第2話 私たちの同棲生活

 その日の実習は17時過ぎまで続き、夕方カンファレンスが長引いたため田中教授は学生たちを先に帰らせてくれた。


 朝8時半に始まる朝カンファレンスから現在までほとんど休む間もなく続いた実習に私の身体は疲れ切っていて、まだ初日なのに大丈夫なのだろうかと不安に感じた。



 コアクリクラの班は原則として10人単位で、私のいるE班には微生物学教室所属の物部もののべ微人まれひと君、通称マレー君も所属している。


 弓道部の同級生は1人もいないし私がこの世で一番好きな人とも別の班になってしまったけど、1回生の頃から仲良しのマレー君がいるだけでも十分にありがたいと思った。


 マレー君は総合医療コースでは救急科を中心に回ることになっていて、今頃は過酷な救急医療の現場で頑張っているのだろう。


 私もマレー君も研究医養成コース生なので将来的に臨床医になることはないけど研究医養成コース生でも卒業するまでにやることは普通の学生と変わらないし、卒後も初期臨床研修までは必ず受けるのでコアクリクラの経験が無駄になることはない。


 研究医であっても国家から医師免許を与えられている以上は必要最低限の医療行為は行える必要があるので、私は現在のコアクリクラにも来年1月からのアドバンストクリクラにも全力で取り組んでいこうと心に決めていた。



 そうしてヘトヘトになった身体を引きずって、私は畿内医科薬科大学医学部のキャンパスを出るとJR皆月駅の方向に歩いた。


 大学から歩いて8分ほどの街中にある築30年4階建てのマンションに入り、階段で2階まで上がる。


 廊下を歩いて角部屋の鍵を開けると私は2LDKの下宿の玄関に上がった。


 脱いだ靴を揃えて廊下を真っすぐに進み、扉を開けて10じょうの広さのLDKに入るとそこには私がこの世で一番好きな人がいる。



「おかえりー。ご飯今準備してるからテレビでも見てゆっくりしててくれる?」

「うん。……今日は和食?」

「そうそう。精神科結構暇みたいだから今月はちょっと手間かけてお料理できそう」

「なるほど。ヤミ子の作るご飯大好きだから、楽しみにしてるね」


 2口あるコンロを駆使して夕食を作っているのは同級生で病理学教室所属の研究医養成コース生である山井やまい理子りこ、通称ヤミ子。


 彼女は私とは予備校生の頃からの付き合いで、私は紆余曲折うよきょくせつあって3回生の終わり頃からヤミ子と恋人同士になった。



 今日はヤミ子が何もしていなければ部屋に入るなり抱きついて、彼女の柔らかい身体で癒されたいと思っていた。


 当然料理中にそんなことはできないけど、今は同棲している間柄だからいつだってチャンスはある。



 私の部屋にして貰っている6帖の和室に荷物を置くと、私は洗面所に行って手洗いとうがいをした。


 2021年7月現在も新型コロナウイルスの世界的流行は続いていて、私とヤミ子はワクチン接種を済ませてからも手洗いやうがいなどの基本的な感染予防策は欠かしたことがない。



「ご飯できたよー。今日は焼き魚と和風カニ玉にしたけどもっと重い方がよかった?」

「ううん、実習ですごく疲れてるからこれぐらいが一番。カニ玉もボリュームあるし」


 ヤミ子に呼ばれて和室からLDKに戻ると、テーブルの上には和食のご飯が準備されていた。


 ヤミ子手作りの焼き魚とカニカマを具材にしたカニ玉の他にはご飯とサラダとお味噌汁があり、サラダはスーパーの出来合いのものでお味噌汁はレトルトだ。


 お互い忙しい医学生なので、家事で手を抜ける所は手を抜こうと同棲し始めた頃から約束していた。


 私はどうしても料理が苦手なので食事はいつもヤミ子が準備してくれていて、その代わりに私はお皿洗いと風呂掃除を含めた掃除全般を担当している。


 洗濯はその月の実習が忙しくない方が担当することにしていて、今のところはこのやり方で問題なく生活できていた。



 いつも美味しいヤミ子の手料理の味は疲れた身体にみ入る感じがして、私は食事をしながらヤミ子にいつもありがとう、と伝えた。


 このLDKの部屋にはテレビを置いているけれど私たちは食事中にはテレビを観ない習慣だった。


 夕食の半分以上を食べ終えた所で、私はヤミ子と今日から始まった実習の話をした。



「ヤッ君から聞いてたけど精神科の実習はすっごく楽だよ。月曜は合計4時間もカンファレンスあるけど他は1日休みとか午前中で終わりとかが当たり前みたい。今日だって16時前には終わったし。そっちはやっぱり大変?」

「うん、内科系に限ればこれまでの実習で一番大変だと思う。循環器コースで9時間ぶっ続けで手術見学した時が一番辛かったけどあれも1日だけだったし。明日からも遅くなるから」

「そうなんだ。さっちゃんを癒してあげられるように引き続きお料理頑張るね」


 ヤミ子は元気よくそう言ってくれたけど、私はヤミ子と一緒に暮らせているだけで十分以上に癒されている。


 そのことを一々口に出して伝える必要もない間柄なので、私は素直にありがとうとだけ答えた。

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