45 気分は大学デビュー

 それから彼女が話したことによると、壬生川さんが医学部医学科を目指したのは以下のような理由だった。


 壬生川さんの出身高校である立志社女子高校はエスカレーター式の学校であり、生徒の大半は大学受験をせずに立志社女子大学へと進学する。


 受験のことなどほとんど誰も考えていない高校の中で壬生川さんは周囲の友達と同じ進路を選ぶことも考えたが、庶民の暮らしを知っている彼女はどうしても純粋培養のお嬢様たちと同じ道に進む気にはなれなかった。



 海内塾の数学科講師であるお父さんも娘には大学受験を勧めたが、旧帝国大学の理学部数学科を卒業しても職場探しに苦労した経験のあるお父さんは壬生川さんには資格職に就ける大学を受験するようアドバイスした。


 高校では理系コースに在籍していた彼女には医学部、歯学部、薬学部といった選択肢があり、高2の時の全国模試で偏差値59程度を取れていた彼女は昨今の医学部ブームに乗ってチャレンジしてみることにした。



 彼女が枚方市の実家から通える国公立大学の医学部は旧帝国大学である浪速なにわ大学や京都大学、都市部にあって人気が高い大阪都市大学、神山しんざん大学、洛北らくほく大学といずれも難関校であり、通常こういった受験生はよほど学力が高くない限り地方大学の医学部の受験を検討する。


 その一方でご両親は一人娘を親元から離したくなく、壬生川さんは受験していい医学部は上記5大学だけというルールを課された。


 母方の祖父母の実家がある愛媛県に戻って伊予大学の医学部に通うという案はお父さんが妻の両親と非常に仲が悪いことから認められなかったらしい。



 共働きとはいえ壬生川さんの家庭に私立医大の学費を出せるほどの財力はなく、彼女は現役から一浪に至るまで洛北大学だけを受験して2回とも不合格になった。


 近年では大学入試において医学部医学科の後期日程は縮小・廃止される傾向にあり、上記5大学はいずれも前期日程でしか学生を募集していないため彼女の受験は現役時も一浪時も一発勝負にならざるを得なかった。



 娘のためを思って課したルールが結局は本人を苦しめることになり、二浪が決まって精神を病みかけた壬生川さんを見てお父さんはある決意をした。


 今年度は畿内医科大学の医学部を受験してもよいが国公立大学の医学部を目指すのは諦め、私立医大に受からなかったら家から通える国公立大学の理学部に進学すること。


 学費は自分が何とかすると言ってお父さんは壬生川さんにそう命じた。


 受験してよい私立医大が畿内医大だけになったのは実家から通える4つの私立医大の中では学費が安くて偏差値が最も高いことと、今から2校以上の対策を行うだけの余裕がないことが理由だったらしい。



 お父さんは一人娘にどうにか私立医大を受験させてあげたい一心で大嫌いな妻の両親に頭を下げ、祖父母の退職金と年金から孫の学費を工面することを約束させた。


 受験の当事者である壬生川さんは、当初は受験していい大学を制限して自分を二浪に追い込んだお父さんを恨んでいた。


 それでも必死で学費を工面してくれた父親の愛情に感謝し、彼女は学費が減免されるならと畿内医大の研究医養成コース入試に出願した。


 3回目となる大学受験で彼女は浪速大学の理学部を受験する前に畿内医大に研究医養成コースでの入学が決まり、学費を減免された上で私立大学の医学部に合格できた。


 紆余曲折うよきょくせつを経て医学生になることができた彼女をご両親も祖父母も心から祝福し、壬生川さんは生理学教室所属の研究医養成コース生として学生生活を続けている。



「あの頃は大変だったけど二浪して医学部に入ったことは後悔してないわ。試験勉強は大変だけど将来は医師免許が手に入るし女子バスケ部ではエースになれてるし、生理学の研究だって面白くなってきてるから」


 壬生川さんは一息にそう言うとコップに残っていたウーロン茶(50%)を飲み干した。


「それは良かったね。僕なんて実家で色々あって部活も辞めちゃったし、壬生川さんみたいに輝いてる友達を見るとうらやましいよ」


 僕がそう返事をした瞬間、彼女の目がギラリと光った。



「そこ」


「えっ?」


 短く二文字を発声した彼女に聞き返すと、壬生川さんは低い声で、



「そういう所が、あたしの悩みなの」


 と言った。



「高校時代のファッションを変えてないだけなのに、うちの大学は正直イケてない女の子が多いからあたしは良くも悪くも目立っちゃってるでしょ? 確かに男の子はすぐに粉をかけてくるしバスケ部でも看板娘みたいに扱われてるけど、そういうのがいい加減しんどいの!」


 壬生川さんは突然不機嫌になると日々の生活への不満を口にした。


「ええー、でも僕らは美人な壬生川さんを見てると嬉しいよ?」

「簡単に言うけどね、ゴージャスな服とかバッグはそれだけ高いし化粧品にもエステにも結構なお金がかかるの。学費減免って言ってもおじいちゃんにお金を出して貰ってる訳だから高校生の頃みたいに簡単にお小遣い貰えないし。お金のこともそうだけど、毎日違うファッションを考えたり1時間以上もメイクに使ったり実験室に入るたびに着替えて髪を括ったり、本当にうんざり!! できるなら今からでも大学デビューして、毎日こんな服装で登校したいの!」


 黒縁眼鏡がずれそうな勢いで壬生川さんはそう叫んだ。


「ええ……」


 彼女の言い分はとてもよく分かるのだが、今日の朝まで生まれつきのお嬢様と思っていただけにその剣幕には正直ドン引きしてしまった。



「あたしをこんな状況から助けられるのは白神君、あんただけよ。男友達、まあ彼氏でもいいけど……とにかく白神君と付き合っている内に影響を受けたことにすれば、あたしもいつかはこういう格好で登校できるようになるの。5月中は毎日お弁当作ってくるから昼ご飯は一緒に学食で食べましょう。分かった?」

「いや、分かったも何もそれは無理があるような……」


 口では軽いツッコミに留めたが、壬生川さんに浮気してカナやんを泣かせたと噂されている状況でお芝居とはいえ壬生川さんとお付き合いする姿を見られるのは流石に困ると思った。


「別にいいじゃない。生理学教室の基本コース研修がある5月だけでいいしお互い恋人いないし、何より同郷のよしみでしょ?」

「同郷って言われても、僕は今日の今日まで忘れてて」

「あーもう仕方ないわね。放課後にデートしてくれなんて言わないし忙しいあたしがお弁当も毎日作ってくるつもりなのに」

「へっ、お弁当?」


 つい聞き飛ばしていたキーワードに僕は反応した。



「そうよ。さっきも言ったでしょ?」

「それって材料費とか払わないといけないやつ?」

「何バカなこと言ってるの。お金なんて貰う訳ないじゃない」


 僕の脳内に、1日の昼食代500円×約20日(残る平日と土曜)という計算式が浮かんだ。


 要するに、この計画に付き合えば昼食代が1か月近くタダになる。



「分かりました、ぜひ協力させてください!」

「いきなりどうしたの? まあお互い大変だけど仲良くしましょうね」


 自らの評判よりも昼食代免除を選ぶのは道徳的にどうなのかと思ったが、正直言って僕の家計はそうせざるを得ない状況だった。

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