第4話 なるほど、わからん

 来たる麻酔科研修初日の月曜日、俺は予定通り7時前にタイムカードを通して中央手術棟に直行するとロッカールームで術衣に着替えた。


 この術衣は執刀医である外科系の医師と研修医を含む麻酔科医が着るネイビー色のものの他に看護師さんが着る小豆色のものや臨床工学技士さんが着る緑色のもの、そして医学生が着る黄色のものがロッカールームに常備されており、帰宅時は脱いで所定の脱衣カゴに入れておけばそのまま洗濯に回して貰える。


 麻酔科の研修では基本的に中央手術棟から外に出ることはないので朝にここで術衣に着替えて仕事が終わったらここで私服に着替えて帰ることになるらしく、ともかく今は初日をどうにか生き抜きたいと思った。



 術衣に着替えたら7時15分までには自分が割り当てられた手術室に行って準備を始める必要があるが、今日は初日なので2年目研修医もしくは若手の先生が準備から麻酔導入までを実演して見せてくれることになっていた。


 中央手術棟の2階にあるロッカールームから3階の手術室フロアまで階段で上がり、俺は7番の手術室に入った。


 この手術室では今日の午前中に胆嚢摘出術、午後に腹腔鏡下ヘルニア修復術が行われることになっておりどちらも消化器外科の手術ということになる。



 部屋に入るとそこではおそらく初対面となる若い女性の先生が待っていて、まだ大学生感が残っていることからすると2年目研修医ではないかと思われた。


「おはようございます、本日から麻酔科を回ります1年目研修医の物部です。今日はよろしくお願いします」

「よろしくー。私は2年目研修医の坂部さかべ。じゃ、始めるから後ろで見てて」

「はいっ!」


 元気よく返事したはいいがやはり2年目研修医だった坂部先生は俺がまだ近寄ってもいないのにさっさと麻酔の準備を始め、俺は小走りで坂部先生の後ろに付いた。


「まずこれ、この天井から伸びてるのが麻酔のガス装置。緑のケーブルは酸素でここ、黄色のケーブルは空気でここ、灰色のケーブルは排ガスでここ、あと床に置いてある吸引器からケーブルを伸ばしてここね。この4種類は基本的に絶対つないどいて。青いケーブルは笑気しょうきだけどあんまり使われないから言われた時だけでいいよ」

「はい!」

「で、麻酔器の電源を付けます。たいてい裏にあるけど時々表側にスイッチがあるから気をつけて。電源がついたら麻酔カートに置いてあるジャバラを袋から出してここにつなげてゴムのバッグはここね。マスクもつなげるけどカプノメーターを接続するのを忘れないように。ここをこういう順番でセンサーを校正して、最後に回路を閉じてリークテストね。これできてないと結構やばいことになるから気をつけて。この画面が出たらチェック完了です」


 なるほど、わからん。



「機械は大体これでOKだから次はお薬ね。といっても麻薬とか筋弛緩薬は指導医の先生が持ってくるまでないから今は昇圧剤と点滴だけ。昇圧剤はエフェドリンをこうやってシリンジで吸って生理食塩水で10倍に薄めます。エフェドリンのアンプル割る時に指切っちゃう子がめちゃめちゃ多いから気をつけてね。点滴は基本的にはフィジオで、今回の胆摘はルート1本だから1袋でOK。輸液ラインを組み立てて、フィジオの口に差し込んだらこうやって空気抜きをしてからそこの点滴台に吊るします。はい、これで一通りおしまいです。分かった?」

「ええ、まあ……」


 わからん。



「長時間の手術だとAラインっていうのを組み立てたりルートが2本あったりするけどそれはまあおいおい覚えて! じゃ、そろそろ7時45分だから医局行って朝カンファ出ましょっか。間に合わなくても怒られはしないけど勉強になるからなるべく出てね~」

「分かりました……」


 坂部先生はそう言うとさっさと手術室を出て行ってしまい、俺も慌てて先生を追ってロッカールームと同じ2階にある麻酔科の医局へと急いだ。



 この大学病院の麻酔科では平日は毎日朝7時45分から教授による朝カンファレンスが行われることになっており、医局に入るとそこには既に多数の常勤医師やレジデント、そして研修医たちが教授の座るテーブルを囲むようにして立っていた。


 ロマンスグレーの髪色と紳士的な雰囲気が特徴的な足利あしかが俊和としかず先生は麻酔科の教授と病院長(要するに大学病院の院長先生)を兼務しているため教授の中でも最高位に位置する人物の一人であり、在学中に直接お話したことはなかったがその雰囲気からは威厳が感じ取れた。



「……はい、では朝カンファを始めます。今日は8番手術室の腹腔鏡下肝切除術が要注意症例で、患者さんのBMIが41もあるので挿管困難が予想されます。研修医の先生にも入って貰いますが流石に荷が重いので外山とやま先生には常駐して頂くようお願いします。要注意症例はそれぐらいなのでレジデント一言コーナーに移りますか。では吉田山よしだやま先生」


 レジデント一言コーナーという初めて耳にした単語の意味を考える間もなく、足利教授の言葉を受けて背が低い若い男性の後期研修医レジデントが一歩前に出た。


「ええー、じゃあ僕から一言。1年目研修医の皆さんは今日が初仕事になりますが、初日から早速ルート確保をやって貰うことになります。具体的なやり方は指導医や2年目の先生が直接教えるので、僕からは心構えだけ伝えます。まあ何というか、絶対入る! と思って針を進めてみてください。入らないかもとか失敗したらどうしようとか考えてるとたいてい失敗しますし、皆さんのほとんどは自分が思っているほど不器用ではありません。遅くともあと1か月の間にはルート確保は必ずできるようになりますから、それまでどうか根性で食らいついてください。以上です」


 まだ静脈路ルート確保を実際にやったことがないので吉田山先生が言ったことは具体的にイメージしにくかったが、患者さんの血管内に点滴針を突き刺す以上は絶対に成功させるという心持ちが大事だという趣旨は理解できた。


 吉田山先生がこの時言ったことはただの精神論に見えて実は麻酔科研修医にとって最も大切な事項の一つだったのだが、その時の俺は当然そんなことは分かっていない。



 朝カンファは15分程度で終わり、俺は再び坂部先生に付き従って3階の7番手術室に戻った。


 そこには常勤医師の先生が先んじて麻薬を持ってきており、白いカゴに入った麻薬を麻酔カートに置いていたその先生は俺と坂部先生を見て振り返った。


 その先生は明らかに180cm程度はありそうな高身長と真っ白な肌にスマートな体型、後方で一本に括っている茶色の長髪が特徴的な男性で、そのルックスを見た俺は真っ先に韓流ドラマの若手男性俳優を連想した。


「おはようございます、本日からお世話になります麻酔科研修医の物部です」

「やあどうもどうも、僕は麻酔科准助教の峰原みねはらです。とりあえず麻薬持ってきたんで一緒にセッティングしようか。坂部先生も復習がてら見といて」

「分かりましたー」


 2年目研修医である坂部先生も改めて見ておくよう指示すると、峰原先生は白いカゴに入っている麻酔薬を一つずつ取り出して説明し始めた。


「手術で主に使われる麻酔薬は3つで、一つが鎮痛ちんつう薬のレミフェンタニル、一つが鎮静ちんせい薬のプロポフォール、最後の一つは筋弛緩薬のロクロニウムです。もちろん吸入麻酔薬のセボフルランやデスフルランとか術後鎮痛のフェンタニルとかもあるんだけど研修医の先生が直接希釈したり準備するのはこの3つだからまずこれを覚えてください。物部君はシリンジっていうか注射器は使ったことあるかな?」

「えーと、採血の練習はシミュレーターでやりましたけど注射はあまり……基礎医学の実習で何度か触ったぐらいです」

「まあそんな感じだよね。やりながら説明するけどプロポフォールはこうやって袋ごとアンプルをパキッと割って中身をシリンジで吸うだけで、ロクロニウムはバイアルの蓋を開けて針を刺して吸うだけなので簡単です。ただ問題なのがレミフェンタニルでね……今からやって見せるから、とりあえずじっと見ててね」


 峰原先生はそう言うと100mLの生理食塩水のボトルから20mLの生理食塩水を注射器で吸い取り、シリンジに生理食塩水が入った注射器をレミフェンタニルが入っているバイアルに突き刺した。


 そしてバイアルの内部に生理食塩水を注入すると注射器が刺さったままのバイアルを軽く振り、注射針でバイアルの中身を吸い取っていく。


「なるほど、レミフェンタニルは固体なので生理食塩水で希釈してから吸い取るんですね?」

「よく分かったね! そうなんだよ、他の麻酔薬はたいてい液体なのにレミフェンタニルは固体で、しかも術中に追加で希釈することも多いからとにかく大変でね。研修医の先生は希釈に失敗して中身を無駄にしちゃったりするけど、これって要するに麻薬だから中身が残ったままバイアルを捨てちゃったりすると足利先生が謝罪会見を開く羽目になるんだよね。午後の手術では物部君に実際にレミフェンタニルを希釈して貰うから、その時は頑張ってね」

「分かりました!」


 レミフェンタニルが鎮痛薬で希釈にコツが要ることは分かったがそもそもどの麻酔薬をどういう風に使うのかすら全く分かっておらず、俺はいくら初日とはいえこの状態で手術室に患者さんを迎え入れて本当に大丈夫なのだろうかと不安になった。



「峰原先生、そろそろ患者さんが出棟しゅっとうされますが準備は大丈夫ですか?」

「うん、今からのはルート1本だし挿管が始まるまでは坂部先生に任せるね。それじゃ物部君、午後の手術は僕が一緒に入るからそれまで頑張ってね!」


 看護師さんからの確認に峰原先生は頷くとさっさと7番手術室を出ていってしまい、俺はますます不安になった。


 ともかくこれから胆嚢摘出の手術が始まっていくことに変わりはないので、俺は覚悟を決めて坂部先生の指示を待つことにした。

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