139 北辰精鋭予備校・天王寺校

 それから20分後、化奈は地下鉄の駅を出て北辰精鋭予備校天王寺校の前まで来ていた。


 北辰精鋭予備校は全国的にチェーン展開されている映像授業の塾なので化奈も名前と簡単な特徴は知っており、畿内医大の近くにも「阪急皆月市駅前校」「JR皆月校」といった複数の校舎があるのは知っていた。


 同一チェーンが近辺に複数あるためかそれらの校舎はどれもこじんまりとしていたが天王寺校はやや大規模な校舎らしく、駐車場と駐輪場になっている1階部分には生徒のものらしき大量の自転車が並び、職員のものらしきバイクや自動車も数台駐車していた。



 化奈は受験生の頃は大手予備校である春台の大阪校に通っていたが、春台大阪校は巨大なビル1棟が全て校舎になっているマンモス予備校なので化奈にとって「地元の受験塾」を訪れるのは今日が初めてになる。


 3階建ての校舎は2階に入り口があるらしく、階段を上って扉を開くとビルの受付にあるようなカウンターの向こうから2名の職員が頭を下げた。


 全国展開されている大学受験塾では大学生のアルバイトがチューター(事務員兼生徒指導担当者)として働いているのが一般的なので、目の前にいる男女の職員も大学生なのだろう。



「こんにちは! 入塾希望の方ですか?」

「え? いや、ここの生徒の関係者なんですけど……」


 化奈は大学生といってもまだ19歳なので今でも高校生と間違われることは少なくない。


「生徒といいますと、どなたでしょうか?」


 先ほど挨拶してくれた男性のチューターに代わり、ロングヘアの女性チューターがそう尋ねた。


「高3の生島珠樹です。さっき塾長先生からお電話を貰って、緊急の用件があるので来て欲しいって言われまして」

「ああ、珠樹君の従姉いとこさんですね。珠樹君は今、塾長とあちらの部屋にいらっしゃいますので行ってあげてください」

「はい、分かりました……」


 今に至っても珠樹に何があったのかは分からないが、この話しぶりからするとそれほど重大な事態ではないらしい。



 女性チューターに示された部屋にノックして入るとそこでは真崎塾長らしい中年男性が椅子に腰かけており、珠樹はソファに寝転んで眠っていた。


 部屋にはソファと丸椅子の他に4人掛けのテーブルと椅子が置かれ壁際にはカウンターテーブルも設置されており、生徒が食事を取ったり休憩したりするための部屋のようだった。


 部屋の電気はいたままで、塾長は化奈が来るまで珠樹の様子を見守っていたらしい。



「こんにちは、あとはじめまして、珠樹の従姉の生島化奈です」

「ああ、来てくださったんですね。先ほどお電話させて頂きましたが、私は北辰精鋭予備校天王寺校塾長の真崎まさき賢治けんじと申します。この度は急にお呼び立てしてしまい申し訳ありません」


 珠樹を起こさないよう配慮してか、真崎塾長は小さめの声でそう話した。


「珠樹、寝てますけどどうかしたんですか?」


 珠樹は硬そうなソファの上で寝息を立てているが、見たところ顔色はあまり良くなかった。



「今日は朝9時半から16時頃までこの塾の記述模試があったのですが、珠樹君は試験開始の1時間も前に登校して試験開始まで必死で勉強していました。午後の数学までは無事に受験してくれたのですが最後の理科に入ってすぐに気を失って、私の見立てでは熱中症のようでした。すぐに経口補水液を飲ませ、この部屋に冷房を効かせて休んで貰って大事には至りませんでしたが、この状態で一人で帰らせる訳にはいきませんのでご親戚の方をお呼びした次第です。突然お呼びしたこともそうですが、生徒の健康管理に配慮が至らず誠に申し訳ございません」


 真崎塾長はここに至るまでの経緯を説明するとそう言って深々と頭を下げた。


 こういう時は基本的に親が呼ばれるものだが珠樹の父親(化奈にとっては叔父)は株式会社ホリデーパッチンの理事だし、母親も関連企業で重役を務めているのですぐに来られる親戚が従姉で大学生の化奈しかいなかったのだろう。


「いえ、健康管理は受験生自身がするものなので先生方のせいじゃないですよ。それより珠樹はそんなに勉強を頑張ってたんですね」


 少なくとも4月に食事会で会った時点では珠樹は成績が伸び悩んでいたし、医学部を受験すると言いつつもそれほど勉強には身が入っていなかった。



「はい、珠樹君はとても努力家の生徒ですよ。高3の5月から入塾してしかも医学部を受験したいと聞いた時は驚きましたが、彼は毎日高校が終わるとすぐにここに来て映像授業を受けて夜まで自習しています。土日もほとんど必ず登校していて、7月のマーク模試では大阪都市大学の医学部でD判定が出ました。入塾テストの結果からすると考えられないほどの伸びで、私どもも珠樹君には期待しています」

「えっ、そんなに……」


 大阪都市大学の医学部は公立大学である上に立地が非常にいいため医学部の中でも偏差値はかなり高く、医学部受験生には浪速なにわ大学などの旧帝国大学に次ぐ人気を博していた。


 国公立の医学部でトップクラスの大学には偏差値65程度はないとC判定が出ないので、珠樹にとっては今の時期にD判定が出ただけでも大金星と言っていいだろう。


「彼は元々医学部受験生にしては国語と社会が得意で、進学校の生徒だけあって英語と数学の基礎力も十分にあるのでこの調子で頑張ってくれれば現役での医学部合格も狙えますよ。本人は畿内医大を第一志望にしたいそうですが、せっかくの国語と社会を活かせないので本音では国公立も目指して欲しい所です。……おっと、従姉いとこさんにお話しすることでもなかったでしょうか。重ね重ね申し訳ありません」

「いえ、うちも珠樹の様子は気になってたので教えて頂けてありがたいです。先生方も珠樹の面倒をよく見てくださっていて頭が下がります」


 化奈が感謝を伝えて会釈すると、真崎塾長はジェスチャーで謙遜けんそんの意を伝えた。



 会話の声が聞こえたのかしばらくすると珠樹は目を覚まし、身体を起こして周囲をきょろきょろと見回した。


 すぐ傍に化奈の姿を見かけると珠樹は驚きの表情を浮かべた。


「カナちゃん、どうしてこんな所に!?」

「珠樹、お世話になってる教室に『こんな所』はないやろ。真崎先生がすぐに対応してくれたから病院行かんで済んだんやで」

「あっそうか。俺、模試の途中で倒れて……」


 なぜ自分がここにいるのかを思い出し、珠樹は冷静な表情になった。



「珠樹君、今日はとりあえず帰りなさい。受けられなかった理科は後日受験にできるから、また明日以降体調が回復したら来てくれるかな?」

「もちろんです! 俺、すぐにでも体調治してまた来ます」

「いい返事だ。かわいい従姉おねえさんを心配させないように今度からは体調管理にも気を付けるようにね。じゃあ今日はゆっくり休んで」

「分かりました!」


 珠樹は元気よく返事してソファから降り、真崎塾長に頭を下げた。


 化奈も塾長に再度お礼を伝えて珠樹と共に部屋を出ると、先ほどのロビーには模試を終えた生徒がぞろぞろと出てきていた。



 熱中症から回復した珠樹とその傍にいる見知らぬ女子大生を見て高3生らしい生徒が声を上げた。


「あっ珠樹! その人、例の従姉のお姉さんか!?」

「えっ……」


 化奈を指さしてそう言った男子生徒に続き、他の生徒も興味津々の様子で声をかけてくる。


「うっわ、珠樹が言うてた通りの美人や! こら従姉でも惚れるわ」

「従姉のお姉さん、確か医学生なんだよね。すっごい、勉強教えて欲しーい」

「おいお前ら、まだ従姉と決まった訳ちゃうぞ」

「そんなこと言って生島君のルックス考えたら分かるじゃない」


 男女を問わず化奈に見惚れている生徒たちに化奈は少し気を良くすると、



「せやで、うちは珠樹の従姉の生島化奈です。今は畿内医科大学の医学部に通ってます」


 丁寧にそう言って、ぺこりと頭を下げた。


 歓声を上げる生徒たちを尻目に化奈は珠樹の頭をゲンコツでこつんと叩くと、


「あと珠樹、従姉が好きっていうのはそない人に言うことちゃうで」


 叱責と照れ隠しが混じった意味で、珠樹にそう伝えた。



「ご、ごめんカナちゃん……」


 恐縮する珠樹に対して他の生徒たちはヒューヒュー! と口笛を吹いていた。

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