第3話

 篠崎には恐ろしい伝説が残っている。

 武州篠崎村(現・東京都江戸川区篠崎)に、4匹の悪戯狐が住んでいた。


 ある夏の日のこと。草原で狐たちが昼寝しているところへ、1人の行商人が通りかかった。商人は日頃の悪戯の仕返しとばかりに、大声で狐たちを脅かした。狐たちは飛び起き、慌てて駆け去っていった。


 その日の夕方。行商人が知人宅に立ち寄ると、その家の女房が亡くなったとのことであった。家の主人は野辺送り(亡くなった人を埋葬地まで見送ること)に行くと言い、行商人に留守を預けて家を出て行った。


 行商人がその家で主人の帰りを待っていたところ、女房の亡霊が現れ、行商人に噛み付いてきた。行商人は悲鳴を上げ、血を流しながら逃げ惑った。そこへ通りかかった農夫は、さてはあの悪戯狐に化かされたかと、行商人に水をひっかけたところ彼は正気に戻った。


 反省した行商人は、あの狐たちが昼寝していた場所へ行き、小豆飯と油揚げを備えて謝ったということである。

 武蔵権守となった興世王は、新たに受領として赴任してきた武蔵国守百済王貞連と不和になり、興世王は任地を離れて将門を頼るようになる。また、常陸国で不動倉を破ったために追捕令が出ていた藤原玄明が庇護ひごを求めると、将門は玄明を匿い常陸国府からの引渡し要求を拒否した。そのうえ天慶2年11月21日(940年1月3日)、軍兵を集めて常陸府中(石岡)へ赴き追捕撤回を求める。常陸国府はこれを拒否するとともに宣戦布告をしたため、将門はやむなく戦うこととなり、将門は手勢1000人余ながらも国府軍3000人をたちまち打ち破り、常陸介藤原維幾はあっけなく降伏。国衙は将門軍の前に陥落し、将門は印綬を没収した。結局この事件によって、不本意ながらも朝廷に対して反旗を翻すかたちになってしまう将門は側近となっていた興世王の「案内ヲ検スルニ、一國ヲ討テリト雖モ公ノ責メ輕カラジ。同ジク坂東ヲ虜掠シテ、暫ク氣色ヲ聞カム。」との進言を受け、同年12月11日に下野に出兵、事前にこれを察知した守藤原弘雅・大中臣完行らは将門に拝礼して鍵と印綬を差し出したが、将門は彼らを国外に放逐した。続いて同月15日には上野に出兵、迎撃に出た介藤原尚範(同国は親王任国のため、介が最高責任者。藤原純友の叔父)を捕らえて助命する代わりに印綬を接収してこれまた国外に放逐、19日には指揮官を失った上野国府を落とし、関東一円を手中に収めた。八幡神と菅原道真の霊の神託が降ったことにより、「新皇」を自称するようになり、独自に除目を行い岩井(茨城県坂東市)に政庁を置いた。即位については舎弟平将平や小姓伊和員経らに反対されたが、将門はこれを退けた。菅原道真の霊がここで登場するのは、道真の子息たちが東国の国司に任命されており(菅原景行が常陸介、菅原旧風が武蔵介、菅原兼茂が常陸介)、特に兼茂は承平年間の後半ごろに常陸介であっただけでなく、『扶桑略記』には彼が父・道真の霊と対話したという逸話が記されているため、兼茂が常陸でこのことを語ったことが、将門の「新皇」即位にも影響したのではないかという説がある。


 数馬は篠崎駅の隣りにある瑞江駅にやって来た。瑞江駅は東京都江戸川区瑞江二丁目にある、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線の駅である。駅番号はS19。

 駅の周辺には東部フレンドホール、東部区民館・江戸川区東部事務所、ラパーク瑞江、サミット瑞江店、ドン・キホーテラパーク瑞江店、セリアラパーク瑞江店、瑞江駅前郵便局、江戸川区立瑞江第二中学校、江戸川区立瑞江第三中学校、フジマート瑞江店、ティップネス瑞江店などがある。


 駅から歩いて20分のところに『パリス』ってオーベルジュがあった。主に郊外や地方にある宿泊設備を備えたレストランである。

 日本では1970年代以降、フレンチの一般化と共に、全国の観光地やリゾート地、別荘地などにもオーベルジュがオープンするようになった。現在の日本におけるオーベルジュは、日本独自の旅文化とも融合し、日本料理や世界各地の料理を提供する多彩なスタイルで登場している。前述のようなフランスやヨーロッパ各地のオーベルジュを体験し感銘を受けた料理人などが、同じようなきめ細かなもてなしや土地ならではの旬の食材を使った料理を提供する宿泊施設に憧れて開業するパターンが多い。


「オーベルジュ」は商標ではなく業態であり、その実態は宿泊施設を備えた「レストラン」である。したがって、オーナーは料理人であることが多く、宿泊業をメインとするペンションや旅館とは異なり、宿泊業と飲食業を兼ね備えている施設がほとんどである。宿泊業がメインではないためレストランの規模に合わせた宿泊設備を備えるという考え方があり、結果として客室数の少ない施設が多い傾向にある。


 オートキュイジーヌを頂いた。フランス料理の類別の一つ。宮廷料理に起源を持つ、伝統的な高級料理(フランス語でhauteは「高い」「高級な」、cuisineは「料理」「台所」)。複雑な味付けと手の込んだ飾り付けが特徴で、主にレストランやホテルなどのコース料理として提供される。


 フランスの宮廷料理は17世紀あたりから変化が見られ、のちのオートキュイジーヌとして成立していった。ルイ14世の宮廷料理人であり作家でもあったフランソワ・ピエール・ラ・ヴァレンヌ(1615年 - 1678年)が料理法の変化がおきていることを記している。 それによると、以前に比べ味付けが少し薄くなり、盛り付け方が洗練された。例えば、肉の塊をだすの止めて、少しずつ切って調理するようになった。またアントナン・カレーム(1784年生まれ)が初期フランス料理の複雑な調理法を単純化、明文化している(といっても、現代から見れば十分に贅沢なものが多い)。


 1900年頃、オーギュスト・エスコフィエによってオートキュイジーヌはより現代的なものに変化させられた。彼は、カレームやジュール・グーフェなどの料理をより簡素なものに作り変えた。これらは、キュイジーヌクラシックとしても知られる。また、これらの料理を大きなレストランやホテルで提供するようになった。 最も大きな変化としては、料理がコース化されたことである。それまでフランスでは一度に全ての料理を提供していたが、当時のロシアのように料理を一つ一つ順番にだすコースに変化した。また、エスコフィエによって料理はよりシステム化され、ソースや調理などの方法が整理された。


 1960年代、ヌーベルキュイジーヌが台頭してきた。これは言ってしまえば、エスコフィエの料理の否定であり、より軽く、より簡素な料理へと変化した。特に素材の自然な味が重視されるようになった。1990年代にはオートキュイジーヌへの回帰が指摘されている。

 

 オードブルはテリーヌ。テリーヌはパイと同様に中世ヨーロッパで料理の保存技術として発展してきた。伝統的なレシピのテリーヌは具材と敷き詰める脂の比率が2:1程度となり、大量のゼラチンと脂が具材の変質を防ぎ調理後1週間は食べられる。


 型にバターや豚の背脂を敷き、挽肉やすり潰したレバー、魚肉のすり身、切った野菜、香辛料などを混ぜたものを詰めてオーブンで焼く。湯せんで火を通す場合もある。焼きあがった後、冷まして型から取り出して、1cmほどの厚さにスライスし、コース料理の前菜として供されることが多い。


 アントレはフォアグラ。フォアグラは、世界三大珍味として有名な食材。ガチョウやアヒルに沢山の餌を与えることにより、肝臓を肥大させて作る。フランスでは、クリスマスや祝い事の伝統料理およびご馳走として食される。フランス料理の食材の一つであり、宮廷料理として供されたり、美食家や富裕層にも食されている。

 

 プラ プランシパルはポトフだった。フランス語でpotは鍋や壺、feuは火を示すため、「火にかけた鍋」といった意味になる。

 牛肉と、大きく荒く切ったニンジン、タマネギ、セロリをじっくり煮込んである。スープは食塩や香辛料(黒コショウ、ハーブ、クローブなど)で風味を調えてある。

 

 パティスリーはミルフィーユ・ロン。丸い形状のミルフィーユ。側面にはカスタードクリームを塗り刻んだフィユタージュをまぶし、上面に粉砂糖をまぶしたもの。


 フランス語で mille は「千」、feuille は「葉」を意味しており、一般的にmille-feuilleは「千枚の葉」という意味だと理解されている。そのため、本来の発音は「ミルフイユ」または「ミルフェイユ」が近い。


 ミルフィーユに用いるフィユタージュは、四角く広げた小麦粉生地に平らにしたバターを乗せ、何回も折りたたんで作るもので、折りたたむ工程を重ねるほど層が増し、パリパリとした食感になっていく。工程を5回繰り返し729層となったものや、6回繰り返し2187層になったものが主に用いられており、その層になった生地を何枚か重ね合わせて、さらに沢山の層をなしているという状態を「千」で表現し、また層になったフィユタージュの落ち葉をイメージさせるような独特の焼き上りを「葉」として表現し、mille-feuilleという合成語として文学的に言い表したものが名前となったとも考えられている。


 偉大なる古典といわれる菓子であり、1807年にはフランスの『食通年鑑』の食味鑑定委員会がミルフィーユを鑑定している。創造者は同時代の著名な菓子職人であり料理人であったアントナン・カレーム だとも言われているが、彼自身も「起源は古いもの」と表現していた。一説によれば、アラブの古い菓子である「パータ・フィロ」が、7~8世紀のヨーロッパ侵攻の際フランスへ伝わり、その後いまの形まで進化した説、17世紀に画家として名を成したクロード・ロランが見習いパティシエであった頃考案したとの説、同じく17世紀にコンデ公のお抱え菓子職人フィエ が考案したとの説もある。また、古代ローマ時代には薄いケーキやシートを蜂蜜とクリームまたはソフトチーズと一緒に重ね合わせたお菓子が存在し、現在のミルフィーユの遠い先駆けとも言える。


 初期のミルフィーユは上面にするフィユタージュ生地に卵を塗り、粉砂糖をふりかけオーブンで焼き、表面をカラメル化するといった仕上げ方だったとも言われている。現代の製法に見られるような、上面への糖衣がけは1822年頃になって用いられ始めたもので、今日に至るまで職人が様々に工夫を凝らし続けている菓子でもある。


『ドゥ』の部屋に入った。フランス語で2を意味する。

 テレビをつけてびっくりした。沙織が殺されてしまった。やったのは七瀬だろうか?沙織はワガママで炊事や洗濯を数馬に任せていた。そのくせ、『塩味がキツい』、『洗剤の匂いが気に入らない』と文句ばっかり言う。けど、彼女の笑顔を二度と見れない。

 小説の続きにとりかかった。

 精神病院に送られた雷鬼に、朝霞は新作の小説を贈りに訪ねてきた。

 

 雨の降る夜、篠崎駅の近く。

 恋人を殺した犯人を探し車で移動していた青年、神馬じんまは、一人のヒッチハイカーを拾う。その男は備前びぜんと名乗り、目的地を訊ねても答えず、不遜な態度で神馬を脅かす。やがて、自分は先ほどヒッチハイクをした車の持ち主を惨殺し、神馬にも同じことをするつもりだと語ってナイフを突き付けてきた。何が目的なのかと訊ねる神馬に、ライダーは「俺を止めてみろ」と答える。


 隙を見てライダーを車から叩き出すことに成功した神馬だったが、翌朝、ライダーを乗せた家族連れのワゴン車が自分を追い越して行くのを見る。停車したワゴンに追いついて中をのぞくと、家族連れは残らず惨殺されていた。神出鬼没のライダーは、執拗に神馬につきまとい、彼を沿道での連続殺人の犯人に仕立て上げる。その一方で、神馬をとらえた保安官たちを皆殺しにし、逃走を続けさせようとする。


 海外から研修に来ていた、ピーターと連絡を取り自首を決意する神馬だったが、ライダーの妨害により、ますます追い詰められていく。ただ一人の協力者となったカレー屋の店員、梅子とともに激しい警察の追跡を振り切った神馬は、モーテルに逃げ込む。


 だが、今度は梅子がライダーの手に落ち、トレーラーのトラック部とコンテナの間に縛り付けられてしまう。運転席ではライダーがエンジンを吹かしながら駆けつけた警官隊を威嚇し続けている。ライダーの足がブレーキから離れたら、梅子は真っ二つだ。


 ピーターの要請でトラックに乗り込んだ神馬に、ライダーは拳銃を渡して自分を撃つように言う。

 

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