66 気分はデータ出し

「失礼しまーす」


 慣れた動作で入室したヤッ君先輩の向こうに分厚い眼鏡をかけた気難しそうな男性の姿が見えた。


 教授特有の高級そうな椅子(ただしキャスター付き)に座っている男性は50代後半から60代前半ぐらいに見えて、あまり多くは残っていない頭髪にしわの多い頭皮、鋭い目つきが合わさって頑固そうな印象を与えていた。


 椅子を取り囲むように置かれている大きな机とサイドデスクには2つのモニターと巨大なデスクトップPCが置かれていて、年齢の割にはITに詳しい人なのだろうかと思った。



「こんにちは、2回生の白神塔也です。今月はこちらの教室でお世話になります」


 無意識的に自分からさっさと挨拶すると、男性は椅子ごと僕らに振り向いた。


「ああ、君が白神君やな。成宮先生から話は聞いとる。まあ座りや」


 本地教授は話し始めると意外にもネイティブらしい関西弁で、僕らにテーブル周囲の座席に着席するよう指示した。


 教授室はどこの教室でもそこまで広くないが、階級の高い教員同士で内々の会議を開催したり成績不良の学生と人目につかないよう面談を行ったりするために教授のデスクの他に4人ほどの座席があるテーブルが設けられているのが一般的だった。


 はーい、と軽く答えて着席したヤッ君先輩にならって僕もその隣の椅子に腰かけた。


 本地教授は大儀そうに椅子から立ち上がるとゆっくりと歩いて僕らの向かい側に座る。



「まあ、そう緊張せんでええ。他の基礎医学の教授とちごて俺と白神君はここでうとるのが初対面のはずや。研修はまだやけど病理の紀伊先生とか微生物学の松島先生とはもう顔見知りなんやないか?」


 先生の表情はいたって真面目なのだが、地元民でない僕にはきつめの関西弁というだけでフランクな印象を受けた。


「ええ、そうですね。紀伊先生には抄読会で何回かお会いしていますし松島先生には教養科目でお世話になりました」


 3月に初めて誘われてから4月と5月にも病理学教室の抄読会には出席していたし、松島教授は医学生教育センターの一員として教養科目の指導に携わっているので1回生の頃からよく知っている。


「こういう機会でもなかったら俺が2回生と知り合うのはせいぜい10月からやな。そこのヤッ君みたいな学生研究員とか東医研の部員はともかく薬理学の授業のタイミングはそれぐらい遅い。で、これがどないな意味か分かるか?」

「えっ?」


 本地教授から突然問いかけられ、僕は答えに戸惑った。



「まあ仕方ないわ。ヤッ君」


 やれやれという表情で教授がヤッ君先輩の名を呼ぶと先輩は手を挙げて、


「はーい。要するに、2回生は10月になるまで薬理学については何も学ばないのに今の段階で研修なんてやれないよってことですね?」


 はきはきとした口調で答えを述べた。


「要するにそういうこっちゃ。薬理と病理の基本コース研修は授業が始まるより前やから科目内容に即しては何にも教えられへん。病理では動物実験をゴリゴリやる言うからうちの教室も白神君には基本的な技能を伝授したろおもとる」

「なるほど、今月は薬理学研究についての指導というよりはどこの教室の研究でも使える技能を教えて頂けるということですね」


 言われた内容を噛み砕いて繰り返すと教授は深く頷いた。



「そんで結局何を教えるかやけど、白神君はデータ出しという言葉は聞いたことあるか?」

「データ出し?」


 データを出すという語感からは何かイメージできそうな気もするが、具体的にそれがどういう意味かは分からなかった。


「データいうんは実験から得られた科学的な知見で、データを出す言うたら実験の結果をデータとしてまとめるいう意味や。例えば肝癌のマウスに薬剤を投与したらどれだけ生存日数が延びるかいう実験をやったとしたら、最終的にどれだけ生存日数が延びたかを定量化して報告するのがデータ出しやな。どない実験を繰り返してもデータとしてまとめんかったら何の意味もないしデータいうのは単なる実験結果のことやない。ヤッ君、ここの部分を説明したってくれ」


 最後の方の「データとは単なる実験結果ではない」というくだりがよく分からなかったがちょうどヤッ君先輩が詳しく説明してくれるらしい。


「オッケーです。あのね、白神君。さっきの例で肝癌のマウスにある薬剤を投与したら生存日数が3日延びたとするでしょ? この延びたっていうのは同時に飼育する対照群との比較ね。あっ、対照群は分かる?」

「ええ、分かります」


 科学研究の基礎的な用語に対照群(コントロール群)という言葉があり、これは何らかの介入を加えられた群(実験群)に対して同じ条件で介入を加えられていない群のことを指す。


 実験群だけの結果が得られても比較対象がなく議論できないのでこういった介入を伴う実験では対照群を設ける、すなわち対照実験を行うのが原則だ。



 肝癌のマウスに薬剤を投与する例だと実験群のマウス、つまり薬剤を投与されるマウスと同じ状態であって薬剤を投与されないマウスが対照群に相当する。


 こういった実験では薬剤の効能を調べたい訳なので対照群には「何も投与しない」のは不適切であり、「実験群に投与した薬剤と同じ量の生理食塩水を投与」しないと対照実験は成立しない。


 「薬剤を投与したマウス」と「何も投与しなかったマウス」の比較では注射によるマウスへの痛み刺激や液体投与による体液量増加の影響を排除できないが、「薬剤を投与したマウス」と「生理食塩水を投与したマウス」の比較にすれば(どちらも液体を注射されている訳なので)なるべく純粋に薬剤の影響の有無のみで比較できるのだ。



「実験群と対照群で5匹ずつマウスを飼育していたとして、薬剤を投与したマウスでは対照群よりも平均で3日間生存日数が延びました。これが実験の結果だよね。でもデータっていうのはそれだけじゃ駄目で、『このような遺伝型・性別のマウスをこうやって飼育して薬剤をどれくらいの濃度と量で投与したら対照群と比べて生存日数が3日間長くなりました。この結果には有意差がありました』とまで情報を整理して初めてデータとして扱われるの。実験結果はデータとしてまとめないと発表できないし、データ出しを正しくやらないと発表しても信頼して貰えないんだよ」

「なるほど、ただ単に実験を積み重ねればいいんじゃないんですね」


 ヤッ君先輩はジェスチャーを交えつつ明瞭に説明してくれたので、言わんとすることの8割ほどは理解できた。


 単純に実験結果を記しただけでは学会などで発表することはできず、実験の条件から方法、結果、考察をまとめてデータにすることで初めて発表できる。


 採点基準が不明瞭なコンテストでは八百長が疑われるようにデータ出しを正確に行っていないとデータの信頼性も担保されないらしい。


「どこの教室の研究でも研究者が毎日必死でやっとんのはデータ出しや。研究者がやるべきなんは一にも二にもデータ出しで、データを出さへんと研究やっとる意味がない。データ出しこそが医学研究の神髄とも言えるやろな」


 データ出しという言葉がゲシュタルト崩壊しそうになってきた。



「まあ長々言うても今の段階やと分からへんやろ。今から今月の課題を発表するけど要するにデータ出しを実際にやってみなはれいうこっちゃ。薬理学教室の昔の実験記録を渡すからそれを基にデータを出して、毎週月曜に俺の所まで持ってきてくれ。書き方はどないでもかめへんけど必ずA4用紙1枚にまとめてきてな。どれだけツッコミ入れれるか楽しみにしとくわ」


 本地教授は嬉しそうにそう言うと僕に大量の紙が入った分厚い封筒を渡した。


「これは……?」

「さっき言うた通り昔の実験記録のコピーや。使つこうたマウスの品種から性別、飼育環境と餌、薬剤の投与方法から実験結果まで全部載せてある。白神君はこれを基にデータ出しをやるねんで」


 封筒の中身の分量を考えると気が遠くなるが、教授が言うにはこれでもA4用紙1枚にまとめられるらしいので何らかのコツがあるのだろう。



「本当やったらもうちょい俺が色々教えたりたいんやけど、今月は2回生の試験もあるし拘束が多いと白神君も困るやろ。毎週月曜以外はこの教室にも来んでええからヤッ君に教えて貰いながら頑張ってな」

「分かりました。先輩もお忙しい中恐縮ですがよろしくお願いします」


 そう言って軽く頭を下げると先輩はいつものニコニコ笑顔で応えてくれた。


 本地教授は第一印象にたがわず厳しい所もあるのだろうが、2回生の試験日程も考慮してくれていることからするとやはり学生思いの先生なのだろう。

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