早まる鼓動の音は、果たしてどちらのものだろうか。

 彼女を見つめれば見つめるほど、愛おしいという気持ちは遥かに高まり――そして。


 レウは、シャロと握った手を。

 するりと、離した。

 そして、彼の口から出た言葉は。


「ごめん」


 数秒の沈黙。それは、永遠のようであった。


「僕ァ……あの日。皆を見捨てて、一人だけ生き残った。僕を連れ出した人も傷だらけで、すぐに死んだ。すごく考えたよ。どうして僕だけ生き残ったんだって。皆等しく水平なのに、どうして僕だけ逃がされたんだって。そして、ようやく理解したよ」


 語るレウの顔は、地下迷宮が薄暗いからだろうか。酷く、陰が掛かっているように見えた。


「皆等しく価値は無いから、誰が死んでも同じなんだ。水平っていうのは、そういうことだ。だから価値のないはずの僕が、特別を作っちゃ、いけないんだ。シャロ、君が悪いわけじゃない。これは僕がどうしようもなく背負う、業なんだ」

「そんな……! ちが、レウが、無価値、なんて……!」


 シャロが、レウの言葉を否定しようとした。

 だけど彼の顔を見て、その言葉の続きは出なかった。

 初めから、そうだったのだ。二人の価値観は、どうしようもなく平行線だ。

 あの日、死んだ後も価値が残ると力説する彼女と、全ては無価値だと説く少年。

 今二人が重なっている見えても、交わることは無かったのだ。

 それを悟ったシャロは、レウに対してかける言葉は見つからなかった。


 彼女は、ぐっと唇を噛み締め、そして、にこりと、精一杯の微笑みを返した。


「――そうだよね。ふん、わかってたし、最初から。いいもん、私は、姉さんと一緒に出てっちゃうから」

「……シャロ」

「じゃあね、レウ。おやすみなさい。早く眠らないと、傷は治らないよ。こんな私だけど、よかったら最後まで付き合ってもらえると、嬉しい」


 そう言い残して、白い兎が足早に逃げるようにして、シャロはそこから立ち去った。

 少年は一人残り、湖を眺める。

 手を取ることは簡単だったが、信念を曲げることはできなかった。


『レウ~、不器用すぎ。一緒に行けばいいじゃん、そんな悲しいならさぁ』


 リーリスの声に、かぶりを振る。それができないから、不器用なんだと。

《水平線》の生き残りは、ただただ、じっと、湖を眺めていた。

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