10000文字の物語

志賀 健児(しが たつる)

第1話 夢の果て

「ついに……ついに、やりとげた」

 大学の研究棟の一室で、上沢かみざわ教授は喜びに打ち震えた。

 長かった。

 いや、長くはなかったのかもしれない。

 上沢は研究に打ち込んだ半生に思いをはせた——————。


 上沢かみざわ明雄あきおは福島に生まれた。

 幼少期に東日本大震災を経験。

 震災後、両親とともに東京に移り住むと、上沢は転校先でいじめにあった。

 なぜクラスメイトに避けられるのか……方言がおかしいのか、クラスメイトの気に障ることを言ってしまったのかと悩んでいたら——ある日の朝、登校した上沢は教室に入る手前で、中にいるクラスメイトたちがとんでもないことを言っているのを耳にした。

『アイツ、今日も来るかな? さっさと福島に帰ればいいのに』

『オレらんとこに放射能もち込むなよなー』

『だよなっ。うちのクラスを汚染されちゃ迷惑なんだよ、ホント!』

 え——? 福島? 放射能? 汚染……?

『放射能』や『汚染』といったワードは、福島の原発事故とすぐに結びついた。この学校で震災後に福島から引っ越してきたのは上沢だけ。彼らが自分のことを言っているのはすぐにわかった。そして、彼らが自分のことをどう思っていたのかも。

 なぜ——?

 原発事故で故郷に住めなくなったことを気の毒がり、特別にやさしくしてもらえると期待していたわけではない。ただ、ふつうの学校生活を送りたかった。それが。

 福島から来たというだけで、汚染物質として扱われる。

 上沢は怒りを通り越して悲しくなった。そして、学校へ行くのをやめた。


 震災が起きたとき、上沢も両親も無事だった。上沢の家は避難指示区域に入っていたので一時的に避難所へ身を寄せたが、次の生活の場はわりとすんなり決まった。建設関係の仕事をしていた上沢の父親は、東京で設計事務所を開いた友人から仕事を手伝わないかと誘われ、住むところもその人が世話してくれた。

 あれほど大きな災害に遭いながら、自分は恵まれている方だと上沢は思った。

 けれど、多くを失った。

 福島に残る友達からは、福島を見捨てて出ていくのかとなじられた。近所のおじさんが飼っていた牛たちはどうなったか考えると、目頭が熱くなった。福島の野菜や魚の風評被害を耳にしては、やり場のない気持ちに苛まれた。……世の中は、不条理に満ちていた。

 自室に引きこもるようになった上沢に、両親は一台のパソコンを用意した。

 はじめは、余計なことは知りたくない、考えたくないと、触りもしなかった上沢だったが、何もしないでいると、クラスメイトの声が頭の中で何度も何度も繰り返し再生された。その声から逃れるように、上沢はパソコンの使い方を覚え、ネットの世界に没入した。

 そして——。

 不登校のまま小学校を卒業し、形だけ中学校へ進学したころ、上沢は一人の少女と知り合った。

 少女の名は、島原しまばら清香さやか。誰かに知ってもらうためじゃなく、自分の中で渦巻く毒を吐き出すために上沢がネットに書き綴ったものを読んで、応えてくれたのが清香だった。

 清香は上沢と同い年で、福岡に住んでいた。彼女自身は福岡生まれ福岡育ちだったが、彼女のルーツは長崎にあった。

 清香の曽祖父母は戦時下、長崎の市街地に住んでいた。それが、原爆投下のあの日、たまたま二人は下関の親戚のところへ出かけていて難を逃れた。自分たちの街に新型爆弾が落とされたと知り、急いで帰宅しようとした二人は、広島方面から来た人に新型爆弾の恐ろしさを聞いていた親戚に引き留められ、終戦を迎えた。

 戦後、二人は福岡に移り住んだ。曽祖父は炭鉱で働き始めたが、長崎の出身だということはひた隠しにし、下関から来たと偽っていた。当時は、被爆していない事実を告げても、長崎から来たというだけで原爆のイメージがつきまとい、差別や偏見を受けていたからだ。

 曾祖父母は子供たちにも長崎の出身であることを隠し続けていたが、晩年、ようやく打ち明けた。その子供の一人が清香の祖母で、清香は毎年八月九日になると、祖母から、曽祖父母の話を聞かされていた。

 原爆による差別や偏見、また、自分たちだけ無事だったことや故郷を離れたことで感じた罪悪感など、曽祖父母の苦しみを思い、胸を痛めてきた清香は、上沢のよき理解者となった。 

 清香は読書家でジャンルを問わずにいろんな本を読んでいて、おもしろかった本を上沢に薦めた。自室に引きこもっていた上沢は、清香の薦める本を借りるため、図書館へ通うようになった。二人は本の感想を言い合い、日常の他愛ないことを語り合う。清香との交流によって上沢の止まっていた心は少しずつ動き始めた。

 周囲に、そして将来に目を向けるようになった上沢だったが、彼の耳に入って来るのは重苦しい現実だった。避難指示区域が解除されても人が戻らない故郷、外国人技能実習生が除染作業をさせられている、原発の処理水が海に放出される……。

 何か。何かできないだろうか……?

 福島のために何かしたいと考えるようになった上沢に、清香がポツリと言った。

「放射能って、なんとか消せないのかな?」

 放射能を消す……と想像して、上沢はハッとした。放射能を消すことができれば、いや、放射能を人体に無害にできたなら、傷つかずにすんだ人は大勢いたはず。

 上沢は、放射能を無害化すると心に誓った。

 目標を得たことで学校にも通えるようになり、上沢は必死に勉強した。高校、大学へ進学し、大学では豚の骨で放射性物質を吸着する研究に携わった。そのままその研究を続けることも考えたが、上沢は放射能の無害化にこだわった。

 念願の研究職に就くことができたものの、無害化の研究に行き詰っていたとき、親交のあった研究者がプラスチックを分解するバクテリアの研究で興味深い論文を発表した。彼は自身の研究の過程で、バクテリアの特異な性質を発見していた。上沢はその特性に着目。バクテリアに放射能を無害化させる可能性を見出すと、研究を開始した。


 そしてついに上沢は生み出した。放射能を無害化させるバクテリア、Fk—311を。


 長かった。いや、長くはなかったのかもしれない。上沢は七十歳になっていたが、生きているうちにFk―311の誕生を見ることができたのだから。

 惜しまれるのは、清香がいないことだった。

 上沢と清香は同じ大学に通い、二十歳のときに結婚。清香は上沢の夢に共感し、自身も研究の道に進んでいた。妻として、共同研究者として、公私ともに上沢を支えてくれていた清香だったが、十年前に病気で亡くなっていた。

 今、上沢の隣にいるのは栗色の髪の女性、オリガ・チホノワだった。中肉中背の上沢より頭一つ背が高く、すらりとした美女だ。清香の形見の髪留めで、長い髪を束ねている。

 オリガは上沢の優秀な助手で愛弟子で、信頼のおける友人だった。二十歳で留学生として上沢の研究室に入り、以来、二十年の付き合いになる。上沢を『日本のパパ』、亡き清香を『日本のママ』と慕ったオリガは、子供を授からなかった上沢と清香にとって実の娘も同然だった。清香が亡くなって自失状態だった上沢を、時に叱咤し、時に涙し、研究という希望の道に引き戻したのもオリガだった。

「こうしてFk—311の完成を見ることができたのは、オリガ、君のおかげだよ」

 上沢はオリガに微笑んだ。オリガの口元にも微笑みが浮かんだ……かに見えたが、その表情は暗い。どうかしたのかとオリガにたずねようとした瞬間、上沢はめまいを感じた。

「ごめんなさい、教授。ワタシは祖国を裏切ることができません」

 オリガの悲し気な声が遠のいていく。そして上沢は意識を失った——————。


 うつらうつら、夢見心地で幾日か過ごし、ようやくハッキリ意識を取り戻したとき、上沢は見知らぬ部屋にいた。正面には大きなモニター画面が展開し、渋谷のスクランブル交差点を映し出している。室内の照明はほとんどついておらず、モニターだけが明るく浮かび上がっていた。上沢に確認できたのは、モニターの下に計器類が並んでいることと、モニター前の数人の人影。そして、自身を拘束している椅子だ。上沢は椅子に座らされ、その手足を金具で椅子に固定されていた。

 異常な事態に上沢が身体をこわばらせていると、視界の端が明るくなった。照明の光がスポットライトのように、軍服を着た男を照らし出す。白髪混じりの金髪に青い目をした初老の男の顔に、上沢は見覚えがあった。ウラジーミル・ヴォロンツォワ——現職のロシア大統領だ。

 何が何やらわからず困惑する上沢の方へ、男は向かって来る。

「ドクターカミワザ、おお、言い間違えました。すみません。改めまして、ドクターカミザワ。お会いできて光栄です。あなたは我がロシアの救世主だ」

 流暢な日本語を話す目の前の男を、上沢はヴォロンツォワ本人だと確信する。ヴォロンツォワは学生時代から柔道を習い、日本好きを公言している。日本語も堪能だと有名だ。

 一介の研究者が会える人物ではない。彼が発した『救世主』という言葉の意味も気になる。警戒の色を強める上沢とは対照的に、ヴォロンツォワは上機嫌だ。

「上沢博士、我々はあなたのおかげで思う存分、核を使うことができるようになりました。あなたが開発したFk—311は実にすばらしい。まさに神のなせる業と言えるでしょう」

 にこやかな笑顔を振りまくと、ヴォロンツォワはおそろしい計画を語り出した。

 二〇三〇年に、当時存在していた二〇〇カ国すべてで締結された核兵器廃絶条約によって、二〇五〇年までに地球上のすべての核兵器は消滅したとされているが、ロシアは秘かに核兵器を隠し持ち、さらに開発を重ねてきた。これからその核を使って世界の主要都市及び軍事基地を攻撃し、ロシアが世界の頂点に君臨する。核兵器を使ったときに問題となるのが放射能による汚染だったが、Fk―311を使えば放射能は無害化される。ロシアの支配に邪魔なものは核で薙ぎ払い、焦土と化した土地はFk―311を放つことでロシアの拠点として活用する——というのが、彼が秘かに進めてきたロシアによる世界征服の計画だった。

 ロシアの偉大さを示すには核を実際に使うことが不可欠だと語るヴォロンツォワは、彼が盲信する偉大な先達の唯一惜しまれる点が、核の使用を中止したことだと苦り切る。それから、表情を一変させると高笑いを響かせた。

「我々はついに核を使う! そして世界を手に入れる! あなたが生み出した奇跡のバクテリアは、体内に取り込んだ放射性物質からエネルギーを生成し、死骸は栄養の塊となって土壌を豊かにするというのだから! なんとすばらしいことか!」

 興奮した自分を抑えるように目を閉じるヴォロンツォワ。呼吸を整えて目を開けると、口元に薄く笑みをはいた。

「——我々はすでにFk―311の培養を始めています。培養がたやすく増産しやすい点においても、Fk―311は実に優秀ですね」

 ヴォロンツォワはひとり悦に入る。

 上沢は愕然とした。目の前にいるのがヴォロンツォワでなければ、ひどい冗談だと笑えたのに。誰かに夢だと言ってほしかった。誰かに……そう言えばオリガは?

 上沢が、意識を失う前に一緒にいたオリガの安否を気にかけたときだった。

〈閣下。準備が整いました〉

 見慣れた白衣姿ではなく、軍服を身にまとったオリガが現れた。別人のような無表情で、ロシア語でヴォロンツォワに何か告げている。報告を受けたヴォロンツォワは、驚きに目を丸くしている上沢に向かって不敵にほほ笑んだ。

「博士、彼女はもともと私の忠実な部下で、あなたの研究を知った二十年前に、私があなたの元に潜入させたのですよ。あなたの研究が完成したら、研究にまつわるすべてのデータと完成したバクテリアを盗んでくるよう任務を与えてね」

「申し訳ありません、教授。ワタシは祖国を裏切ることができないのです」

 オリガは淡々と、意識を失う前に言ったのと同じことを口にした。オリガはロシア人だ。

「つまり、君は……」

 言葉が続かない。黙り込んだ上沢に、ヴォロンツォワは鼻歌でも歌いそうな調子で告げた。

「上沢博士。今からあなたに、最高のショーをご覧にいれますよ。——今回の作戦の最大の功労者であるあなたにぜひとも見ていただきたくて、この場に招待させていただいたのですから。お楽しみくださいね」

 ヴォロンツォワはオリガから小型の端末を受け取った。滑らかに指を動かし、端末に何かを打ち込んでいく。悪い予感からか、永遠にも思える数秒が過ぎて……ヴォロンツォワが動きを止めた。感情をうかがわせない目で上沢を見下ろしてくる。目が合うと、端末を自分の顔の横に掲げ、その前に右手の人差し指をぴんと立てた。

「さあ、偉大なる『新世しんせいロシア』のはじまりです。最高の花火を打ち上げましょう!」

 高らかに宣言すると、ヴォロンツォワは端末の中央にある赤いボタンを、右の人差し指で躊躇なく押した。

 すると——。

 淡い光が室内に満ち、次の瞬間、モニターに映し出されたのは——地獄の業火だった。

 上沢は息をのむ。信じがたい光景が、上沢の目を、脳を、心臓を刺激する。

「目をやられるといけないのでね。閃光に関してはスクリーンに映し出す光の強さを調節するよう指示してありましたが……なかなか、うまく行きましたね」

 ヴォロンツォワはご満悦だ。

 上沢は無言でパニックに陥っていた。

 核だ。核を落とした。どこに? 渋谷に。——東京に。いや、東京だけではないのかもしれない。ヴォロンツォワはなんと言った? 基地だけじゃない、世界の主要都市も核で攻撃すると言っていたはず。ああ。焼けた。焼けてしまった。東京が焼けた。大勢の人間が、一瞬で塵と化した。ああ。ああ。あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ…………。

 上沢の思考は停止した。電池が切れたようにガクリと首を落とす。

「おやおや、上沢博士におかれては、この花火はお気に召していただけなかったようですね? ——では、最新型の花火をご覧に入れましょう。そちらは気に入ってくださるとよいのですが」

 ネズミをいたぶるネコのような無邪気さで、ヴォロンツォワはその声に残虐さをにじませる。

 上沢の頭は回っておらず、ヴォロンツォワの発言の意味を理解したわけではなかった。ただ、彼の声にどうしようもなく怒りが沸き上がり、生まれて初めて暴力的な衝動に身を任せる。目の前の男を殴る! ……つもりで身体を動かしたものの、手足を椅子に固定されているため動けない。ふっ、ふっ、ふっ、と荒い息を吐き、身体を揺する。

 真っ赤な目で自分をにらみつけてくる上沢を横目に、ヴォロンツォワは手に持っていた端末をオリガに渡すと、なぜか右手で左手の薬指にはめた指輪を外すしぐさをした。そして指輪を抜き取ったと思ったら——ヴォロンツォワが抜き取ったのはただの指輪ではなかった。指輪の先には薬指がそのままそっくりついている。

「おお。指がとれてしまいましたよ? どうしましょう?」

 おどけてみせるヴォロンツォワに慌てた様子はない。それもそのはずだ。指ごと指輪を抜き取られた左手は、薬指の根元に銀色の突起がとび出ていた。薬指が義指だったことがうかがえる。ヴォロンツォワは器用に右手の中指と薬指で左の薬指を握りこむと、人差し指と親指で左手の薬指の根元の突起をつまみ、少し回転させるとぐぃっと引き伸ばした。

 意表をつかれたことで思考力が戻って来た上沢だったが、状況を把握することができない。ヴォロンツォワの左手を凝視する上沢に、偉大なロシアの復活を夢見る男は嗤う。

「博士、この突起は最新型の核弾頭の発射スイッチになっているのですよ。我が国の最高峰の研究機関によって開発された最新型の核です。世界中の都市や基地を攻撃できる数を用意しました。最初の攻撃でどこに落とすかはすでに指定してあるので、あとはこの突起を数回、左右に回すだけ。それでこの世界はロシアの支配下に墜ちるのです」

 昂揚する気持ちを抑えきれなくなったのか、両手を高く掲げ、天を仰ぐヴォロンツォワ。恍惚とした表情は、すでに世界をその手中に収めている勝者の顔だ。

 上沢は絶望の淵に突き落された。

 まさか、こんなことになろうとは。人が傷つかずにすむようにと、願いを込めて研究を続けてきたのに。なぜ? どうして? が、上沢の頭の中をかけ廻る。

 清香、私たちはとんでもないことをしてしまったようだよ。君がこんな結果を知らずにすんだことだけが救いかもしれない。

 上沢は、亡き妻に心の内で語りかける。

 この世界は、不条理に満ちている——。

 七十年の記憶の断片が、上沢の頭の中で走馬灯のように現れては消えていく。幼少期を過ごした福島の豊かな緑、自分を無視したクラスメイトたちの後ろ姿、初めて顔を合わせたときの清香のはじけるような笑顔、いつもあたたかく見守ってくれた両親、失敗につぐ失敗に涙した夜、死なせてしまったバクテリアたち、清香を失った自分を元気づけるために慣れない手品を披露してくれたオリガ……。……オリガ。……オリガ?

「オリガッ⁉」

 上沢は叫んでいた。記憶の中のオリガの顔が、目の前にいるオリガの顔に重なる。そこにいたのはさっきまでの無表情で機械的なオリガではなかった。清香が好きだと言っていた、強い意志を感じさせるオリガの目。彼女の視線の先には——ヴォロンツォワ?

 上沢は目を疑った。ヴォロンツォワがオリガに組み敷かれている。床にうつぶせになった彼の背中に、体重をかけるように左ひざを乗せ、オリガはヴォロンツォワを拘束していた。

 何が起きたのか理解できていなかったのは上沢だけではなかったらしく、ヴォロンツォワは放心していた。左頬を床におし当てるように顔を上沢の方へ向けていたため、彼の呆けた表情が見えた。


 そこからはあわただしかった。

 室内が明るくなり、どこから現れたのか、周囲を大人数で取り囲まれ、オリガに押さえつけられていたヴォロンツォワは彼らにどこかへ連れ去られて行った。オリガはその場に残り、ヴォロンツォワを見送って、上沢の方へ向き直る。険しい顔で飛びつくように上沢の前にかがみこみ、彼を拘束していた椅子の金具を次々と外していく。自由になった上沢の両手をオリガは自分の手で包み込む。彼女の顔は今にも泣き出しそうだ。

「ごめんなさい、教授。ワタシたちの作戦は教授にも話すことができなかったのです」

「私たち……?」

 彼女が言う『私たち』にヴォロンツォワは入っていない。あの様子では、彼の言うところの『忠実な部下』に彼は裏切られたのだろうと上沢は考えた。

 果たしてその通り。オリガは、ロシアで平和主義を掲げる政治家アレクセイ・ナヴァルナヤの二重スパイだった。しかも二重スパイはオリガだけではない。上沢が拘束されていた部屋にいた人間は、ヴォロンツォワ以外はすべてナヴァルナヤの仲間だった。

 ヴォロンツォワの計画を知ったナヴァルナヤは秘かに同志を集め、彼の計画を破綻させるべく動いていた。彼の同志の一人がオリガの父親で、父の推薦でオリガはヴォロンツォワのスパイ役を務めることになり、ヴォロンツォワの命で上沢に近づいたのだった。

 上沢がFk―311を完成させる前に計画を潰すべく、ナヴァルナヤはヴォロンツォワの計画に関わる人間の切り崩しを図った。少しずつ自陣に引き入れ、旧型の核弾頭に関しては、技術者の協力を得て秘かに発射できないよう細工することに成功した。

「ということは、東京に核は落とされていないのか? じゃあ、私が見た渋谷の光景は? あの地獄絵図はなんだったんだ……?」

「あれはワタシたちの仲間が作っておいたフェイク映像です。東京は無事です」

 オリガはそう説明すると、ナヴァルナヤの作戦の全容を明かした。

 ヴォロンツォワの核が旧型だけだったらよかったが、新型の核弾頭に関してはガードが固く、旧型のようにはいかなかった。そうしているうちに上沢の研究は進み、オリガからは完成間近の報が届く。ナヴァルナヤは作戦を変更し、世界征服計画が順調に進んでいるとヴォロンツォワに信じ込ませることにした。ヴォロンツォワの性格なら旧型では満足できず、すぐに新型を使おうとするはず。そのとき彼は、新型の発射スイッチの所在を必ず明かすことになる。そこを押さえれば彼の計画を食い止めることができるだろうと、ナヴァルナヤとオリガを含む彼の同志たちは、万全の体制を整えこの日を迎えた。

「ワタシの祖国は、過去に大きな罪を犯しました。だからこそ、ヴォロンツォワの計画を成功させるわけにはいかなかった。たとえ心の底から尊敬し、実の父親以上に父親だと思える教授が相手でも、作戦を話すことはできなかった。教授は上手にウソがつけません」

 だましてごめんなさいと謝るオリガに、上沢はゆるゆると首を左右に振った。核はどこにも落とされていないのだ。それだけですべてが許せる。ホッとしすぎて上沢の身体から力が抜けた。両の目にはうっすら涙すら浮かんでくる。

 オリガが繰り返していた『裏切ることのできない祖国』とは、ヴォロンツォワが夢想した世界を支配するロシアではなく、平和を望むロシアだったのだ——————。


 上沢が捕らわれていたのは、ロシアの南部にあるヴォロンツォワの秘密基地だった。屑石しか採れない山を地図上は鉱山とすることで、その地下に軍事施設があると疑われないようにしてあった。地下基地に出入りする人や物資は鉱山関係のものに見えるよう徹底されていたため、ここにヴォロンツォワが核シェルターを備えた大規模な基地を造っていたことを知る者は限られている。

 上沢はひとまず、地下基地からいちばん近くにある街まで、オリガとその仲間たちによって輸送されることになった。安全を考慮して防弾仕様になっている車に乗り、ナヴァルナヤの協力者が経営するホテルへ運ばれる途中、上沢は収穫間近の小麦畑を目にした。


 青い空の下、ただただ広がる麦穂の海。風渡る黄金色こがねいろの穂波に、平和の色を見る。


 私たちの研究はおそろしいことに使われる可能性を秘めていた。けれど、平和を願い、命や自然や文化を守ろうとする人間は必ずいる。清香、この世界には希望があるよ。

 上沢は亡き妻に心の内で語りかける。彼女のはじける笑顔を脳裏に浮かべ、愛を思った。                                〈了〉

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