第3話 社会人1週目

 2023年2月4~5日の土日に行われた第117回医師国家試験が終わってからは毎日忙しく、当日の自己採点結果から辛うじて合格圏内にいることは分かったものの社会人生活に向けた引越し作業や国試後にフルスロットルで再開した微生物学教室での学生研究で毎日予定がない日はなかった。


 妻である美波もこの時期は歯学部歯学科の進級試験で忙しく、初人を連れて親子3人で外出できた日も何日かあったが結局はあまりゆっくり休む間もないまま俺は2023年4月3日月曜日を迎えることとなった。



 就職先である畿内医科薬科大学病院は多数の研修医を擁する大学病院ということもあってオリエンテーション期間が長く、社会人1週目となる入職式の4月3日月曜日からの週はオリエンテーションや講習会のみとなっていた。総数60名の1年目初期研修医のうち畿内医大出身の研修医は俺を含めてちょうど半数の30名のみであり、近畿圏内の他の私立医大や遠方の地方国公立医大からやって来た研修医も多いためオリエンテーション期間中は何度か道を聞かれたこともあった。


 オリエンテーションの内容は電子カルテの操作法を学んだり各種医療機器の使い方を臨床工学技士さんから教わったり医療安全の講演会を受講したりと多岐にわたったが電子カルテや医療機器については結局現場で使ってみないと覚えないし、医療安全の講習会は当たり前のことを再確認するためのイベントという意味合いが強いので俺の社会人1週目は半ばモラトリアムな気分で終わっていった。


 60名の研修医はそれぞれ10名ずつの6班に分けられて様々な診療科を順繰りに回っていくことになり、俺が所属する第6班には4名の大学同期がいてその内1名は解川剖良君だった。ちなみに剖良君の同居人にして恋人であるところの山井理子君は薬師寺龍之介君と同じ第4班に割り当てられていて、奇しくもこの組み合わせは医学部医学科5回生のコア・クリニカルクラークシップの時と全く同じだった。



 オリエンテーションで配布された班別表によると俺の1年目ローテーションは麻酔科2か月→総合診療科1か月→自由選択枠(小児科)1か月→救急医療部2か月→腎臓内科2か月→呼吸器内科2か月→消化器内科2か月となっていた。


 2023年現在の初期臨床研修では厚生労働省により必修科、すなわち必ずローテーションする必要がある診療科が定められており、初期研修医は2年間で内科を6か月、救急を3か月(1か月分は麻酔科に振替可)に加えて外科・地域医療・小児科・産婦人科・精神科を1か月以上ローテーションする必要がある。


 この規定を踏まえて畿内医大病院の初期研修医は1年目に内科2か月×3診療科、救急医療部2か月、麻酔科2か月(内1か月は救急の振替分)、総合診療科1か月を必ずローテーションし、残る外科・地域医療・小児科・産婦人科・精神科は2年目にそれぞれ1か月以上ローテーションする仕組みとなっている。これに従って1年目の残る1か月、2年目の残る7か月は自由選択枠となっていた。


 1年目の内科2か月×3診療科でどの内科を選びたいかと自由選択枠でどの診療科を選びたいかについては国試前にあらかじめ希望調査が行われており、俺は感染症と縁が深いという理由で内科は腎臓内科、呼吸器内科、消化器内科を選び、自由選択枠は小児の感染症について学ぶため小児科を選んでいた。幸いにも発表された班別表では全て希望通りの結果となっていたが、最初にローテーションするのが内科でも救急でもなく麻酔科であったということには意外さを感じた。



 初期研修医の主要な仕事としては内科や救急が一般にイメージされており、国試後に内科研修医や救急研修医に向けた指南本はいくつか読んでいたが麻酔科から始まるというイメージは全くなかった。しかも2023年現在の医師国家試験では麻酔科の出題数は全400問中1~数問程度であり、麻酔科の知識もロクロニウムが筋弛緩薬であるという程度しか知らないのが実情だった。


 といっても初期研修が麻酔科から始まる以上は分からないなりに全力で仕事に臨む必要があり、オリエンテーション期間最終日となる4月7日金曜日の夕方に俺は麻酔科研修の事前オリンテーションに参加するため剖良君たちと共に手術棟2階の麻酔科医局を訪れていた。



 まだ正式には試用期間扱いのため10名の研修医が私服のままぞろぞろと医局に入っていくと、そこには複数名の麻酔科の先生が次なる手術に備えて待機していた。


 病院実習で顔を見たことがある先生もいたが教授の足利あしかが先生や講師で科長の外山とやま先生など話したことのある先生方はいなかったのでどうすればいいのか考えていると、低めの背丈に日焼けした肌が目立つ若々しい男性の先生が声をかけてくれた。


「おっ、君たち第6班の研修医だよね? オリエンテーションを受けに来た感じかな?」

「そうです。今日からよろしくお願いします」

「OKOK、じゃあその辺で簡単に説明するのでソファに座ってくれる?」


 畿内医大の同期であり持ち前のカリスマ性から班長に任命された元剣道部員の桜木君が真面目に返答すると、全体的に軽い感じの先生は俺たちに医局のソファに散らばって座るよう指示した。



「自己紹介が遅れたけど、俺は麻酔科准助教の屋久島やくしま健人けんとっていいます。実家は沖縄の那覇市で大学も大琉球だいりゅうきゅう大学なんだけど、保健師やってる奥さんの実家が大阪だから卒後はこっちに付いてきました。なので院内に全然知り合いいないんだけど楽しく教員やってる30歳です。あ、ちょっと無駄な話多かったかな。ははは」


 屋久島先生は若々しいので後期研修医レジデントなのかと思ったが話によると常勤の医師らしく、気さくな人柄のようだがそれでいて話している目つきはとても真面目そうだった。



「で、麻酔科で君たちに何をやって貰うかなんだけど、1年目の先生は基本的に毎日手術麻酔です。2年目で選択してくれた子はICUとかペインクリニックも選べるんだけど、ぶっちゃけこの大学病院の手術麻酔は1年目研修医で回ってるからね。手術麻酔でやることは今から配るマニュアルに書いてあるけど、麻酔科は特に習うより慣れろ! って感じなのでとりあえずは来週月曜から遅刻せずに毎日来てくれればOKです。最初のうちは俺らとか2年目の先生が付きっきりで教えるからね」


 麻酔科の業務については研修医間のグループチャットで情報が回ってきていたが一言でまとめれば全身麻酔の準備から麻酔導入、手術終了までの一連の仕事を毎日やるらしく、細かい手技はマニュアルに書いてあるとのことなので帰ったら今日中に一通り読んでおこうと思った。



「あと大事な話なんだけど、麻酔科の出勤時刻は7時15分ですがこれは7時15分には着替えを済ませて手術室にいてくださいということです。例年7時15分にタイムカード通せばいいと思ってる研修医がたまにいるから気をつけてね。あ、7時15分から定時の8時半まではちゃんと時間外手当が付くから申請よろしくね。大体これぐらいだけど、他に何か質問ある?」

「あの、始業前の着替えは手術着を事前に貰っておけばいいのでしょうか?」

「ああそうか、他の大学から来た人はまだ手術棟の構造も知らないよね。この医局と同じ階に男女別のロッカールームがあって、そこに手術着が置かれてるから朝はタイムカード通したら私服のまま来てくれていいよ。基本ずっと手術着だから私物の白衣とかスクラブとかも持ってこなくていいからね。他の先生はどうかな?」


 他大学出身の女子研修医の質問に屋久島先生は丁寧かつはきはきと答えていて、麻酔科は出勤時刻も早くて大変そうだが指導医の先生方は頼りになりそうだと思った。



 麻酔科オリエンテーションの終了後はそのまま帰宅となり、週末は京都市内にある美波の実家に帰ることにしている俺は阪急皆月市駅まで剖良君と一緒に帰ることにした。



「マレー君今日はお疲れ様。ヤミ子と同じ班じゃなかったのは残念だったけど、マレー君と桜木君がいるから何とかなりそう」

「俺こそ剖良君がまた同じ班でありがたいよ。病院実習の時も助けて貰ってばかりだったし」


 もう2年も前の話になるがコアクリクラの時はカンファレンスでの発表や病棟回診など様々な局面で同じ班の剖良君に助けられており、今回も頼れる同期にして友人が一緒にいてくれるのはありがたいと思った。


 剖良君はCBT前の2020年から大学近くの2LDKのマンションでヤミ子君と同居しており、2人とも職場がそのまま畿内医大病院ということもあって今でも同じマンションに住んでいるらしい。



「ところでマレー君、これは私がマレー君の特徴をよく知ってるから言えることなんだけど」

「えっ? なになに?」


 いつもクールな剖良君が他人にこういう話題の切り出し方をするのは珍しいので、俺は不思議に思って耳を傾けた。



「世の中には頭が内科系の人と外科系の人がいて、研究医生だと私とヤッ君は外科系、ヤミ子とマレー君は内科系だと思うの。弓道部の先輩から聞いたけど、内科系の頭の人が一番苦労するのは救急でも外科でもなく麻酔科なんだって。……そういうことだから、来週から何とか頑張って。もし辛いことがあったら、私もヤミ子もヤッ君も相談に乗るから」

「そ、そうなのか。ありがとう、その時はよろしくな」


 剖良君が言っていることの意味は分かったようでよく分からなかったが、俺はともかくこれから始まる麻酔科研修に向けて真面目に頑張っていこうと心を決めた。



 そして、剖良君が言っていたことはオーバーでも何でもなかったということを、俺は翌週から早速思い知ることになる。

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