42 気分はフォームチェンジ

 気が気でない状況で1日を過ごし、気づけば既に5月2日の木曜日。


 レトルトのご飯で朝食を済ませた僕は寝癖がついていないかを念入りに鏡でチェックしてから研究棟7階の生理学教室を訪れた。


 例によって学生なら誰が入ってもいい会議室に入室するとまだ9時50分だからか誰も来ていなかった。


 5分ほどすると会議室のドアがノックされ、やはり高級な衣服に身を包んだ壬生川さんが入ってきた。



「おはよう、白神君」

「おはよう。あの、壬生川さん、昨日のことなんだけど……」


 会議室の椅子に腰かけて何事もなかったかのように挨拶する壬生川さんに少々混乱しつつ話しかけると、


「白神君。そのことはお昼にゆっくり話すから今はオリエンテーションに集中しましょ?」


 あっさりと話を後回しにされた。


「うん。分かった……」


 そう返事した所で再度ドアがノックされる音がして、おそらく先生だろうと僕は少し姿勢を正した。



「お休み中にすまないねえ。改めまして、って言わなくても普段から授業で会ってるから分かるよね?」


 和やかな微笑みを浮かべて入室してきたロマンスグレーの中年男性は生理学教室の天地教授だった。


「おはようございます。今日は暇だったのでむしろ用事が入ってありがたかったです」

「そうかいそうかい。君たちぐらいの年代は無理にでも遊びまくるのが健全だと思うけど、そう言ってられる立場でもないんだよねえ。悲しいなあ」


 天地教授はいつも関西人男性の70%ぐらいのスピードで喋る人で、聞いている側を和ませてくれるのだが講義中は眠くなると評判だった。


「研究医養成コースの研修といっても基本コースだし、本当は連休明けまで待ってもよかったんだけどね。そうすると5月中に教えられる日数が減るし今月何をやるかも決まってない状態で連休を過ごして貰うのも悪いと思ってねえ」


「いえいえ、僕としても早いうちに分かった方がありがたいです」


 文章に直せば普通の会話なのだろうが、実際は天地教授が喋り終わるまで待つのにはそれなりの慎重さが要求される。


 ちなみに天地教授はこういうキャラクターだが東京大学医学部出身で、アメリカの有名な医学研究機関で長年主任研究員を務めていたという畿内医大では異色の経歴の持ち主だ。



「僕の部屋に行ってもいいけど、ここで話せば済むことだから今から初回オリエンテーションを始めるね。生理学研究では少し先輩だけど壬生川さんもこの話は聞いといてね?」

「ええ、もちろんです。よろしくお願いします」


 椅子に座ったまま壬生川さんはぺこりと頭を下げた。


 5月の気候に合わせて彼女もやや薄着になっていることに気付き、僕はしばらく教授に返事をするのを忘れていた。


 天地教授はビジネスバッグに何かの文書を入れて持参していて、椅子に腰かけると会議室の机にいくつかのクリアファイルを広げた。


「生理学教室って言うからマウスとかラットとかゼブラフィッシュで何かの実験をやると思ってたかも知れないけど、この基本コースでは白神君に動物をいじって貰うつもりは一切ない。たまに飼育動物の餌やりを頼んでるけど壬生川さんも動物を使っての実験はまだ始めてないんだよ」

「そうなんですか?」


 生理学というと動物に薬品を注射したり外的刺激に対する筋や神経の反応を調べたりする実験が思い浮かぶので、僕は天地教授の話に驚いていた。


「実験動物を使って生理学的な研究をするには1か月じゃ絶対に足らないし、実験動物を使うけど1日で終わる作業は6月の生理学実習で全部教えることにしてる。免疫染色は解剖学教室で、マウスの解剖は病理学教室で教えるって聞いてるし具体的な動物の扱い方はどこかの教室への所属が決まってから勉強すれば十分だよ」

「なるほど……」


 この大学では基礎医学教室同士の交流はほとんどないと聞くが、天地教授は僕が受ける研修のカリキュラムについては下調べをしてくれていたらしい。



「君たちにやって欲しいことはたった一つ。面白い研究テーマをいくつも考えて、その中から実際にやってみたいテーマを3本選んで欲しい。これは白神君と壬生川さんの2人に共通の課題にするから5月末までに絶対に探してきてね」


 天地教授はそう言うと僕と壬生川さんにそれぞれ文書が挟まれたクリアファイルを渡した。


 そこには生理学教室の歴代の学生研究員が考えた研究テーマがまとめられていて、実験動物を用いた典型的な研究テーマから疫学的な研究テーマ、中には人文科学系の研究テーマまで様々なジャンルのものが集まっていた。


「面白いというのはどういう観点のお話ですか?」


 教授に渡された文書をパラパラとめくりつつ壬生川さんが質問した。


 確かに、天地教授はどういう研究テーマを考えるかのヒントをほとんど与えてくれていない。


「いい質問だねえ。面白い研究テーマという言葉には色々な意味があって、研究する価値があるとか着眼点が珍しいとかいう意味でも使われる。今回僕が言った面白いという言葉は君たち自身が面白いと思えるという意味だよ」

「僕ら自身が、面白いと思えるか……」


 天地教授の説明は分かったようで分からない感じがして、僕は言われたことをそのまま繰り返した。



「僕も30年以上研究者をやってきたけどね。研究室で出世できない、要するに面白い研究をやれない研究医っていうのは自分がやってる研究を面白いと思ってないんだ。そういう人は大抵臨床医に転向するしそれはそれでいい人生だと思うけど、僕は少なくとも君たちのような研究医養成コース生にはそうなって欲しくない。どうせ1か月しか時間がないなら僕は君たちに面白い研究を見つけるを養って欲しい」


 普段はのんびりと話す天地教授はそう伝える時だけはいつもより早口になっていて、口調には真剣さが感じられた。


「君たちは5月の間、生理学教室にはほとんど来てくれなくても構わない。今時は自宅でもオンラインジャーナルで大量の論文を閲覧できるし、大学の図書館はそれこそ研究テーマのヒントの宝庫だ。毎週金曜日の16時30分に発表会をやるから一週間で考えた研究テーマをそこで毎回5本紹介すること。4週間でそれぞれ20本の研究テーマを見つけてくる訳だから最終的に最も興味のある3本を絞り込んでね」

「分かりました。白神君と協力しながら私も生理学教室の研究医生として恥ずかしくない発表ができるように努力します」


 そう答えた壬生川さんに対して頷きつつ、天地教授はポストイットに自分のメールアドレスを書くと僕に渡してくれた。


 教授がつきっきりで何かを教えることはないが、研究テーマの探求で困ったことがあればいつでも相談して欲しいとのことだった。



 それから天地教授はさっさと会議室を出て自らの研究に戻り、生理学教室の初回オリエンテーションはあっさりと終わった。


 腕時計を見ると時刻はまだ10時30分にもなっていなくて昼食に行くには早すぎると思った。


「お疲れ様。天地先生はのんびりした人に見えるけど研究のことになると熱くなるから、白神君も色々学べるはずよ」

「そうみたいだね。普段授業受けてる時はそんなにバリバリやってそうに見えなかったけどやっぱりうちの大学の教授って感じがするね」


 解剖学教室のたわら教授とはあまり話さずに終わっていたが、病理学教室の紀伊教授も生化学教室の成宮教授もキャラクターの濃い人だったので天地教授も例に漏れず熱い人なのだろう。



「白神君が気にしている件だけど、今から私と一緒に来て欲しいの。ちょっと着替えていきたいから附属病院のコンビニの前で待ち合わせでもいい?」

「え? うん、いいけど……」


 せっかく高級そうな服を着てきたのにわざわざ着替えてどこに行くのだろう。


 スポーツジムやボルダリング施設なら着替える必要もありそうだが、誰の目にもつかない所ではなさそうだ。


「ありがとう。それじゃ先に行っててね」


 壬生川さんはそう言うとバッグを持って会議室を出ていった。


 剖良先輩が学生研究員の待機室で白衣に着替えていたように彼女も教室内のどこかに着替えを置いてあるのだろうか。



 ともかく今は状況に流されるしかないので僕も続いて会議室を出た。


 そのままエレベーターで研究棟1階に降り、大学から阪急皆月市駅に向かう途中にある附属病院まで歩く。



 附属病院内で営業しているコンビニには院外から直接入ることができ、外来および入院患者やその家族の他に教職員や学生も利用していることがある。


 祝日なので人通りは少ないが学生同士の待ち合わせに使われることは滅多にないので、僕は居心地の悪さを感じながらコンビニの前に立っていた。



「お待たせー」


 僕に向かって呼びかける声が聞こえて、それは紛れもなく壬生川さんのものだった。



「あっ、壬生川さん……」


 振り向いた僕が目にしたのは壬生川さんのはずなのだが……



 現れた女の子は壬生川さんのロングヘアと同じ色合いの黒髪をヘアゴムで一本にまとめ、度が強そうな黒縁の眼鏡をかけていた。


 身にまとっているのは高級ブランドのスカートルックではなく大衆店で売っていそうなシンプルな上下のパンツルックで、靴はハイヒールではなく歩きやすいスニーカー。


 ブランド物らしい小型のバッグはどこに消えたのか目の前の彼女は僕が持っているような大きな肩掛けカバンを携えていた。


 ゴージャスな衣服やバッグは見る影もないがこれはこれで全体的にお洒落なファッションになっていて、何より服の上からでも分かる抜群のスタイルは目の前の女の子が壬生川さんに他ならないことを証明していた。



「えーと、壬生川、さん……?」


 呆然として同じ言葉を繰り返すと、女の子はカッと目を見開き、



「ええ、そうよ。あたしはさっきの壬生川恵理と同じ人間。で、あんたは白神君……じゃなくて白神塔也。松山市立第一中学校の平成25年度卒業生よね。卒業時のクラスは3年C組であの頃も剣道部員。彼女はいなかったかしらね」

「ふぁっ!?」


 思わずまた変な声が出た。


 それも当然で彼女がつらつらと口にした僕の経歴はすべて事実であり、今の僕に探偵を付けた所で中々分からないぐらいの情報だらけだった。


 壬生川さんの一人称があたしになっていたり僕をあんた呼ばわりしていることなどどうでもよくなるぐらいの驚きだった。


「にゅ、壬生川さん。君、一体どうして」

「何? まさかまだ思い出さないの? まあいいわ……」


 壬生川さんはそう言うと半袖のブラウスから伸びる右腕で僕の左腕を挟み、


「ここで長々話してるとまずいわ。今から行きましょ」


 と言って僕を引きずらんばかりの勢いで歩き始めた。



「行くって、どっ、どこに?」


 腕を組まれて豊かなバストが左腕に当たりそうになり、焦りながらそう尋ねると、


「決まってるでしょ? カラオケよ」


 壬生川さんはぶっきらぼうに答えてそのまま僕を連行していった。



 奇妙な出来事もここに極まれりという気がした。

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