76 気分は高校生物

 2019年6月15日、土曜日。時刻は朝の10時ちょうど。


 明後日の月曜日からは3日連続で分子生物学・生化学・生理学の試験が実施されるというタイミングで、僕は3回生の物部もののべ微人まれひと先輩、通称マレー先輩に招待されて文芸研究会の部室に来ていた。


 本部キャンパスの外れには文化部棟と呼ばれる古びた建物があり、いつ崩れてもおかしくなさそうな外観を見ながら中に入るとそこにはやはりと言うべきかレトロな内装が広がっていた。


 本来は白色なのだろう壁は黒ずんで灰色になっており、床は無駄なまでに段差が多い作りで当然ながらエレベーターなどというものは設置されていない。


 畿内医大のような単科医科大学では学生数の少なさからクラブ活動自体そこまで充実していないが東医体や西医体という全国的な大会がある運動部に比べて文化部はさらに冷遇されており、文化部棟の老朽化が激しいのもその表れなのだろう。



 僕は1回生までは剣道部にしか所属していなかったので文化部棟に来るのはこれが初めてであり、入学時にキャンパスマップが配布されていたのに改めてマレー先輩に場所を確認したほどだった。


 建物のボロさに何とも言えない悲しさを感じながら2階に上がり回廊状になっている通路を少し進むと、そこには文芸研究会の部室があった。


 文化部棟という名前だが一部の運動部(主に学外で活動する団体)もこの建物に部室を持っていて、登山部は部室の扉に巨大なホワイトボードを掲示してミーティングの日時を書いておりスキー部も同様のボードに今週の練習スケジュールと「遅刻厳禁!!」というメッセージを書いていた。


 その一方で文芸研究会の部室の扉には特に何も掲示されておらず、元々貼られているらしい表札にはシンプルに「文芸研究会 部室」と印字されていた。



 人気ひとけのない土曜日の文化部棟で恐る恐るドアノブに手をかけると、鍵は既に解除されていた。


 そのまま中に入ると、8畳ほどの狭い部室の机で無精髭の残った背の高い男性が本を読んでいた。


「おはようございます、マレー先輩」

「おお、来てくれたか。俺もさっき着いた所だ」


 今日の先輩はカーキホワイトのズボンに真っ黒なシャツといういつにも増してカジュアルな服装であり、大した荷物もなさそうなのにいつもの巨大なスポーツバッグを持ってきていた。


「明後日から試験なのに呼び出して申し訳ない。白神君に直接会わないといけない案件だからスケジュールを検討したが、今日を逃すと7月に入るまで俺の都合が合わなくてな。まあすぐに終わるから安心して欲しい」

「いえいえ、先輩こそ土曜日なのに登校して頂いて申し訳ないです」


 恐縮してそう言うと、マレー先輩は頷きながらスポーツバッグのジッパーを開いて右腕を差し込んだ。


 僕が室内を見回しつつ座席の近くに歩み寄った所で先輩は透明な袋に入った金属製の何かを取り出した。


 そのまま袋の口を開くと先輩は中からキーリングに連なった3本の同じ鍵を取り出し、その内の1本を外した。


 僕に向かって差し出された鍵を落とさないよう気を付けて受け取る。


「改めて言うがこれがこの部室の鍵だ。部員が個人で複製鍵を所持することは許可されているが、所有者名簿は大学に提出する必要があるから今から署名と捺印なついんを頼む」

「ありがとうございます。ちゃんと判子も準備してきましたよ」


 喜びながら答えると先輩はよし、と呟いてスポーツバッグから名簿らしきA4用紙を取り出した。



 僕が今日ここに来たのは正式に文芸研究会に入部したことを理由に部室の合鍵を貰うためだった。


 これまで文化部には入ったことがなかったので部室の鍵の扱いについては全く知らなかったのだが、マレー先輩から先日「新入部員には希望制で合鍵を渡しているが、白神君は必要だろうか」とのメッセージを頂きせっかくなら持っておきたいと思って合鍵を作って貰ったのだった。


 文化部棟の部室の鍵は各クラブの主将が保持している他、主将以外の部員も登録制で合鍵を所持することが認められている。


 合鍵の所持は気軽に行えるものではなく所持したい部員は事前に「部室合鍵所有者名簿」に自筆署名と捺印をする必要があり、合鍵を紛失した場合は大学に申し出て鍵交換の実費(15000円)を支払う必要がある。


 それでも文化部棟はクラブの用事で頻繁に出入りする場所であり、特に用事がなくとも暇な時の休憩場所や部員同士の待ち合わせ場所として便利な場所なので文化部に所属してそれなりに活動している学生は大抵合鍵を貰っているという。


 僕が文芸研究会でそこまで積極的に活動することになるかは分からないが、まだ2回生なので部員として過ごす期間は相応に長くなるし学内で適当に時間を潰せる場所ができるのもありがたいと思った。



 所有者名簿に署名と捺印を済ませて先輩に返却した。


 そのままさっさと帰るのもどうかと思って僕はしばらく先輩と話していた。


「明後日から2回生最初の試験だな。俺も去年は大変だったし実際生化学の再試にかかった時は死を覚悟したが、白神君はどうだ?」

「そうですね。去年は化学の再試にかからずに済みましたけど、生化学ってどちらかというと高校の生物に近いじゃないですか。僕は受験では物化選択でしたし去年も生物学は再試かかってたのでヒヤヒヤしてます」

「それ、すごく分かるな。というか俺も全く同じパターンだったよ。受験では物理選択が有利だって言うし実際そういう場合が多いけど、入学してからは生物やっときゃ良かったって思うことばかりだ」


 試験トークで盛り上がっている間に僕は2回生が現在よく見ている生化学の2017年度・2018年度過去問の解答解説は病理学教室のヤミ子先輩が作ったものだということを知った。


「ヤミ子君は大学受験でも生物を選択していたし入学してから今まで1回も再試にかかってないな。物理学とか数理科学は剖良君にコーチして貰って乗り切ったらしいが、研究医生としてはああいう子の方が向いているだろう。俺も微生物学に関しては高校生物レベルの知識は習得できたが他はもうさっぱりだよ」

「あの、医学生が高校生物をやってないのって研究にも影響が出てくるんですか?」


 高校生物の知識の不足は大学の授業を受ける中で確かに困っているが、基礎医学の研究にも悪影響が出るというイメージはなかった。


「残念だがその通りだ。循環器とか呼吸器とか臨床医学を勉強する段階になると高校生物の知識はそこまで重要にならないが、俺たちがやるような基礎医学の研究では高校生物の知識が本当に大事だ。顕微鏡を使う解剖学とか病理学では細胞、生化学とか生理学では代謝、微生物学では細胞に加えて生物の系統と分類、薬理学では代謝に加えて生命現象というようにどの基礎医学も高校生物の単元と密接にリンクしている。三浪もしておいて何だが、今から大学受験をやり直せるなら絶対に生物を選択すると思う」

「そうなんですか……」


 僕が大学受験で生物を選択しなかったのは化学・生物選択よりも物理・化学選択の方が高得点を取りやすいからではなく、母校である松山第一高校ではそもそも理系コースで生物の授業が設けられていなかったからだった。


 都会の進学校ではセンター試験での選択者が全国で1000人ほどと極めて少ない理系の地学以外はどの理科の科目も選択できるのが一般的だが、地方の高校では教員の不足から生物のような有名科目でも授業が受けられないことがある。


 愛媛県内の公立高校では偏差値トップの松山第一高校でも事情は同じであり、社会科だと倫理と政治・経済は高1で軽く履修して終わりになってしまうため首都圏の有名な文系大学を「倫理、政治・経済」選択で受験したい同級生が嘆いていた記憶がある。


 もし今の知識を持って高校生の頃に戻れたとしても高校で授業がない生物を自力で勉強して医学部受験に挑むほどの勇気はないだろうが、それでも基礎医学の研究者になるのに高校生物の知識がないのは辛いと思った。



「まあ、俺の知り合いの研究医生だと剖良君もヤッ君も物化選択だし確か2回生の生島君と壬生川君もそうだったはずだ。高校生物だって後から復習する機会はあるし、知識が足りないことを自覚して研究に励めば大丈夫だ。そう気を落とさなくていいさ」

「なるほど。先輩のお話、すごくためになります」


 感心しつつ頭を下げるとマレー先輩は恐縮した様子で頭を振った。

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