2020年8月 ステイホーム! カラオケお嬢様

第1話 気分は大阪府枚方市

 お久しぶりです。畿内医科大学医学部3回生、病理学教室所属の白神しらかみ塔也とうやです。


 という大学の先生宛てのメールのような挨拶あいさつは好きじゃないんだけど……



「お父さんとお母さんはあんたのことをよく知ってるけど、どう思ってるかはあたしには分かんないからとりあえず愛想あいそよくしといてね。2人とも人を見る目はある方だと思うから」

「はあ、分かりました……」


 コロナ禍真っ只中の2020年8月上旬。時刻は昼11時頃。


 3回生の夏休みが始まってすぐに、僕は恋人であるところの壬生川にゅうがわ恵理えりさんに導かれて大阪府枚方ひらかた市にある彼女の実家を訪れていた。


 壬生川さんは入学時から現在に至るまで実家から大学へとバスでの通学を続けており、今日は大学所在地の皆月みなづき市にある僕の下宿まで迎えに来てくれていた。


 普段は電車にもバスにも乗る習慣がない僕は壬生川さんに言われるままに整理券を取ってバスで移動し、今は枚方市駅北口のバス停から歩いて5分ちょっとの所にある彼女の実家まで並んで歩いている所だった。



 日本国内における新型コロナウイルスの感染拡大に伴い今年4月上旬に大阪府や兵庫県に緊急事態宣言が発出されてから、畿内医大は案の定大騒ぎになった。


 3月に入った時点で試験以外では全ての学生が登校禁止になっていたが4月以降はいかなる事情でも登校禁止と措置が強化され、実習の多い医学部1回生と2回生、1年間の大半が病院実習(クリニカル・クラークシップ)となる5回生も含めて現在に至るまでほとんど全ての授業はオンラインでの実施となっていた。


 オンライン授業と言えば聞こえはいいが今はまだ先生方も人生初となる完全オンラインでの授業実施に悪戦苦闘しており、4月の段階では講義資料のPDFを閲覧するだけのものやPowerPointのスライドを読み上げるだけの映像を映像講義として扱っていた科目すら存在していた。


 最近ではDoomドゥームミーティングを用いたリアルタイム開催でのオンライン授業も導入され始め映像講義も洗練されてきているが、まだまだ通常の対面授業のクオリティには遠く及ばないのが実情だ。



 そんな中、僕は今年2月下旬に母の勧めで愛媛県松山市の実家に避難し、そのまま7月に入るまでずっと実家に滞在していた。


 日本初の緊急事態宣言は5月下旬には解除され、畿内医大でも7月からは学生研究のための登校を認める方針になったと聞いて授業はオンライン実施のままだが7月上旬に僕は久々に下宿に戻ってきたのだった。


 実家にいる間も完全オンラインとなった各科目の授業は問題なく受けることができ、久々の実家暮らしにより疲れた身体を癒すこともできたが母以外との交流はほぼ皆無で生活に必要な時しか外出できず、病理学教室所属の研究医養成コース生としては学生研究がまともにできなかったのもかなり痛かった。


 枚方市の実家にいる壬生川さんとは当然会えないので電話やメッセージアプリで話したりDoomミーティングで顔を見たりするのみとなり、7月中旬に学内で久々に会えた時は感動で思わず泣きそうになった。


 マスク越しの会話ではあったがいつも強気で美しい彼女は変わらず元気そうで、コロナ禍が落ち着いてきたらまた一緒に食事やカラオケに行きたいと話していたのだった。



 それからしばらく経った今日、僕はとある事情から彼女の実家を訪れた訳で……



「やあ、来てくれたのねえ。どうもはじめまして、恵理のお父さんの壬生川恵治けいじです」

「はっ、はじめまして。恵理さんとお付き合いさせて頂いております、畿内医大医学部3回生の白神塔也です」


 インターホンの音を聞いて出てきたカーリーヘアの中年男性に、僕は全身を硬直させつつ自己紹介をしたのだった。



「どうぞどうぞ、入ってくださいな。いやあ~、恵理もすっかり大きくなったのねえ。ちっちゃかった時を思い出すわあ」

「お父さん、その口調ちょっと何とかならない?」


 玄関で出迎えてくれたのは壬生川さんのお父さんである壬生川恵治さんで、彼は日本を代表する大手予備校である海内塾かいだいじゅくの大阪校で数学科の講師を務めている。


 恵治さんは元々伊予大学理学部数学教室の助手で予備校講師に転職するのを機に大阪府枚方市へと一家で引っ越したという話は壬生川さんとお付き合いする中で知っていたが、僕自身は大手予備校に通ったことがないので予備校講師としての恵治さんの姿は知らなかった。


 以前に海内塾の公式ウェブサイトにある講師紹介から恵治さんの外見は確認したことがあって、スーツ姿にカーリーヘアという奇抜なファッションには意外なものを感じていたのだが……



(あの……お父さん、そういう系の人?)

(違うから! 単に口調が変なだけ!!)


 壬生川さんに視線とジェスチャーで尋ねると、彼女は首をブンブンと振って僕の疑念を否定した。


 身体は男性でヘテロセクシャルかつ妻子があっても性自認は女性という性的少数者の人は実際にいるが、恵治さんは単に女性のような口調が癖になっているだけということらしい。



 現在コロナ禍ということで恵治さんは僕と壬生川さんをまず洗面所に通し、僕は壬生川さんにならって石鹸での手洗いと複数回のうがいをした。


 流石に彼女の実家ではマスクを外して話したいので、感染リスクを最大限低下させようと僕はいつもより丁寧に手洗いとうがいを済ませた。


 それから恵治さんの後に付いて2階建ての1階にあるリビングに入ると、そこでは体格のよい中年女性が新聞を読んでいた。


 お手伝いさんがいるという話は聞かないのでおそらく壬生川さんのお母さんでピアノ教室の先生をやっているという壬生川理香子りかこさんだろう。



「リカさん、恵理の彼氏くんを連れてきたよ~。見たところ真面目そうな青年だよお」

「おっ、いい感じの男子医学生じゃないか。恵理の彼氏になれるだけはあるね」

「こんにちは、白神塔也と申します。お父さん、お母さんの話は恵理さんからよく聞いています」

「そうさねえ、恵理はそういう所はしっかりしてるからね。まあとりあえず座りなさいな」


 理香子さんは壬生川さんの母だけあって美人だが全体的に体格はがっしりしており、細身で女性のような振る舞いをしている恵治さんとは対照的に見えた。


 毎日教育業務に追われている予備校講師がなよなよしていてピアノ教室の先生が強そうな体格で男勝りな性格というのも面白いと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る