183 気分は不安定

 2019年10月15日、火曜日。時刻は夕方18時頃。


 この日は解剖学教室の発展コース研修としては初めて光学顕微鏡を使う日で、病理学教室で学んだ顕微鏡観察のテクニックを再確認する意味もあって僕は剖良先輩の保有しているマウスの呼吸器のプレパラートを観察していた。


 このプレパラートは呼吸器の発生に関与する因子として近年注目され始めた蛋白質を標的に免疫染色が行われたもので、1回生の組織学実習以来久々に観察する肺や気管支の構造を教科書で復習しつつ僕は免染標本を詳細に観察していた。


 解剖学教室では会議室の一画に光学顕微鏡が並べられており、16時過ぎに剖良先輩と合流してからは2人で肩を並べてプレパラートを黙々と観察していた。



 「黙々と」という部分は本当に文字通りだが剖良先輩はここ数十分ほどまったく両手を動かしておらず、顕微鏡の接眼レンズを覗き込みながら硬直していた。


 剖良先輩が機能不全に陥っているのは今月が始まってからずっとのことだが流石に研修中に何もせず硬直しているのはおかしいと思った。


 こういう時の先輩には無理して機嫌を取ったり逆にその姿勢をたしなめたりしても逆効果だと既に分かっているので、僕は顕微鏡観察から得られた情報をA4用紙に簡潔にまとめるとプレパラートをマッペに戻して光学顕微鏡を所定の置き場所に片づけた。



「先輩、僕の分のレポートは書けましたからそろそろ終わりにしましょう」

「……あっ、ごめん。私も片づけるね」


 硬直している先輩に対して冷静に声をかけると、剖良先輩ははっとした表情をしてから光学顕微鏡を僕と同様に片づけた。


 荷物は会議室まで持ってきているのでそのまま解散しても良かったのだが、僕はあえて先輩を学生研究員の待機室に誘った。


 先輩は無言のまま学生研究員室まで来てくれて、僕はカバンを机の上に置くと改めて先輩に話しかけた。



「今日はお疲れ様です。ちょっとお元気がないようですけど、何かあったんですか?」

「いえ、大したことじゃないの。……知り合ったばかりの人に失礼な態度を取ってしまって、自分自身が嫌になってただけ」

「なるほど……」


 おそらくマッチングアプリで出会った相手と上手くいかなかったのだろうと察して、僕は穏やかに頷いた。



「塔也君相手だから言っちゃうけど、アプリで知り合った人と話してみたら気が合って相手からラブホテルに行こうって誘われたの。私ああいう所には行ったことがないし、初対面の人にそんなことを提案されるなんて思わなかったからひどい断り方をしちゃって。だけど、その人はよっぽど気に入った相手じゃない限りホテルには誘わないらしいの。……連絡先は交換したけど、本当はもう嫌われちゃったんじゃないかなって」

「それはちょっと言いすぎたかも知れませんね。でも、そこまで脈がなさそうなんですか?」


 真剣に尋ねると、剖良先輩は相手の女性から「今後私から連絡するのは控えるので剖良さんが会いたいと思ってくれたら連絡してください」と告げられたと教えてくれた。



「その言い方からすると脈がないどころか相手もかなり本気だと思いますけどね。もう会いたくないならもっと社交辞令的になると思いますし、自分からは連絡しないっていう辺りにむしろ本気さを感じます」

「そう思う? ……確かに、もう会いたくないとか遊びだけの関係とかならそんな言い方はしないかな」


 剖良先輩は他の先輩方と比較すると対人関係に若干疎い所があるからか、僕の話に納得した表情をしていた。



「でも先輩としてはその人にまた会いたいって訳でもなさそうですよね。あまり魅力的な人じゃなかったんですか?」

「全然そんなことない。美人だし知的だし、真面目な大学生で人間としても尊敬できる人だった。私なんかよりずっと素敵な女性だと思う」

「……というと?」


 先輩の真意は他にあると理解して尋ねると先輩はまた落ち込んだ表情になり、



「私の方が、まだヤミ子を忘れられないの。ヤミ子のことは忘れて新しい恋を見つけた方がいいと頭では分かってるんだけど、どれだけ苦しくても辛くても私自身はヤミ子のことを忘れたくない。……だから、素敵な女性に出会えても根本的な解決にはならなかったの」


 淡々と話すとそのまま両手でスカートをぎゅっと握りしめた。


 僕は人生で誰かに片思いというものをしたことがないので先輩の気持ちを心から理解することは難しいが、同じ人間としてその気持ちのニュアンスは察することができた。


 新しい出会いを見つければ先輩は楽になれると勝手に考えてしまっていたが実際の恋愛というのはそこまで単純なものでないと分かり、僕は剖良先輩に残酷なことをしてしまったのかも知れないと思った。



 これ以上は余計なアドバイスをしないようにしようと心に決めつつ僕はその日も剖良先輩を阪急の駅まで送った。


 先輩は僕が付いてきたことを感謝してくれたものの、大げさかも知れないがこのままでは線路に身を投げて自殺してしまいかねない。



 恋愛に由来する傷心がどれだけの期間で癒えるのかは分からないが、今の先輩を1人きりで置いておくのは非常にリスクが高い。


 指導担当の先輩が不安定になっていることで解剖学教室の発展コース研修は事実上機能していないが、有益なことが何もできなくても今月はできるだけ先輩のそばにいようと思った。

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