196 気分は笑顔

 一緒に夕食に行ってくれることが多い男性の先輩方とは異なり剖良先輩は研究の後は直帰されるのが常だったが、この日は研修終了記念に夕食をおごってくれることになった。


 2人で大学を出ると先輩のお気に入りらしいパスタ専門店に向かうことになり、並んで話しながら阪急皆月市駅を通り過ぎた僕らはお馴染みのカラオケ店であるジャッカル皆月2号店の前を通るルートに入った。



 その時。



「……今日はありがとうございました! また誘ってくださいね」

「うん、全然いいよー。ごめんね、夕ご飯は一緒に行けなくて」


 ジャッカル皆月2号店から2人並んで楽しそうに出てきたのはあろうことかヤミ子先輩と柳沢君のカップルで、僕は脳内のガラスに勢いよくヒビが入るような錯覚を覚えた。


 例によってこれはまずいと思いつつ剖良先輩の方を見ると、



「お疲れ様。2人で遊びに来てたの?」

「あっ、さっちゃんと白神君! そうだよ、放課後に待ち合わせしてたの」

「え、ええ、そういうことです……」


 剖良先輩は笑顔を浮かべてヤミ子先輩に話しかけ、ヤミ子先輩も何事もなさそうに会話を続けていた。


 硬直したままの僕をちらちら見ながら柳沢君は非常に気まずそうにしている。



「私たちは研究の帰りなんだけど、ヤミ子は柳沢君と夕食に行くんじゃないの?」

「いや、今日は理志さとしの誕生日だから帰って誕生会に出ないといけなくて。良かったら一緒に帰る? 柳沢君は用事で長岡天神に行くらしいから」


 こういう事情であれば剖良先輩はヤミ子先輩と帰りたいだろうと考え、ぜひそうしてくださいと伝えようとした矢先、



「ごめん、今日はこれから塔也君と食事に行くから。今月の研修のお祝いで」


 剖良先輩はあっさりとヤミ子先輩の申し出を断り、僕は予想外の展開に驚いた。



「あー、そういえばそうだよね。じゃあ2人とも楽しんできてね。白神君、さっちゃんをよろしくー」

「えーと、お疲れ様……」


 以前告白して玉砕した相手である剖良先輩の目の前にいるのはよほど苦しかったのか、柳沢君はせかせかとヤミ子先輩を追って阪急皆月市駅へと歩いていった。


 彼は確か阪急宝塚線の川西能勢口駅近辺にある実家から通っているはずだが、今日はこれから阪急京都線の長岡天神駅に行くらしいのでヤミ子先輩とは駅でお別れになるのだろう。


 状況的に明らかに恋人ではないがヤミ子先輩が口にした「さとし」というのが誰なのかは後で剖良先輩に聞いてみようと思った。




 パスタ専門店の小さな店舗は国道を越えた先の路地裏にあり、顔なじみらしい女性の店主にオーダーを伝えると剖良先輩は2人がけのテーブルの椅子に座ってコップのお水を飲んでいた。


 先ほどのことについて尋ねた方がいいようなよくないような気がして黙っていると、先輩は静かに話し始めた。



「……塔也君、私ね」

「は、はい……」


 何を言われるのだろうとおびえつつ言葉を返すと、



「さっき、辛くなかった訳じゃないの。どうして今出てくるのって思ったし、2人で私の前に出てくるのは永遠にやめて欲しい」

「……」


 剖良先輩はヤミ子先輩への思いを振り切れた訳ではなかったらしく、僕は何と答えればいいのか迷った。



「だけど、ある人に言われて気づいたの。自分の人生を自分で楽しくしないでどうするのって。だから私はこれからはショックなことがあっても態度には出さないし、できるだけいつも笑顔でいるようにする。それが自分も他人も一番幸せなやり方だから」


 先輩は微笑んだままそう言って、僕は彼女が自分の感情への向き合い方をようやく見つけたのだと理解した。



 それからパスタが運ばれてきて、僕は有名店のものに全く劣らないクオリティのパスタに舌鼓を打った。


 この店にはいつか林君や壬生川さんも連れてきてみようと思いながら、僕は空になったお皿を前に水を飲んでいた。


 同じく空になったお皿に目をやりながら剖良先輩は再び口を開くと、



「私はこんな性格だけど、今まで仲良くしてくれてありがとう。……これからも友達でいてくれる?」


 素敵な笑顔を浮かべて尋ねた。



「もちろんです。剖良先輩は僕にとって頼れる研究者で優しい異性の先輩で、そして何より、友達ですから」


 彼女の目を真っすぐに見つめて答えた僕に、先輩は笑顔で何度も頷いていた。

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