195 気分は再起動

 連休明けとなる先週水曜日の放課後、僕は剖良先輩から図書館前のロビーに呼び出された。


 実験動物慰霊祭のあったその前の土曜日にショッキングな出来事がありいよいよ精神的に追い詰められていたはずの先輩はあれから数日とは思えないほど明るい表情をしていて、真剣な表情で僕にこの前のことを謝ってきた。


 壬生川さんとお付き合いしていると知りながら僕に抱きついてしまったことを何度も謝罪されたが、僕自身は既に剖良先輩との仲を疑われるという発想が皆無だったのでそういえばそういう可能性もあると言われて初めて気づいた有様だった。


 先輩を過度に心配させないよう、壬生川さんは剖良先輩が女性しか愛せない人であることに薄々気づいているとあえて伝えると先輩は若干拍子抜けした感じで「それなら良かった」と呟いた。



 それから先輩は今月の解剖学教室発展コース研修が機能不全に陥り続けていたことも僕に詫びて、今日からは僕を全力で指導していくと宣言した。


 先輩の言葉は全く大げさではなくその日から今日に至るまで放課後は毎日18時30分頃まで解剖学教室に拘束され、今日までたった1週間の間に剖良先輩は学生研究の発表スライドを3つも仕上げていた。


 それらのスライドには共同研究者として僕の名前も記されており、この研究成果が何らかの雑誌に載ることになった場合は僕もその論文に名前が掲載されるとのことだった。



「……以上、長くなりましたが今月の学生研究の成果発表でした。プレパラート観察や細胞計測、自動免染機の操作を積極的に行ってくれた白神君にも拍手をお願いします」


 研究棟6階にある解剖学教室の会議室で剖良先輩が挨拶を述べると、3連続の発表を聞いていた先生方は先輩と僕に向けて盛大な拍手を送った。


 解剖学教室では毎月最後の平日の17時から研究成果発表会を開催しており、10月31日木曜日の今日この日は僕も同席させて貰っていた。


 教授会でご不在のたわら教授に代わって講師の佐川先生が発表会の取りまとめを行い、ちょうど18時半に僕は帰宅を許可された。


 当然ながらこのまま帰るはずもなく事前の打ち合わせ通り学生研究員の待機室に行くと、僕は丸椅子に座って剖良先輩と再び向き合った。



「塔也君、今月は色々とありがとう。実質的に半月も使えなかったけど解剖学教室の研究について私から教えられるだけのことは教えたつもり」

「こちらこそお世話になりました。先輩が再起してくださって僕も安心しましたよ」


 剖良先輩が突然元気を取り戻した理由は僕もあえて尋ねておらず、結果だけを祝福することにしていた。


「私だって4回生の終わりからは病院実習だし、いつまでも学生気分じゃいられないの。与えられた役目ぐらいはちゃんとこなせないと医学研究者以前に社会人として駄目だから。……それで、今から塔也君に聞きたいことだけど」

「はい」


 短く答えると先輩は相手の返答を既に察した様子で、



「今のところはって話だけど、3回生から解剖学教室に所属してくれる気はある?」


 微笑みを浮かべつつも真剣な目つきのまま、僕にそう尋ねた。



「……僕は顕微鏡が好きですし、組織学は奥深い学問だと思います。先生方も優しいですし剖良先輩が研究でも先輩になってくれたら心強いとは思います。その上で、僕は解剖学教室を選びません」


 マレー先輩に話したのと同様のニュアンスで考えを伝えると、剖良先輩は椅子に座ったまま黙って返事を聞いていた。



「やっぱり病理学教室の方がいいと思う? ……なるほど、私、ヤミ子には勝てなかったかな」


 質問に対して無言で頷いた僕に、先輩は少しだけ悔しそうな様子で微笑んだ。



「病理学の中でも特に病理診断学って組織学とは親戚どころか親子ぐらいの関係だし、塔也君がこのまま病理学研究の道に進むことになっても私とは絶対に交流があるから。ヤミ子はもちろん私にも研究のことは何でも聞いてね」

「もちろんです。僕、剖良先輩のことは尊敬してますし人間としても大好きですから」

「ありがとう、私もそうよ」


 「大好き」の意味する所を言外に理解して先輩はにっこりと微笑んだ。


 心からの笑顔を浮かべた剖良先輩を見たのは本当に久々で、僕はこの人とずっと仲良くしていきたいと改めて思った。

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