79 壬生川恵理の戦略
2019年6月19日、水曜日。時刻は昼の14時30分。
月曜日の分子生物学、火曜日の生化学に続いて今日は生理学の試験があり、13時から始まった試験は90分間で終了した。
試験監督を務める生理学教室講師の三木村から冊子回収のアナウンスがあり問題文と解答用紙がカンニング対策で一つに留められた冊子を前に送ると、
中学校の同級生で当時から思いを寄せていた白神塔也とは先月の基本コース研修を通じて再び親しくなれて、先月末にははっきり好きだと伝えることもできた。
存在を思い出されてたった1か月で交際するのは拙速と考えて塔也には今は付き合えないとも伝えたが、今後は恋人になれるようアプローチを続けていくつもりだった。
塔也には塔也で人間関係があるし、無理にアプローチして周囲と衝突するのは嫌なので色々と気を遣ってはいる。生島化奈が塔也を
といっても塔也自身は異性としては自分の方に魅力を感じてくれているようなので、しばらくは友達以上恋人未満の関係に持ち込めれば十分と考えていた。
6月に入ってからは実習の影響でお互いを見かける機会が少なくなり、今月の放課後は薬理学教室で基本コース研修を受ける塔也のスケジュールのせいで最近は遊びに誘えるタイミングもなかった。
今日は3日間続いた試験が終わる日で15時には完全に自由になれるので、恵理は今から塔也に話しかけて久々のデートに誘おうとしていた。
回収された冊子の数が受験者数と一致していることが確認されると試験終了のアナウンスが行われた。
3日間続いた試験に2回生は疲れ切っており、大講堂に集められていた彼らは試験勉強から解放されて喜びの声を上げた。
それから恵理は荷物を持って大講堂前のロビーに出るとスマートフォンを取り出し、電源を入れてメッセージアプリを起動した。
グループチャットの一覧から「畿内医科大学医学部2018年度入学者」という名前のチャットルームを選択し、そこに設けられている掲示板を開く。
医学部医学科では後輩並びに再試にかかった同級生のため試験の終了直後には記憶をもとに試験内容を再現するのが一般的であり、恵理も自分の学籍番号の下2桁の問題を覚えていた。
今日は科目が生理学なので暗記するのも容易く、マーク式問題の問題文と5択の解答を入力すると恵理は第二講堂に向けて歩き出した。
第二講堂には試験終了後にも関わらず多くの2回生が集まっており、ある者はグループで集まって試験問題の再現に取り組みある者はこの後遊びに行く場所を友人と相談していた。
室内を見渡すと塔也の姿はいつもの座席にあり、その近くには林や
講義室の後方を経由して塔也の座席まで歩くと恵理は強気を装って声をかけた。
「皆、お疲れ様。試験の再現はもう終わったの?」
「あっ壬生川さん。うちらはちゃんと再現できたで」
自分が突然現れたことに林と柳沢は一瞬たじろぎ、化奈は何事もなく返事をしてくれた。
問題は塔也で、周囲に友人が集まっているというのに緑色のブックカバーに覆われた文庫本を一心不乱に読んでいる。
「どうしたの? 白神君は読書中?」
「それがさあ、こいつ試験の再現が終わってから小説に夢中なんだよ。分生の後も生化の後もしばらくここで読書してたんだ」
恵理の質問に林は苦笑しながら答えた。
「俺らが雑談してたらちょっと今読みたい本があるって言って、ずっとこんな感じなんです。そりゃご飯に行く時間帯でもないですけど何か変ですよね」
「せやねん。せっかく試験後やしリラックスしたらええと思うねんけど」
柳沢のコメントに化奈も頷きながら言った。
「そうなのね。じゃあ……」
3人の話を聞くと恵理は化奈の横を通って塔也の前に回り込み、
「ちょっと、あんた聞いてる?」
声のトーンを低くして、前の座席に膝で座って話しかけた。
「わっ! 何だ壬生川さんか」
「何だってことはないでしょ。本に夢中なのはいいけどあたしが近くに来ても気づかないって相当よ?」
感想を素直に伝えると塔也は慌てて文庫本を閉じた。
「ごめんごめん、ちょっとマレー先輩に借りた小説が面白くてさ。それで何か用?」
「もちろん用があるから話しかけたの。ちょっと聞くけどこの後時間ある?」
「えーと、17時にヤッ君先輩と落ち合うからそれまでなら」
「じゃあ大丈夫ね。皆、今から白神君借りるから」
そのまま右手で塔也の左手を握ると恵理は彼を引きずるようにして立ち上がり、有無を言わせず教室後方に向けて歩き出した。
慌てて肩掛けカバンを手に取って連行されていった塔也を見ながら林、柳沢、そして化奈の3名は呆然としていた。
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