93 気分は浄土真宗
引き続き交代で肉を焼きながら雑談を交わし、僕は初めて先輩の身の上を聞こうとしていた。
「先輩は三浪してこの大学に入られたって聞きましたけど、お医者さんの家系なんですか?」
「まあ、そう思うのも無理はないな。継承すべき病院やクリニックでもない限り普通は三年間も浪人はしないだろう」
僕の同級生にも(よその大学や社会人からの再受験ではなく高校卒業後に延々大学受験を続けていたという意味で)3年や4年浪人して入学してきた人はいるが、そういった学生は例外なく親御さんが病院やクリニックの経営者であり後継ぎとして医師にならなければならないという事情を抱えていた。
医者の家系ではない学生は浪人していてもせいぜい1年か2年であり、三浪したというマレー先輩は医者の家系なのではないかと考えていたがどうも違うらしい。
「ここで一つ聞きたいんだが、白神君は大学受験の社会は何を選択したんだ?」
「えーと、日本史Bですね」
松山第一高校の理系コースでは社会の履修選択は「日本史B&世界史A」と「地理B&世界史A」の2通りに限られていたが、僕は地理にはあまり興味がなかったので前者を選択し、センター試験でも社会は日本史Bで受験していた。
「だったら日本の仏教についてはある程度分かるだろう。例えば俺の母校である
「開祖は
高校の日本史では倫理と異なり仏教の各宗派の特徴を深く学ぶことはないが、開祖の名前と教義の簡単な特徴ぐらいは暗記する必要がある。
「その通りだ。俺が中学受験をして南東寺に入学したのは真言宗に縁があるからじゃなくて進学実績が高くて実家から近かったからだが、まあこれはどうでもいい。で、なぜ俺がさっきから仏教の話を始めたかというと、それは俺の実家が寺院で親父がそこの住職だからだ」
「じ、寺院って、お寺ってことですか?」
「そういうことだ」
「それは何というか、珍しいですね……」
現代日本では病気や怪我に見舞われた患者はたいてい医師の診療を受け、治療が上手くいけば回復するし不幸にも傷病が悪化して亡くなれば聖職者のお世話になる。
そういう意味では医師をはじめとする医療職とお坊さんをはじめとする聖職者は無関係な存在ではないのだが、医療職と聖職者を兼業する人はほとんど宗教系の病院にしかいないだろう。
ましてや実家が寺院である医学生に出会ったのはマレー先輩が初めてで、世の中には色々な身の上の人がいるものだと改めて感じた。
「俺の実家は京都市内にある
「開祖は
「素晴らしい。そこまで分かっていてくれれば話が早いな」
仏教に詳しくない人のために説明すると、絶対他力というのは「人間が極楽浄土に
浄土真宗は親鸞の師である
肉食妻帯というのはそのままの意味で、日本の仏教では伝統的に僧侶は肉を食べることも結婚することも禁じられていたが浄土真宗は僧侶の肉食妻帯を初めて解禁した宗派だ。
現代ではどの宗派のお坊さんも肉食妻帯は許されているが浄土真宗の成立当時(鎌倉時代)はかなりファンキーな教義と見なされていたのではないかと思う。
「脱線が多くて申し訳ないが、白神君はなぜ寺の息子である俺が医者を目指したのかを知りたいんだよな?」
「ええ、すごく興味あります」
「了解だ。まず俺が医学部を受験しようと思ったのは大体親父のせいだが、その理由も浄土真宗らしいものではある。長くなるが聞いてくれ」
それから焼肉をつまみつつ、先輩は自分が三浪してでも医学部に入ろうとした理由を話してくれた。
マレー先輩のお父さんは
お父さんは肉食妻帯を初めて認めた浄土真宗の住職らしく(と言うと
マレー先輩は1人目の妻の息子だがお父さんは長男が生まれてすぐ別の女性と関係を持ち、その女性が妊娠したことで妻は家を出ていった。
先輩が4歳の時にその女性は男児を出産し、出産を機にお父さんと結婚して2人目の妻となった。生まれた男児は
お父さんは2度目の結婚の後も懲りずに浮気を続け、今度は妻を持ちながら家の外に愛人を囲うようになった。不倫が発覚しても開き直る夫に2人目の妻も愛想を尽かし、先輩が10歳になる頃には弟の実母もまた家を出ていた。
お父さんはずっと囲っていた愛人を3人目の妻としてその女性とは子供を作らなかったが、結局はまた浮気をして離婚し現在は独身らしい。
こういう生い立ちとなると先輩の心は荒廃していそうだが功報寺は割と大きなお寺なので生まれてからお金には困ったことがなく、4歳下の異母弟である生人君とはお父さんという共通の敵の存在もあって現在に至るまで非常に仲がいいという。
マレー先輩は色々とどうしようもない人間であるお父さんを軽蔑しており、将来は資格職に就いて自立して生きていきたいと考えた。
しかしその目標は同時に生人君に実家を継ぐ責務を負わせることを意味しており、先輩は非常に悩んだ。
そして高校に進学したことをきっかけに先輩は自分の将来の目標について生人君に正直に話してみた。
話を聞いた生人君は先輩に対して「兄さんは僕より4年も長く父さんに迷惑をかけられてきたのに母親の違う僕をずっと大事にしてくれた」「だから兄さんには自分の人生を自由に生きる権利がある」と言ってくれて、先輩もそれを聞いて医学部受験を決意したという。
それから先輩は三浪もしたが研究医養成コースで畿内医大に入学できて、現在では微生物学教室所属の研究医生として学生生活を送っている。
ちなみに生人君は南東寺高校を卒業後に西日本を代表する名門私立大学である立志社大学の社会学部に現役で合格し、現在は中学・高校の社会科教員を目指して頑張っているという。
日本の法律では私立学校の教員と僧侶は兼業可能なので、生人君もいざという時には実家を捨てて生きていけるようにしたいらしい。
「親父のことは人間として全く尊敬できないが、三年間の浪人費用も畿内医大の高い学費も払ってくれたから今の俺には親父を非難する資格はない。生人は俺なんかにはもったいないほどよくできた弟で、俺が医者を目指せるのはあいつが自分を犠牲にしてくれたからだ。だからこそ俺は親父にも弟にも恩返しができるような研究医になりたいと思っている」
「なるほど。そこまで考えてくれるお兄さんを持って生人君も幸せだと思いますよ」
僕は一人っ子なので先輩の境遇は想像しにくいが、母親が違っても互いを思いやれる先輩と生人君との関係は美しいと思った。
「話が長くなったが俺は医学部に入るのに三浪もした人間だし、正直言ってあまり頭の出来がいいとは思えない。医学英語だって得意じゃないし今でも再試によくかかる。だけど研究に関しては真面目にやってきたつもりだから、今月と再来月は白神君を最大限助けていきたいと思う」
「ありがとうございます。こちらこそご苦労をおかけしますがよろしくお願いします」
僕はそう言うと七輪の横に右腕を通して先輩と握手した。
「ところでさっきから店の前を同じ女の子がうろうろしてるんですけど、何かあったんですかね?」
先輩が身の上を話してくれている間、店の前を何度も行ったり来たりしている女の子が2階の窓から目に入ったので僕は何気なく聞いてみた。
「何だって? なあ、その女の子って背が低くてすごく長いロングヘアじゃなかったか?」
「ええ。先輩も気づいてました?」
「だとすると……すまん、ちょっと待っててくれ!」
先輩はそう言うと突然席を立ち、店員さんに一声かけて店を出た。
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