102 気分は硬式テニス部

 2019年7月14日、日曜日。時刻は朝7時50分。


 朝9時から開場となる畿内医科大学医学部第2回オープンキャンパスの準備のため、僕は早起きして講義実習棟1階の大講堂を訪れていた。


 講堂前のロビーには入試広報センターの職員さんらしきスーツ姿の人々が集まっており、初対面なので丁寧に挨拶すると女性の職員さんからオープンキャンパス委員の制服と腕章、名札、黒色の油性ペンを渡された。


 職員さんの説明によると畿内医大のロゴマークが印刷された腕章は来客の前では常に着用しておく必要があり、紙製の名札には氏名・学年・出身高校・入試選択科目(理科・社会)を書く欄があるので油性ペンで記入した上で制服の胸元に付けておくようにとのことだった。


 オープンキャンパス委員の制服は紺一色のシャツで、今日この日にこれを着用している学生は入試広報センターの戦力として扱われる。


 サイズは事前に申請しており手渡されたのも予定通りMサイズの制服だった。



 近くに置かれている机で名札に必要事項を書き込むと、僕は油性ペンを事務員さんに返却した。


 それから講義実習棟の階段を上って2階に行き、男子学生のロッカールームに入って自分のロッカーに元々着ていたシャツを収納した。制服を着て胸元に名札を取り付け、腕章を左腕に通すと僕は再び1階のロビーに戻った。


 先ほどと同じ職員さんにマニュアルやタイムスケジュール表といった書類を受け取って、設営開始までの待機場所となっている大講堂へと入った。


 これらの書類はPDFデータで事前に受け取っていたが来客の前でスマホやタブレット端末をいじる訳にもいかないので紙媒体で貰えるのはありがたかった。



 最後方のテーブルにはここ最近までお世話になっていた人の姿があって、僕と同じ紺一色のシャツを着ている。


 ゆっくりと歩いて隣の椅子に座ると僕はその人に話しかけた。


「おはようございます、先輩。今日はよろしくお願いします」

「あっ、白神君。こんなに早く来てくれたんだね」


 小柄な背丈にすべすべとした白い肌、茶髪と黒目がちの瞳が特徴的なその人は薬理学教室所属の薬師寺龍之介先輩、通称ヤッ君先輩だ。


 6月末に入院中のお見舞いに行って以来は直接会っていなかったので約2週間ぶりの再会となる。


「先月はお世話になりました。今はマレー先輩に色々教わってる所です」

「だよねだよね。マレー君からも白神君はいつも真面目に研修を受けてくれてるって聞いてるよ。流石は白神君だね」


 先輩はそう言っていつものニコニコ笑顔を浮かべ、僕は気になっていたことを聞くチャンスだと判断した。



「そう言って頂けるとありがたいです。ところで先輩、あれから天草あまくさ君とは……」


 先輩は先月の下旬高校生の頃からの思い人であった天草英樹君を守るために美人局常習犯のチンピラに暴行を受け、負傷して入院する羽目になったのだった。


 天草君を脅迫していた安堂というチンピラの男は警察に逮捕されたので彼の身に迫っていた危機は去ったはずだが、あれから先輩との関係はどうなったのだろうか。



「ああ、ヒデ君のことね。そりゃ、気になるよね。……うん」


 ヤッ君先輩は何事もないような表情で質問に答えようとしたが、突然暗い表情になると、


「……ぐすっ……ひっく、ううっ…………」


 両目からぶわっと涙を流し、そのままテーブルに突っ伏して泣き始めた。


「わっ、先輩!?」

「……ヒデ君、ボクが自分を守ってくれたのは本当にありがたいけどやっぱりボクを恋愛対象としては見れないって。そんなの分かってたけどさ……でも……」


 突っ伏したまま事情を話すと先輩はついにわーんと大声を上げて泣き始めた。


 剖良先輩にしても昔からの親友とはいえ同性の人に告白すれば確率的にそうなる可能性の方が高いのだが、流石に先輩が哀れに思えて仕方がなかった。


 そもそも天草君に彼女ができて落ち込んでいたヤッ君先輩に「天草君がバイセクシャルである可能性もある」と言って背中を押したのは僕なので、色々と気まずい気もしてきた。



 号泣するヤッ君先輩の隣で困り果てていると近くから若い男性の声がした。


「ありゃりゃ、大丈夫っすか薬師寺先輩。んーと隣の人は……」


 そう言って僕らを眺めていたのはいかにもチャラいが綺麗に染めている金髪と日焼けした肌が特徴的な男子学生だった。


「はじめまして、僕は医学部2回生の白神塔也です。君は1回生?」


 顔に見覚えがないため少なくとも2回生ではなく、ヤッ君先輩を「薬師寺先輩」と呼んでいるということは医学部の1回生だろうと推測して僕は自分から名乗った。



「そーです、俺は医学部1回生の計良けら充紘みつひろっす。部活は硬式テニス部で薬師寺先輩と同じ研究医養成コース生なんすわ。あと彼女募集中でーす」


 計良君と名乗った1回生は最後に右手でよく分からないサインをするとチャリーッスと口にした。いわゆるパリピと呼ばれる人物らしい。


「計良君っていうと、確か初対面の壬生川にゅうがわさんを口説いてドン引きされた」

「ちょ待っ、白神先輩、俺の第一印象それっすか!?」

「いやごめん、その話しか聞いてなくて……」


 マレー先輩から聞いた計良君の情報はそれぐらいで彼も僕と同じ研究医養成コース生だということも今初めて知ったので、失礼な会話の切り出し方になってしまった。



「僕も2回生から研究医養成コースに転入した学生だから一応計良君の先輩になるよ。今日のオープンキャンパスでも他のイベントでも、今後ともよろしくお願いします」

「うぃっす、よろしくです。あの白神先輩、薬師寺先輩何かあったんすか?」

「あっ、そうだった。えーとね……」


 計良君はいかにもチャラい外見と口調だがマレー先輩も言っていたように意外と気遣いのできる人らしい。


 事情を聞かれたものの男性であるヤッ君先輩が意中の男性に告白して振られたなどとはとても教えられないので、僕は再び困ってしまった。


「振られたんだよ、好きな人に告白したら……」


 突っ伏したままヤッ君先輩が口を開いた。



「ええー? 意外っす、先輩ってチビだけどイケメンなのに。とすると相手は小柄な女の子じゃないっすか? ほら、小柄な子ほどチビは嫌いって言いますし先輩もそれぐらい考えてアプローチした方がいいっすよ。まあチビなのは別に先輩のせいじゃないっすけど」

「……チビチビうるせえ、ちょっと黙ってろ!!」


 勝手な分析をぺらぺら述べた計良君にヤッ君先輩は突然激怒して立ち上がり、自分より身長の高い計良君の襟元を締め上げた。


「うわーギブギブ! 先輩はチビでも大丈夫ですって! ね、ね、次はモデル体型の美女を狙いま」

「次にチビって言ったら殺す」

「ひえー」


 それから計良君を数秒ほど締め上げると先輩ははっと我に返って手を離した。


 その勢いで計良君は大講堂の床にドスンと腰を落とし、結構痛かったのか唸りつつ腰をさすっていた。


「あっごめん。計良君もボクのこと慰めてくれてたのに」

「いやもう流石にびびりますって! 死ぬかと思いましたよ」


 それから先輩は笑顔に戻って計良君に謝ると、何かの用事で職員さんに呼ばれてロビーへと歩いていった。



「さっきは災難だったね。でも君のおかげで先輩が元気になったよ」


 好き勝手に喋っているようでいて計良君の発言は落ち込んでいた先輩をいつものテンションに戻してくれていた。


「そっすか? ま、俺も薬師寺先輩は笑ってくれてる方がいいっすから。大体一度や二度振られたぐらいで泣いてたら俺なんてとっくに死んでなきゃおかしいですよ」


 計良君はそう言って自分でゲラゲラと笑い、僕は彼の人柄に好感を覚えた。

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