87 気分は立会人

 2019年6月23日、日曜日。時刻は朝の9時55分。


 木曜日の放課後にヤッ君先輩から映画を見に行かないかと誘われた僕は、1000円で話題の映画を見られてポップコーンとドリンクも付いてくるという誘い文句につられて休日なのに早起きしていた。


 待ち合わせ時間の5分前にJR皆月駅の改札前まで来ると、しばらくしてホームから先輩が降りてくるのが見えた。


 僕は下宿生なので普段は電車に乗る機会がなく皆月市を離れて梅田や京都に遊びに行ったことも皆無に近いので電車の路線図には詳しくないが、先輩は滋賀県の大津市から畿内医大に通っているという。


 滋賀県というと近畿圏の地理に詳しくない僕には随分遠く思えるが、3回生になっても実家から通えるということは意外と短時間で行き来できるのかも知れない。



「おはよう、白神君。時間通り来てくれてありがとう」

「せっかく誘って頂いたので頑張って早起きしました。今日はよろしくお願いします」


 いつものニコニコ笑顔で挨拶してくれた先輩は今日は動きやすそうなネイビーのズボンに薄いストライプの半袖シャツを着ており、いつものリュックサックは持たずに来ていた。


 今時は外出時に財布とスマホしか持っていなくても大体の用事は済ませられるが、映画館で貰う予定の限定グッズは手提げ袋にでも入れるのだろうか。


「映画館はここから少し離れた場所にあるから、とりあえず付いてきて。あっ、スマホは持ってきてる?」

「持ってきてますけど、何かに使うんですか?」

「うん、後で映画館でね。じゃあ行こうか」


 ヤッ君先輩はそう言うと駅の出口に向けて歩き出し、僕も少し後ろを歩いてそれに付いていった。



 それから10分ほど歩いたのだが映画館に案内してくれるはずの先輩はなぜか阪急皆月市駅の方に向けてどんどん歩き、映画館などなさそうな郊外の住宅街まで来ていた。


 近くには皆月現代劇場という多目的ホール施設があり例年畿内医大の入学式や卒業式の会場となっているので、僕もこの辺りの地理はある程度知っていた。


 だからこそこの近辺に映画館はなかった気がするし、目的地がこの辺りならもうちょっと阪急の駅に近い方で集合してもよかったように思う。そもそもこの近くならJR皆月駅近くの映画館とは呼べないだろう。



「あのー、先輩。目的地ってもうすぐですか?」

「ちょうど着いた所だよ。……この古いアパートなんだけど、ずっと空き家で最上階の一番奥は鍵が開いてるの」


 そう言って先輩が立ち止まったのは住宅街の一角にある古びたアパートの前だった。


 築50年は経っていてもおかしくない外観で外壁や外階段は所々錆びついており、今はどの部屋にも人が住んでいそうになかった。



「えっ?」

「この前、一緒に映画を見に行こうって言ったのは嘘なんだ。今日用事があるのはこのアパートとそこの路地裏。騙して連れてきてごめんね」

「そ、それはどういう……?」


 先輩が僕をこんな路地裏に連れてきて何をしたいのかがさっぱり分からず、焦りながら尋ねた。


「あのね、驚かないで聞いて欲しいんだけど、ボクは今からそこの路地裏でチンピラに殴られる。ボクはそのチンピラをあえて挑発するから、多分ボコボコにされると思う。でもそれはヒデ君を守るために必要なことなんだ」


 先輩は落ち着いた声でこれから起こることを説明したが、途中の事情が省かれ過ぎていて訳が分からない。



「ヒデ君ってこの前の天草君ですよね。彼を守るためにチンピラに殴られるって、それは一体……」

「詳しいことは今は話せない。ここからが大事なんだけど、白神君にはそこのアパートの一室に隠れて上空からボクがチンピラに殴られる様子をスマホで録画して欲しい。単にボコボコにされるだけじゃ意味がなくて、そのチンピラを脅す材料が必要なんだ」

「なるほど……」


 詳しい事情は話せないと言われたが天草君を守るためにチンピラにあえて暴行を受けてその様子を録画して交渉材料にしたいという趣旨から、僕は天草君がそのチンピラに何らかの被害を受けているのだろうと察した。



「白神君にはボクの個人的なトラブルに付き合う義理なんてないから、協力してくれないなら別の手段を考えようと思う。でも、誰も傷つけずにトラブルを解決するにはこの方法が一番なんだ。お礼は必ずするからどうか協力して欲しい」

「……分かりました。先輩にはこれまで何度もお世話になりましたから、今度は僕が恩返しをする番です。アパートの部屋まで案内して頂けませんか」


 冷静にそう答えると先輩は黙って深く頭を下げ、僕をアパートの最上階である3階の最奥の部屋まで案内してくれた。


 その部屋には確かに鍵がかかっておらず、先輩は慣れた様子で玄関のドアを開けると何もない部屋の奥へと進んでいった。


 掃き出し窓を開けてベランダまで出るとそこからは先ほどの路地裏が見下ろせるようになっていて、配管のすき間からはちょうど壁に隠れて路地裏の撮影ができるようになっていた。



「それじゃ、ボクは今からチンピラを待つからスマホを開いて待機してて。ボクがチンピラと話し始めたら早速録画を始めてね」

「OKです。あの、先輩」

「どうしたの?」


 室内に戻ろうとするヤッ君先輩に僕は呼びかけた。



「先輩なら大丈夫だと思いたいですけど、命の危険だけは絶対に避けてください。明らかに危険な状況になったら警察を呼んですぐに助けに行きます」


 先輩が本気で戦えばその辺のチンピラには負けないだろうが、相手が凶器を持っていたり暴力の加減を知らなかったりする可能性もある。


 目の前で先輩が殺されるような事態だけは許容できないので、僕はそう言わざるを得なかった。



「……ありがとう。そこまで言ってくれて、ボクも心強い」


 先輩はそう言うとそのまま玄関を出ていった。


 その背中に勇ましさを見出しながら、僕はスマホでの動画撮影方法を改めて確認した。

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