探偵ごっこ遊び

星乃カナタ

『雪凪刹那①』

 僕という世界の幕を閉じる上で、神楽鐘かぐらがね雪凪せつなぎと本格的に付き合うようになったあの瞬間のことを忘れることはないだろう。


 僕はとある高校へ入学した。

 趣味のライトノベルの影響もあって、夢のような高校生活を送れるのだとなんでか期待したいたのだが、当然のように陰気臭い僕にそんな未来が待っているわけもなく。

 入学から三ヶ月ほどで現実と理想の乖離かいりを理解して、憧れのラノベ主人公のような生活なんて送れないのかと絶望した。流石に二年生になれば何かしら人生のターニングポイントぐらいあるだろうとせめてと期待したが、的外れなものであって、何もなかった。

 何もなかった、というのはそのまんまの意味である。


 体育祭や文化祭、主な学校行事。その全てにおいて欠席に欠席を重ね、そこで生まれるはずであった友好関係、人間関係が皆無。

 そう、何もなかったのだ。


 二年生の中盤まで空っぽで生きてきた僕には友達なんて碌におらず、いや一人もいなかったために、クラスでは孤高の雑魚という異名さえ持っていた。誰が命名したのかは知らない。ただ二年生の夏休み明けから、陰口のようにそんなことを囁かれていたのを覚えている。


 違う。そんなことはどうでもいいのだ。


 ともかく、ボクという存在は世界に大して何ら影響のあるものではなかったし、ただちょっと”ボッチ”なだけの普通の男子高校生だったのだ。


 そんな色褪せる世界から解放、いや、追い出されたのは高校二年生の秋。


 ぼく、『緋色坂ひいろざか徒京とけい』と、かのじょ『神楽鐘かぐらがね雪凪せつなぎ』は正反対という言葉が似合う関係だ。


 僕は学校内では勉学面でも、スポーツ面でも、その他諸々何もかもで落ちこぼれであった。模試の結果なんてもう死んでいるし、普段のテストだって数学と社会以外は出来があまりにも悪く、下から数えた方が早いし、というかテストの度に最下位争いをしている。

 中学から続く帰宅部の王でもある。僕はスポーツだって出来やしない。

 性格は良くないし、金持ちでもないし、ナニモカモガ終わっている。

 冴えない男子高校生。


 だが彼女は違った。

 勉学面でも、スポーツ面でも、その他諸々何もかもで優等生であった。優秀すぎるが挙句、奨学生として高校に通っていて学費が免除されているらしい。加えてスポーツも出来るらしく、卓球では県大会優勝を果たしている。

 ゲンキハツラツ、誰に対しても優しいその性格からクラス受けは良く、人気者。

 誰がどう見ても彼女という存在は天才だった。決して秀才ではない、一つの間違いもすることのない天才だ。


 交錯であいの余地なんてなかったのだ。


 その刹那の前に、彼女とは一度だけの因縁があったけれど。そんなのは大したことないことであって、意味もないことであって、僕と彼女で接点はなかったのだ。


 共通点なんてない。相違点ばかりだ。

 なにせ、確実に徒京と雪凪という人間は”正反対の存在”であり、相容れないモノなのだから。


 廊下で彼女とすれ違う度に吐き気さえも感じる。


 つくづく実感するのだ。神様っていうのは性格が悪い、とな。僕と彼女は同じ世界に生きていて、同じ人間という生物なのにも関わらず、なんでここまでも境遇が違うのか。ステータスが違うのか。

 僕は別に常人から離れた道を歩いてきたワケじゃない。

 ただただ生まれてきて、ただただ育って、ただただ生きてきただけなのに。普通の男子高校生なのに。

 何が違ったっていうのだろうか。


 彼女という存在を理解した今でも、どこか遠くで嫉妬している。


 もし、僕があの時にみた化け物の一人が本当に神様だというのならば、本当に神っていうのは怖いもんだ。多様性の蔓延った社会で、差別の源を創っている張本人。

 ふざけるのも、大概にしてほしい。

 もっともこれは日本のカミサマの話で、外国の話は知らない。

 なにせ学がないから、そこまで思考は及ばないのだ。

 自分でもソレは承知しているつもりである。


 話を戻すとして、そんな対義語的な存在、水と油的な存在である緋色坂徒京と神楽鐘雪凪にも共通点というのが存在する。

 ただただ、単純なものだ。

 誰でも、聞けば簡単に理解できること。

 僕も勘違いしていたのだ、自分のことを。

 僕は勘違いしていたのだ、彼女のことを。


 ただの、その共通点っていうのは。



 良くも悪くも。

『普通ではない────』

 ということだけだった。



 カッコよくいうとするのならば、意味不明に言うのなら二人とも色褪せる世界から追い出されて、いつまで経っても治らない呪いに縛られ続ける怪物だったのだ。

 実際に彼女はある意味で天才であったし、周りにのみんなから好かれている。だけど、他人から期待されるという感情というのは、たとえどんなにも出来た人間でも簡単に押し潰せるほどに、大きなものだったのだ。



 ◇◇◇


 西暦20XX年。十一月、二十三日。


「……無理だ」

「急にペンを止めて、何してんだよ」

「僕には解けないと云っている」

「はぁ? この過去問、正答率五十パーセントの問題だぞ?」


 ”人には二種類の存在がある”。


 ぼくか、ぼく以外か。

 お前か、お前以外か。

 金持ちか、金持ち以外か。

 勇者か、勇者以外か。

 陰キャか、陰キャ以外か。

 天才か、天才以外か。

 凡人か、凡人以外か。


『否』。

 それどころじゃない。その質問で分けるのならば、この世界において存在する回答は即ち無限だ。「○〇には二種類の存在がある。」その質問さえも無限だ。だがそれぞれの無限数の質問には、答えは二つしかない。

 そうか、そうではないか。

 ただそれだけなのだ。だから世界というのは案外、無限とたった二つの回答で出来た単純構造であり、説明するのは簡単なのだ。


 少なくとも、僕はそう考えていた。

 しかしながら、まことに遺憾ながら、例外もある。


「……だがしかし、国語。こいつは違う。お前の答えは有限じゃない、無限だ! 面倒だよ本当にさ。国語の問題ってのは許せない」

「なぁ、何言ってんの? さっきから」


 問題の種類が無限なのが許せないんじゃない。

 僕は、答えが有限じゃないのが許せないのだ。


「さっき説明しただろ。無限数の質問と、有限の回答だよ。それは許せる、だけど国語のこの問題ってのは答えは有限ではない。無限なんだよ」

「ん~、何の話をしてんのかわかんないが。今回の場合は文字数制限があるし、答えても問題に合ってなければ正解じゃないし、つまりつまり答えは有限だろ」


 眼前。現代文、大問一。

『この△△が○○を■■した時の心情を、文章中の言葉を使って四十五文字以上~五十五文字以内で書きなさい。』


「いやいや、僕が言っているのは国語全般の」

「俺たちが解いてるのはこの問題だろ、なぁ」

「うぐ。いやまぁ、そうだけど」

「屁理屈言わないでさっさとやるぞ」


 男勝りな強気な発言が目立つ、この少女の名は秋葉あきは木色きいろ。ショートボブの黒髪に、透き通る黒きまなこ

 女子高校二年生。僕の同級生であり、幼馴染であり、竹馬の友。加えてスラりとした体型で、巨乳。そのビックな態度や胸とは真逆で、黙ってさえいれば幽霊のようで、人形のようで、影が薄い。その場に溶け込む。

 そしてスポーツの成績も優秀、勉強も優秀。大体、テストでは学年二位ぐらいをいつも維持している。

 才色兼備のお嬢様。性格には難あり。

 あれだ、黙っていれば可愛いのに。ってやつだ。

 性格が損してるってやつだ。


 だから周りからは避けられているらしい。

 時々、クラスメイトの「神楽鐘さんは羨ましいねぇ」と言っていたりしている。コイツも出来るタイプだから、それよりも上を行く天才の存在に何か思うところがあるのだろう。


 ん。というか屁理屈じゃねーし。

 ちげーし。

 僕は心の中で、ツッコミを入れておく。僕が言っているのは整然とした論理を展開しているだけで、決して屁理屈と呼ばれるものではない。


「へっ、屁理屈って言われて不服そうだな緋色坂クンよ」

「もちろん、屁理屈じゃないからな。その事実否定の過ちはゆるせん」

「一々細かいんだよな。もうちょっと大雑把に生きたらどうだ?」

「無理だね、この徒京ぼくには」


 一々細かいことを気にすると評価されるこの男こそが緋色坂ひいろざか徒京とけい。ぼさぼさの整ってない髪に、濁った双眸。勉強全般、スポーツ全般が得意ではない。

 基礎ステータスEといったところか。

 嫌いなものはこの世界とトマトジュース、大蜈蚣おおむかでと幽霊、好きなのは僕の脳内世界とラノベに、辛い物。

 そう、それこそが僕だ。


 なるほど。

 一言だけ付け足しておくとすると、緋色坂徒京は一々細かいことを気にする人間ではなく器の広い美青年である。


「因みに嘘だぜ」


 ぼくはたちあがって、さけぶ。


「っぼくの脳内を視姦しかんするな! それに否定するな!」

「なんだ、また自己肯定感高め癖が脳内で発動してたのか」

「してねーよ」


 因みに嘘だが。

 それは彼女には捉えられることのできないフェイク。


「自己肯定感高め癖ね。この僕に、本当にそんなものがあるとでも?」

「あ? そりゃそうだろ。一言一句そのすべてから滲み出てるし」

「具体的にはどういうところだよ」

「だからその全てだって」


 椅子に座って、腕を組む。


 まあ。その答えはやはり察した通りであったが、なるほど。僕だってその癖には幼い頃から悩んでいるんだ。

 自己肯定感を高くしようとしてしまうのは、産まれた時からそうだった。

 直そうとしても治らない不治の病。


「あのなぁ、云っとくが僕だってその癖にずっと困ってるんだよ」

「オレだって困ってるよ、テメェのその怠惰さには」

「…………あのなぁ、誰のせいでこんな性格になったと思ってる。小さい頃に、何かあるたびにお前に殴られたことを僕は決して忘れやしないぞ?」

「へっ、だから一々細かけぇんだよ」


 眼、細めて彼女は嘆息を吐く。


 このままだと、僕の性格についての話題になりそうだ。

 うむ。人間にある”癖”だって性格みたいなものだろう。

 というか、半ばその話題になっている。話題とは言っても、侮蔑のコトバだらけ。心地よくはない。話題にしてほしいもんでもない。

 ああ、神様がいるなら僕を助けてください。

 この不幸で最凶で、最悪で、破滅的で、壊滅的な緋色坂徒京に。


 ああ、でも神様なんていませんよね。

 知ってます。分かってますよ。

 だから自分は、自分で自分に祈り、自分を救いあげるのだ。


 話題を変えてやるぜと心の中で意気込んで、言う。


「こほん、と。貴様、どうやら悩んでいるような顔だな」

「あ、は? 急に話題が変わったな」

「ごほっっんっっ。失敬、わたしくし紳士だから、気になってしまうのよ。そんな悩んでいる顔をみると」

「一度殴ったほうがいいか?」


 再び立ち上がって眼前の猛獣から身を引こうと、飛翔するように後ずさりする。


「やめろ、それは冗談抜きに」

「お前ビビりすぎるだろ」


 椅子が後方に倒れ、ガタンと大きな音を鳴らす。今が週末の放課後、図書館じゃない限り怒られているだろうほどの大きな音だ。

 自分自身が原因で鳴らした音なのにも関わらず、自分でビックりして肩がビックんと震えてしまう。


 そして同時刻、トラウマが脳裏をよぎる。


 痛い。ああ、痛い。

 殴られた幼き頃の記憶。

 口喧嘩しては殴られて。ゲームでこちらが勝ったら殴られて。試合に勝ったら勝負に負けて、殴られて。

 木色は暴力少女だ。

 僕はそれを痛感している。


「にしても、本当にないのか? 悩み事とか。え? いやなに、僕の悩み事? いやいや、今はそんな話してないし、興味ないだろ? でも、木色。お前は流石にあるだろ、年頃の女の子なんだしさ」

「オレはまだ何も言ってねぇ。しかも今はそんな話していた」

「まぁ、何かないのか」


 もう一度、椅子に座って。


「んーあー、そうだな」

「む?」

「最近だなー、というか、今日。せっかく俺様が勉強を教えてやってるのに屁理屈ばかり言って話を逸らしてるやつがいるんだよなぁ。まじ勘弁って」

「どこかで聞いたことある話だ」


 最近、しかも今日って。

 悩み事って意外にも、まじかにあるもんなんだなと実感する今日この頃。しかも最悪な野郎だな、ソイツ。

 勉強を教えてもらってるのに屁理屈ばかりで話を逸らしてるやつ?

 そんなヤツいたらムカつくだろうな。大変だろうな。絶対、もう勉強教えてやんねーなんて思うだろうな。


 そしてそんなヤツって、僕だろうな。


「……さて、他にないのか。他に。もっとマシなヤツでさ」

「最近だなー、というかここ一週間。今までサンドバッグになってくれてたあるヤツが、自我を持ち始めたのか逃げるようになってなぁ。一々捕まえるのが大変なんだよ」

「どこかで身に覚えのある話だ」


 最近、しかもここ一週間て。

 やはり悩み事って意外にも、まじかにあるもんなんだなと改めて実感する今日この頃。しかも最悪な野郎だな、ソイツ。

 こんな美少女のサンドバッグになれるっていうのに、逃げるって?

 そんなヤツいたらそりゃあ、さぞかしムカつくだろうな。捕まえるの大変だろうな、もう一生関わってやんねーと思うだろうな。


 そんなあるヤツって、僕だろうな。


 ────待て。


「全部、僕に対しての間接的な文句じゃないか! しかも、たちが悪い。一個目のはトモカク、二個目は完全に! お前に! 非があるだろうがっ!」

「っち、バレたか」

「逆にどこでバレないと思う要素があるんですか、秋葉さんっ」

「自分で探すのが、学になるから教えねぇよ」


 鉛筆の先端をこつんと机に立てて、彼女は嘲笑する。

 反論の余地がない煽りだ。

 学力が僕よりも圧倒的に高い木色だからこそ、この緋色坂に圧倒的な煽り効力を発揮するのだ。


 解説していて、更に悲しくなった。

 理解するということは、最も心に刺さる行為なのだ。何事においても。


「あーくそ、もう手が付けられっ」

「いくぞー、3……4…………!!」

「待て! まだ殴るには早い。というかカウントダウンのくせに増えるな」

「…………1!」

「急に減少するな!」


 叫び過ぎて喉から吐血してしまいそうである。

 今から水を飲んでも、もはや手遅れ。というか木色は此処が学校内であるのにも、右こぶしを振り上げて標的は我が心臓に。

 まずい、避けきるには時間が足りない。


 やばい、本格的にコレはまずくてやばい。

 秒速五キロメートル。

 早すぎるますよ、あんたの拳。

 僕じゃなきゃ見逃しちゃうね。


 まぁ、僕も視認出来るだけで反応は出来ないのだが。

 殴られるまでレイテン一秒前。

 眼を瞑り、死後硬直した。


 まだ死んでないけど。


「ちょっ」


『ピピピピピピピピ!』


「あ?」


 拳は止まって、ポケットに入れた着信音が始まる。

 誰からだろうか。そして長年の付き合いというわけで温情か、彼女は拳をほんの当たる寸前で止まってくれた。

 助かったなぁとのんきに安堵を一丁。


 時間が静寂に包まれて、僕は携帯をポケットから取り出す。


「はし、もしもし」

「お。やっと出たかね徒京クン。ん、何か息が荒いが、大丈夫か? 女に迫られてたりするのかね? そりゃ失敬」

「いや、猛獣に殺されかけてたってうえっぶ、おい! やめて! 痛い!」

「おーおー。大丈夫そうだね」


 電話に出た数秒後、何故か左頬は赤く腫れていた。


「いや、大丈夫ではない」

「若いから大丈夫だろう、ああ、うん。……それで徒京クンよ。出番だよ」

「あ、出番すか。乱暴なのは嫌ですよ」

「おーおー。大丈夫そうだ、多分だがね」

「え、ちょ」


 それって大丈夫じゃないっていう意味だ。

 直感が全てそう絶叫している。


「場所は或間街の駅前、パン屋さん夢丸で。そこに来たまえ」

「は、なぜパン屋?」


 この疑問に答える前に、彼は電話を切る。


「……はぁ」


 やれやれ、いつも通り。

 何て人遣いの悪いヤツだ。

 いいや。あれはもはや、人と呼べる存在じゃあない。

 口内が切れたのか、液体がこぼれて鉄の味が舌に津波として伝播した。


「誰からの電話だ?」

「ん。そうだな。あえて表現するなら、お前よりも恐ろしく、バイオレンスな冗談抜きで冗談が通じない、半ば詐欺師の”探偵モンスター”だよ」

「?????」



 ◇◇◇



 高校の駐輪場はかなり寒い。

 いやま、場所を特定しなくてもそうなんだが。今日はとても寒い、もしかしたら雪が降るかもしれないレベルだ。

 少なくとも便利な携帯のお天気予報アプリには、そう映してあった。

 雪か。


 雪は好きだが、嫌いでもある。


「自転車漕ぐって話なら、滑るからなぁ。嫌いなんだよ、ブレーキなんて効かないし」


 赤いママチャリに跨って駐輪場を後にする。

 僕は吐いてしまった白い息を置いてゆき、ペダルを漕ぐ。あまりの寒気に、露出した指は凍り付いて、温度を忘れた。

 やばい、凍傷になっちまいそうだ。


 白いため息を吐いていると、一人の通行人が目に映った。蒼のコートに赤いマフラーを着る大学生っぽい、金髪な男の人のポケットから──何かが落ちたのだ。

 目を凝らして、その物体を確認した。

 黒くて、長細い。

 あれは、財布だ。


「流石に財布を落とすのは、焦るか」


 僕は乗ったばかりの自転車から下り止めて、財布を拾いに行く。手は今にも凍り付きそうで、非常に動かしずらいが我慢して、僕はソレを拾い上げた。

 そして走って名も知らぬ通行人に渡す。


「これ、落としてましたよ」

「……え? ありがとうございます、わざわざすいませんね。俺はドジなんですよね、あはは」

「いえいえ。財布をなくしちゃまずいですからね」


 彼は財布の中身を確認したのち、再びポケットに入れた。

 ……そして、こちらに一礼する。その青年は多分、僕より年上だ。だけれど、そんな年下にも丁寧な言葉遣いをしてくれる。

 それだけで、育ちの良さがわかるね。


 こういう人に奉仕すると、ああ、やってよかったと思える。


「じゃあ、本当にありがとうございました」


 そう言って彼はその場から去る。

 こういうちょっとした善行の積み重ねっていうのは大切なことだ。──見返りを求めるわけじゃない。ただ、そういうことをしていれば徳のある人間になれる、ってだけの話だ。


 それにこういう何気ないところで出来た何気ない縁というのは、何気ないところでまた結ばれるものだからな。

 やっておいて損はない。


 僕は止めていた自転車に乗り、再びペダルを漕ぎだした。


「さて、早く向かうか。善行をしてたって理由でも遅れたら怒られちまうし、というか、信じてくれなさそうだしな。それに待たせ賃とか取らされそうだ」


 ぶつぶつしゃべりながら走る。


「ああ、口も動かなくなってきた」

「喋ってると口の中に冷たい風が入ってくるからな。寒い寒い。うわ、雲が黒いなぁ。今すぐにでも降っちまいそうだ」

「しかも、寒すぎて神経が暑くなってきた。血液が集まってきてる、感覚が麻痺してくるのも納得だな」


 独り言をぶつぶつ幾千も並べて自転車の輪を回してみれば、汗をかいて寒さを忘れてきた。

 でも実際には寒くて、口が本格的に止まってきた。

 まぁ別に叫ぶこともないし、良いけどね。



 と、刹那。



 何かが──僕の前方を横切った。

 そこは、ただの歩道だ。それは最初、猫のようにも見えたし、散歩中の犬にも見えたし、僕と同じように帰宅中の自転車にさえ見えた。

 ふわりと浮いたような正体不明の物体。

 少なくとも財布ではない。財布は先ほど見た。

 違う、それは人だった。ヒトの輪郭を視認して僕は目をかっぴらく、瞳孔は大きく開かれてただ口を開くのだ。


 まずい、轢く。


 反射的にブレーキを握りしめ、タイヤは音を鳴らして慣性に抗う。

 しかし、止まれない。止まれないのだ。タイヤは摩擦熱によって熱を持って、音を鳴らしながら絶叫する。運動エネルギーが、別のエネルギーに変換されて逃げながら、自転車は速度を落としていった。

 しかし、止まれない。

 せめて当たらないようにとハンドルを右に切って、彼女から回避しようとする。


「ぎゃぁああああ!?!?!?」

 どうやら叫ぶこともあったらしい。


 まぁ、ああ、ぶつかるわコレ。

 学校退学オア停学の未来図を予見しながら、盛大にライダーは転んだ。ガラガラガッシャんと音を立てて。


「いってぇ……」

「わわ、大丈夫!?」

「いえ、そりゃこちらこそ。ってあれ、神楽鐘かぐらがね?」


 やれやれ、盛大に自転車から転げ落ちて制服が土まみれになってしまった美男子。ここに現るが、流石にダサイし、僕は何事もなかったように自転車を立てて起き上がり紳士を演じつつ、目の前にいるはずの声の主を直視した。

 体中がズキズキするが、それよりも相手側の心配をするべきだろう。


「って、は?」


 そこでやっと気付いた。

 ──神楽鐘かぐらがね雪凪せつなぎ

 金色こんじきのツインテールに、抜群のラインを描くスタイル、絶壁、僕の同級生である。


 僕とは正反対な存在。他者、クラスメイトからは絶大な人気を得ている、ただの──天才少女であり、人気者。

 なぜ人気なのか、その理由は瞭然だが、彼女の美貌、彼女の天才肌な頭脳、単純にスポーツができるといった具合に木色と同等レベルの役満であるからだ。

 良い意味でな。


 もっともコミュニケーション能力が低い? 壊れているという理由で、友達はできても直ぐに破綻してしまうとかなんとからしい。


 って、それどころじゃなかった。


 説明しよう、何故僕が彼女を見て驚いたのか。

 いくら出来損ないで劣等感ばかりを積み重ねて、初めから自己肯定感を高める癖があった僕とはいえど、ただクラスメイトからの陰の人気者的存在をみただけで絶句するわけじゃない。

 それは簡単なことだ。


「浮い……て、る、のか?」


 言葉通りの理由だ。

 そう、彼女は浮いていたのだ。瞬間的にではなくて、持続的に。ふわふわと浮遊霊みたいに浮いていたのだ。普通では有り得ない現象に反射的に瞳孔が開く。────まるで、この世界に存在しないかのように。無重力。

 制服姿だったため、スカートの中身が見えそうではあるが絶妙に視線が届かない。ここで太陽による影の存在と、自分の視力の悪さを初めて恨んだ……じゃない。


 開いた口が塞がらない。そりゃそうだ。

 だって、浮いてるんだもん。

 クラスでも浮いてると思ったら、物理的にも浮いてって?


 笑えるな、ああ、そりゃ僕のことだ。

 泣けてくるな。


 ではない。今は驚いている最中だったのだ。


「ばいばーい、ごめんーっ」

「は? おい、ちょっと待て。それ、どういうことだ!」

「なんのことかなー」

「そのことだよっ」


 繰り出す自虐の果てに、彼女は急にこちらに飛び出してきたことに触れないし、謝罪を一個、ぶっきらぼうに置いたと思ったら、なぜ浮いていることも説明してはくれず、そのまま浮いたまま飛んでいこうとしている。


 どういう理屈かも理解出来ないし。

 というか、そのまま帰るな。


「そのまま帰るな、おい、ちょっと待ちやがれ」


 雪凪は倒れた赤いママチャリと僕に一瞥すらせず、そのまま住宅地の天井へと突っこんでいく。誰が住んでいるかもわからない家屋の屋根の角を掴んで浮遊を制御、そして宇宙空間で加速をつけるかのように腕に力を入れてどこかへと飛んでいった。


「おい、おいーー!」


 精一杯叫ぶのだが、どうやら聞く耳持たず。

 鼓膜が破れているのか、びくりともしない。

 ダメだ。追いかけよう。

 僕は急いで倒れた赤色のマイ自転車を起こし上げ、跨った。


 しかし。


「くそっ」


 チェーンが外れていることに気付き、唾を吐く。


 なんてことだ。

 どうやら自転車を倒した時に衝撃によってチェーンが外れたらしい。直すのは自分でも出来るが、時間が掛かる。面倒くさい珍事だ。

 だがしかし運が悪いと思うものの、こうなってしまったは仕方がない。

 これは事故であり、過去だ。


 もしかするとこれは起こるべくして起こったものとも言えて、不可逆的でもあると言える。なにせ自転車は消費する物体なのだから。使っていればいずれ壊れるし、故障ぐらいする。だからそれが、ただ今日起きたというだけのハナシ。

 だからその件に関して文句を言ったって意味はない。

 文句をいったところで、解決はしないしな。


 故に必要なのはこれからの対処。


 アイツの名前は神楽鐘雪凪。僕のクラスメイトであり、クラスの人気者でもある天才。何を考えているのかは理解出来ない。

 だがあの刹那に、初めて僕は正視した。彼女の笑っておらず慌てている表情を。つまるところ、緊急事態ということだろう。


 普通に困っているだけなら、僕がいなくても仲のいい誰かが手を差し伸べてくれるはずだ。だがしかし今回は違う。

 つまり、僕の考えるべきことは『アイツを見逃すか、否か────じゃない。アイツをどう追うか』だ。


 自転車は使えないし、徒歩じゃ追いつかない。

 駅は遠いし、というかそんなことしてたら彼女を見逃すに決まっている。電車は思った方に進んでくれないのだから。

 ならば決まっている。

 僕が生まれして持つ、脚を使うしかない。


 数秒の逡巡しゅんじゅんの末、一つの結論に至る。


「走る、か」


 よし決めた。

 全力で走って追いかけることにしよう。

 大丈夫だ。二ヶ月前の運動音痴な自分ならダメだったかもしれないが、今ならイケる。

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