199 人畜無害の行き先

 弓道部を離れて以降、雅人は兼部していた写真部の活動に励むようになった。


 元々高校では写真部員として活躍していたこともあってカメラの扱いや写真の選別といった技能はすぐに勘を取り戻し、2回生の夏に入る頃には主将から次の次の主将の座を譲って貰えるとまで言われていた。



「柳沢君、最近よく来てくれるよね。弓道部には行かなくていいの?」

「あー、弓道はちょっと最近飽きてきて、写真部の方に興味が出てきたんです」


 時は少し戻り2019年の4月下旬、失恋の苦しみがまだ癒えていない雅人は写真部の部室で医学部3回生の女子から話しかけられた。


 彼女とは1年前の新歓の頃から面識があって山井理子という名前と十分美人に分類されるルックスは覚えていたが、2人でゆっくり話したことはこれまで一度もなかった。


 部室で偶然2人きりになっていた時、理子は気さくな感じで雅人に話しかけてきたのだった。



「そうなんだー。私、柳沢君が撮った写真には前から注目してて、活動頑張ってくれるならすごく嬉しい」

「えっ、俺の写真にですか? 褒めて頂けて嬉しいですけど……」

「いやいや、柳沢君の作品を見てるとやっぱり経験者は違うなって思うよ。応援してるからね!」

「あ、ありがとうございます……」


 初めてゆっくり話すのに全く緊張のない様子で、しかも自分の写真を褒めてくれた理子に雅人は純粋な好意を抱いた。


 その時点では感じのよい女性の先輩に好印象を抱いたというレベルだったが、雅人は次第に理子に惹かれていくようになる。



「柳沢君、今時ウォークマン持ってるなんて珍しいね。私も実は愛用してるの」

「先輩もですか? かなり奇遇ですね」


 2019年5月のゴールデンウィーク中、写真部の定例ミーティングに参加した雅人は他の部員が部室を去っていく中で再び理子から話しかけられた。


 帰りの電車で聞くためにウォークマンをポケットに移しておこうとすると理子は雅人のカバンから現れたそれに興味を抱いた。



「ウォークマン愛用者ってことは音楽が好きなのかな? どんな曲聴くの?」

「えーと、あんまり今風じゃないですけど真田さなだ雅敏まさとしさんのファンなのでよくアルバム聴いてます。他には……」


 両親の影響で愛好しているシンガーソングライター真田雅敏の名前を真っ先に出しつつ今風の曲も何かなかったかと思い出していると、



「えええっ、柳沢君、真田さんのファンなの!? 私この大学で同じ真田ファンの人って初めて見た!!」


 理子は「真田雅敏のファン」という発言に食いつき、雅人はその剣幕に若干気圧けおされた。


 それからは理子と真田雅敏の話題で大変盛り上がり、自分の雅人という名前も彼に由来していると話すと理子はとても嬉しそうにしていた。



「柳沢君、今度から同じ真田ファン同士としても仲良くさせてね。持ってないアルバムとかあったら貸すからぜひ教えて!」

「こちらこそよろしくお願いします。また持ってないアルバムがないか見てみますね」


 後日両親に聞いてみると真田雅敏のアルバムやシングルは全て実家に揃っていたため結局理子にCDを借りることはなかったが、雅人はこの瞬間から山井理子という女性に運命的なものを感じるようになった。


 それから雅人はより一層写真部の活動に精を出すようになり、2019年8月の夏休み中に雅人は若干勇み足ではないかと感じつつも再びの挑戦に踏み出した。



「せっかく同じ真田ファンなんだし、また一緒にコンサートとか行きたいね。柳沢君はどう?」

「俺もぜひ行きたいです! あと先輩、もし今彼氏がいないんでしたら俺と付き合ってくれませんか?」


 お互い真田ファンと分かってから初めて「一緒にコンサートに行きたい」とまで言ってくれた理子に、雅人はかなり論理を飛躍させた感じで秘めていた思いを伝えた。


 表情を硬直させた理子を見て流石に話の切り出し方が無茶だったかと後悔を感じた瞬間、



「うん、いいよ。じゃあ柳沢君、今日からよろしくね」


 理子はあっさりと交際を受け入れてくれて、この瞬間に彼女いない歴22年という雅人の肩書は消滅した。



「本当ですか!? ありがとうございます!!」

「私、男の人とお付き合いするのって正直よく分かってないけど柳沢君なら信頼できると思うから。上手くいかなかったらごめんね」

「いえいえ、先輩とお付き合いできるなんて身に余る光栄です! こちらこそ失礼があったらすみません」


 理子はにこやかに話しつつ、雅人と恋人同士になることへの覚悟はできているが学生研究や友達付き合いの都合でデートできるタイミングは限られるとあらかじめ伝えてくれた。


 病理学教室の研究医養成コース生である彼女が大変多忙な身であることは雅人も承知していたので、デートはお時間のある時だけで全然大丈夫ですと伝えると理子は笑顔でありがとうと答えてくれた。



 その日は一緒に大学を出て、阪急神戸線と宝塚線が分岐する十三駅まで話しながら帰った。


 十三駅で乗り換える際、階段を上る時に思い切って理子と手をつないでみると彼女は雅人の顔を見てから手を握り返してくれた。


 人畜無害で地味な男として生きてきた雅人の人生は、この日を境に輝き始めたのだった。



 そして地味で温厚な男であり、地味でおめでたい男であるがゆえに。


 雅人には、自分がやがて味わう苦しみのことなど一切想像できなかったのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る