126 幸せな時間

 2019年8月1日、木曜日。時刻は夜18時。


 畿内歯科大学での午後一杯の実習を終え軽音部の練習は臨時欠席して自宅に帰った宇都宮美波は、婚約者である物部微人からのメッセージの内容を頭の中で反芻はんすうしていた。



 4日前の日曜日、大学のイベントに出席しなければならないから初デート記念日には付き合えないと言っていた微人のGPS位置情報はなぜか大阪メトロの天満橋駅近くにあった。


 微人が自分に嘘をついたと瞬時に理解した美波はその動機を考える間もなく家を飛び出し、そのまま微人のいる所まで突き進んだ。


 そこでは文芸マーケットという名称の同人誌即売会が開催されていて、微人は海賊のような眼帯と傷痕のシールタトゥーを身に着けて大学の部活仲間らしい連中と同人誌を売っていた。


 彼の近くには同じ部活の後輩らしい猫耳を着けた看護学生の姿もあって、いかにもオタクっぽい格好をした垢抜けない女と微人が和気あいあいと過ごしているのを見て美波の頭には完全に血が上ってしまった。


 その看護学生に話しかけて挑発を繰り返していると婚約者の怒りを察したらしい微人は美波を会場外まで連れていって、そこで話し合いをすることになった。



 話し合いの最中にも怒りは収まらず、部活のイベントを台無しにされた微人の立場は一切考えないまま美波はひたすら怒りをぶつけていた。


 当初微人はいつも通り冷静に話を聞いてくれていたが、しばらくすると彼の堪忍袋の緒は切れた。


 微人は美波の目の前でタブレット端末を叩き割り、こんな道具で監視しないと自分を信用できないなら美波とはもはや付き合えないと言い放った。


 怒りに任せて最悪の結果を招いたと悟った美波は涙ながらに謝罪したがいつもと違って微人は許してくれず、今すぐここを立ち去って二度と目の前に現れるなとまで言われてしまったのだった。



 美波は混乱する頭でその場から逃げ去り、自宅に帰ってひとしきり泣いた後はスマホから何度も微人にメッセージを送った。


 その日の夜には返事が届いて、今日別れると言ったのは言葉の弾みであり本気で美波と別れるつもりは一切ないと言ってくれた。


 一方で微人は美波がしたことを許せていないとも伝えてきて、お互いに頭を冷やすためにしばらくはどちらからも会いに行かず連絡も取らないようにしようと提案された。



 微人といつまで会えなくなるのだろうと不安に思ったが、別れるという言葉が本気ではなかったと知り美波は心から安堵した。


 それからは毎日頻繁にスマホをチェックしていたが連絡は来ず、電話をかけそうになる気持ちを必死で抑えていた所で昨日の夜に突然微人からメッセージが届いたのだった。


 美波との関係を修復する一番の方法を思いついたから明日の夜に会って話したいと伝えられ、18時に自宅を訪ねてよいかと確認された。


 早く微人に会いたくて仕方がなかった美波はろくに文面も読まずに了解の意思を伝えたが、それから脳内で検討してみても「関係を修復する一番の方法」が何なのかはさっぱり分からなかった。



 今日は午後の口腔衛生学実習の間もずっとそのことを考えており実習担当の女性教員から注意散漫になっていると叱られたほどだった。


 美波の自宅で話した後にはデートに行くことになっているので帰宅後に改めて服装とメイクを整えて待っていると、18時から数分経ってインターホンが鳴った。


 2階から階段を駆け下りテレビドアホンの画面に微人の姿が映っていることを確認すると、美波は激しい勢いで玄関のドアを開けた。



「待ってたよ、まれ君。会いたかった……」


 数日ぶりに微人の姿を見た美波は感極まって彼の身体に抱きついた。


「おいおい、そんなに感動する場面でもないだろう」

「だってずっと寂しかったから。……散髪行ってきたの?」


 現れた微人はいつも生やしていた無精髭を綺麗に剃っており、理髪店に行ってきたのか整髪料らしき香りも漂っていた。


 服装も普段よりはフォーマルで、美波に大切な話をしたいという彼の強い意思が伝わってきた。


「そうだよ、今日は初デート記念日の埋め合わせをする日でもあるからな。とりあえず君の部屋に行こうか」

「もちろん。ちゃんと片づけてあるからね」


 この後はデートに行く関係上両親は不在といってもいつものように自室で事に及ぶとは思われないが、万が一に備えて特にベッド周りは完璧に片づけてあった。


 お互いアルバイトはしていないので普段からラブホテルを利用するほどの金銭的余裕はなく、婚約している間柄なのでそれぞれの実家で性行為をすることは黙認されていた。


 といっても微人は歳の近い異母弟と同居しているので基本的には兄弟姉妹のいない美波の実家で済ませることが多く、微人が来訪する時は両親も気を利かせて実家を留守にしてくれていた。



 美波の部屋のベッドに隣り合って腰かけると微人はいつものスポーツバッグからパンフレットらしきものを取り出した。


「これ何? ……熱海あたみ温泉って、静岡県の?」

「そうだ。カップル向けの熱海温泉2泊3日宿泊プラン。あまり高級な旅館じゃないが別に温泉が目的じゃないからこれでいい。8月のこの時期は君も夏休みのはずだから、一緒に旅行に行かないか」


 微人が提案してきたのは静岡県にある熱海温泉の安めの旅館に2泊3日で宿泊する旅行で、お互いの小遣いでまかなえるぐらいのリーズナブルな料金設定だった。


「私はすごく行きたいけど、まれ君、この2日前までフィリピンに留学してるんじゃなかった? 流石にしんどいんじゃない?」

「俺は普段から旅行慣れしてるし、東南アジアへの留学に比べれば国内の温泉旅館なんて大変でも何でもないよ。それよりさっき温泉が目的じゃないって言ったけど、それはな……」


 一拍置いて微人は再び口を開き、



「俺は君と、この旅行で永遠を誓いたいんだ。単なる口約束じゃなくて俺と君が生涯離れられないようにする。つまり、愛の証を作るんだ。だから予算がかかっても2泊3日にした」


 誇らしげにそう言った。



「えっ……?」


 微人の言葉は婉曲的なものだったが、美波にも大まかな意味はつかめた。



「もちろんそうなれば君の人生にも大きな負担をかけることになるから、無理にとは言わない。ただ、俺はそうなっても君とは十分にやっていけると思っているし、何より君を安心させるにはこれぐらいのことをしなければならないと考えている。どうだ、俺と旅行に行ってくれないか」


 微人への返答は人生を大きく変える決断になると理解して、美波は頭の中で未来予想図を描いた。


 休学によって大学を1年は留年することになるかも知れないし、お互いの両親に相談せずに結果だけを示すことになるから叱られるのは免れないだろう。


 とはいえ婚約している以上微人とはいつかそうなることを前提に付き合ってきたし、お互い成人している大学生なのだから社会的にも許されない行為ではない。


 微人との関係は今よりずっと確実なものになるし、何より微人からこのことを提案してくれたのは美波にとってこれ以上ない喜びだった。



 そして、美波は答えた。


「私も、まれ君と愛の証を作りたい。一緒に旅行に行きましょう」


 そのまま上着を脱ぎ仰向けにベッドに倒れ込むと、美波は続けて言った。



「その前に……仲直りの証、見せてくれる?」

「もちろんだ!」


 そうして室内の明かりを消し、二人は幸せな時間を取り戻した。


 埋め合わせのデートには結局行かなかったが、恋人同士はお互いが幸せなら儀式は何でもよいのだろう。

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