塩の柱
風が吹く。燃え盛る炎に温められた空気が空へと昇るのだと昔バベル先生に教えてもらった。空へ空へ、火の粉は巻き上げられ、やがて消える。
消えないものもある。生じた白煙だ。西に流されているが、長く長く天に昇る。それが聖都に異変を伝えるだろう。新たな兵が来るのも時間の問題だ。
(急ぐ必要がある……)
独り言つ俺は、ラインツの執務室を出て砦の外壁に昇った。ここからは外壁の内側を一望できる。
混沌としていた。
燃える砦のいたるところで戦闘が続いている。
戦っているのは兵たちだ。だが様子はまともではない。
狂った兵が狂った兵と戦っていた。狂化されていないものは殺され、骸と化している。狂戦士だけがいつ果てるともない炎の舞台で殺戮の饗宴に浴しているのだ。
片腕がもげ、明らかに致命傷を負ってもなお戦うのを止めない修羅の群れ。改変魔法、
鮮血を浴び、狂乱の中咆哮を上げる兵たち。
最初は恐慌だったはずだ。だが今は快楽のために殺している。
これは人を人では無くする魔法だ。
まともな者が使う手ではない。だが。
「今の俺が扱うには似合いだ」
自嘲を込めた薄ら笑いが、自分自身への嫌悪感を助長する。
表では人を救い、裏ではむごたらしく殺す。それが今の俺だ。
この兵たちも、どこかの村から徴兵された者たちだっただろうに。
「――浸っている場合じゃない。後始末を……」
これを放置するには目立ちすぎる。砦一つがこの惨状。痕跡が残りすぎている。人の手で起こしたにしては異常な風景。
これを見れば、勘のいいエリックなら気づくかもしれない。自分が奪った神の力に関連するものではないか? とか。
そこから俺の存在を悟る事はできないだろうが、念には念を入れて、だ。
まだ気取られるわけにはいかない。
ゆえに、すべてを消さなくてはならない。ならばやる事は一つだ。
「あの――、」
と声が聞こえた。さきほどの娘だった。
近づく足音は聞こえていた。遅れて外壁に登って来たのだ。渡したローブを胸元までよせぎゅっと掴んで。赤く腫れた瞼は流した涙の為だろう。
不安げな視線はゆれる。炎の揺らめきを反射しながら。何かを言いたげだが、待てどもその口が開かれる事は無かった。
「――今から見るもの、知ったことを決して他言するな」
視線を逸らし、階下の惨状に向き直り言い捨てる。
「喋るならば、お前も殺すことになる」
元々、この砦に居る人間は残らず殺すつもりだった。
彼女がいたのは想定外だ。全員殺すと決めたのならば、彼女も殺すべきだ。その考えは正しい。何しろ彼女は俺の顔も見ている。だが。
「お前に罪はないのだろう。沈黙するならば見逃す」
そうだ。罪は無いのだ。彼女もまたエリックの被害者だ。
俺の復讐の障害になるようであれば、その時は殺せばいい。
だから今は、いいのだ。
そう自らに言い聞かせ魔力のコントロールに意識を集中させた。やるべきことをやれ。成すことに集中しろ。それ以外は些事だ。
身体中の魔力を循環させる。
めぐりめぐる力は渦まき、最後に目に集まった。
キュィィ――――ときしんだような音がする。
起動。展開。
いびつな円と片羽根の意匠を持った固有の魔力物質化現象。
ユーべルシアの教主に代々伝わる光輪翼。ヨベルの残滓。
大魔法の発動には時間がかかる。
ようやく準備が整ったことを確認した俺は、詠唱を開始した。
”いにしえに神は言った あの街を あの暮らしを想うなかれ 振り返るなかれ”
戦場で使うのは初めてだ。魔物討伐で使うには大規模すぎるから。息を吐き、ゆっくりと心中で魔法式を編みながら、言葉を紡ぐ。
通常、魔法の行使に長々とした詠唱は好まれない。
だが、過去神と人とが近かった時代。精神構築術式が存在しなかった時代に、より大きな力を求め複雑な呪文と空間の滞留魔力を使用するために使われた
”それは享楽の日々 なつかしきは退廃の宴 されど、背後に広がるは硫黄の海”
俺の口から紡がれていくものは、そういうものだ。
”もし、飲まれたならば、捨てねばならない。その人を。たとえ愛しき同胞であろうとも”
詠唱は28節。時間にして20秒。戦いの中では致命的な隙だ。
術式の構築が終わる。実戦には不向きだがその分強大な力を持った魔法。編んだのは
俺は手を振り降ろす。
「――静寂をもたらせ、
光が明滅し、広がる。足元から展開された波動は地を伝い、真円を描きながら狂った兵たちの下へ。
通過する。一瞬だ。だがそれで終わり。
異変は起こる。
それまで暴れていた兵たちのが硬直した。石化したように硬直。体表面が白く変化。その後ヒビが入る。かたちを崩す。生物としての結合が解かれていく。
立ったまま、顔が、身体が、衣服が、装備が、あるいは飛び散った血痕までが。俺が指定したすべてが白く崩れていく。
異変は生きた兵だけに留まらない。眼の光を失い地に伏せた兵士の身体もが白く染まった。そして散る。
変わったのは白い砂のようなものだ。塩。神聖であるがゆえに非情な物質。
兵たちがすべて塩に変わった。
その変化は迅速で、無慈悲だった。
暁光聖教会の最奥に伝わる古代奇跡。神罰魔法のうちの一つ。
神の威光を敵対するものの消去に特化させた、問答無用の殲滅魔法だ。
足元から放たれる光が消えた時、砦の中で動くものは俺とそばにいた娘だけだ。
「――これで終わりだ。お前の仇たちは残らず死んだ。塩になり、風に消えた」
娘はあまりの光景に呆然としているようだった。百人規模の人間とその死体が一瞬で消え去ったのだから無理はない。
「繰り返し警告する。ここで見た事。俺の事を他言するな」
返事も聞かず、振り返らず、彼女を残し足早に砦を後にした。
かつて兵であった塩の柱が、風に吹かれ急速に形を失っていくのを感じながら。
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