220 気分は素敵な女の子

 2019年11月29日、金曜日。時刻は夕方18時。


 色々あって大変だった中で仕上がった2回目のレポートを成宮教授に提出し、今月の研修を終えた僕はカナやんと生化学教室の会議室で話していた。



「今月は本当にありがとう。カナやんも叔父さんのことで大変だったのにほとんど中断せずに続けてくれて」

「白神君の指導はうちの仕事やし、そんな言うてくれんで大丈夫やで。ええ気晴らしにもなったし」


 今月16日の土曜日という大学祭の当日にカナやんの叔父さんは急性心筋梗塞で亡くなり、彼女は大学から実家へと直行して葬儀に参列した。


 亡くなったのが土曜日だったためカナやんが忌引きびきで欠席するのは2日後の月曜日だけで済み、彼女はすぐに授業にも研修にも戻ってきた。



 カナやんは落ち込んでいるだろうと予想していたが実際にはなぜか嬉しそうにしていることが多く、講義室でも研修中も一人でにやけている姿を見て僕は彼女に一体何があったのかと逆に不安になっていた。


 後で聞いた所によるとカナやんの従弟にして亡くなった叔父さんの息子である生島珠樹君は医学部受験をやめて立志社大学の経営学部に進学する方針に切り替えたらしく、株式会社ホリデーパッチンの後継者が無事に決まったのは確かに喜ばしいことだろう。


 とはいえカナやんの機嫌が良いのはそのためではないらしく、例によって彼女は隠し事が苦手なので僕はその理由に薄々気づいていた。



「今月を振り返る前に、ちょっと白神君に聞きたいことがあるねんけど……」

「なになに? どうぞ聞いてください」


 そう言ってカナやんに耳を近づけると、カナやんは内緒話をする感じで、



「コンドームつけてそういうことした時、妊娠してまうことってあるん?」

「んぐぅっ!?」


 例によってとんでもない質問を投げかけ、僕はこれまでで最大の驚愕に吹き飛ばされそうになった。



「あ、ごめん、面白半分で聞いただけやから」

「どう考えてもそうじゃないでしょ! したの!? 本当にしたの!?」

「えへへ、それは秘密やで」


 照れながら言うカナやんに僕は呆れながらも気になるなら検査キットを使ってみてはどうかと言っておいた。


 美波さんに続いてカナやんまでお母さんになってしまうような事態にはなって欲しくないが、まあ確率的に大丈夫だろうとは思った。



「それはそれとして白神君、生化学の研究はどない思う? 来年からここで研究してくれたりする?」

「うーん、成宮教授も他の先生も良い人ばかりだしカナやんがいるのも本当に頼りになるけど、生化学はちょっと難しすぎるかな。どうせなら顕微鏡をよく使う教室に所属したいし……」


 生化学という学問は基礎医学の中でも最も臨床医学から遠く、2回生から急遽きゅうきょ研究医養成コースに転入した僕はやはり馴染めなかった。


 ほとんど素人考えではあるが、カナやんのように地頭が良く理系の学問に親和性が高い人物でなければ生化学を一生の研究テーマとするのは難しいのではないかと思った。



「せやね。正直、白神君は病理とか薬理の先生になった方がええとうちも思う。この教室にはうちがおるから何とか盛り立てていくわ」

「ありがとう。カナやんなら絶対に良い研究者になれるから、近くから応援してるね」


 手短に応援の意思を伝えるとカナやんはいつもの笑顔でありがと、と答えてくれた。



 それから2人で阪急皆月市駅まで歩いていく間に、カナやんは大切な話題を口にした。



「白神君には言うとくけど、うち、珠樹と付き合うことになった。珠樹が大学生になるまで親戚には秘密にしとくけどもう言うても反対されへんと思う」

「良かった。カナやんと珠樹君は本当にお似合いだと思うから、もし誰かに反対されても絶対に負けないで」


 現代日本ではいとこ婚は道徳的な観点から忌避されがちだが、カナやんのような資産家の家系では一族の財産を外部に流出させないためにあえていとこ婚を選ぶという選択も歴史的には珍しくない。


 そういう意味ではカナやんと珠樹君の決断はいずれ生島一族にも認められるはずで、仮に反対されたとしても本当に愛し合っている2人の仲を裂く権利は誰にもない。



「その上で、うちは白神君を好きになって良かったと思う。誰かを心から愛するんってあんなに幸せな経験なんやって、白神君がおらんかったら気づかへんかったと思うから」


 黙って話を聞いている僕に彼女は続けて、



「せやから、白神君も壬生川さんのこと幸せにしたってな。壬生川さんはうちの親友やから白神君でも泣かせたら許さへんで」


 親友のことをよろしく頼むと伝えると、ニカっと笑った。



「……もちろん!」


 力強く答えながら、僕はこれほど素敵な女の子が一度でも自分を好きになってくれたありがたさを噛みしめた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る