男女殺戮二人旅

渡貫真

第1話

 女の声が夜の部屋に響いていた。

 ただしそれは嬌声ではなかった。断続的に鳴る肉体同士がぶつかる音は、女の腹に向かって男が拳を振り下ろすことによって生まれている。

 既に数え切れる程の殴打を受けているらしい女の腹は、内出血しているのだろうか、一面が紫色に染まっていた。

 女のくぐもった声も聞こえなくなった所で、男はようやく女を殴打することをやめた。

 息も絶え絶えになった女は、血反吐を吐きながら男の部屋を見まわしている。

 彼女が訪れるたびにこの一室は豪華絢爛の髄を凝らしたものになっていった。金を使った寝具や家具、洋風の部屋の壁にはこれまた金細工で掘られた見事な装飾が施されている。

 女はその様子を、じっと記憶していた。雑巾のように擦り切れながらも、まるで獣のような強い敵愾心を持ち、彼女は何かを待っていた。

「ご苦労だったな、今日はこれで終わりだ」

「なにが、ご苦労よ」

 女の嚙みつくような声にも男は無関心に身支度を整え、部屋から出て行く。

 女はおびただしい傷か刻まれた体を隠すかのように、よろよろと立て掛けられていた自身の着物に包まった。

 これが女の日常だった。女は毎日この時間になると男の暴力を受けていた。今日のように彼自身の手によって行われる暴力はまだマシな部類で、焼けた鉄や専門の拷問器具によって行われる行為は彼女に耐えがたい恐怖と苦痛を与えるのであった。

 とっくに絶命していてもおかしくない責め苦を、彼女はもう長いこと受けていた。今命があるのは彼女の先天的な頑丈さ故であるが、彼女にとってはちっともありがたくなかった。

 しかし、死ねないのであれば生き続けなけねばならない。

 女は、頭の中にしまっていたある書類の内容を思い出した。それは、男が不正に入手したと思われる組織の金による購入物の証書である。

 金で覆われた寝具、大理石の机、象牙の家具の数々。彼女がここに来るまでに頭に叩き込んだリストの内容とこの部屋に追加された品々は完全に一致していた。

 女は一人嗤う。

 彼女にとって最初で最後の反抗が始まろうとしていた。

 

 幕府が倒れてからしばらくもしないうちに、お金がないと気が付いた新政府は様々なものを手つかずにしながら地盤固めに奔走していたが、その手放しになっていたものには当然治安も含まれていた。庶民は身を守るために銃を手にするものが増え、一説によると地方に流通している拳銃は陸軍と警察の保持している銃の量を超えたという話まである。

 五郎も、銃を持つ者の一人であった。

 最も、彼の銃口は自分の頭に向けられていた。

 荒い呼吸を繰り返し、胃から登ってくる苦い液体を喉でせき止め、震える手で引き金を引こうとする。五郎の指は、今日も引き金を引かなかった。

 声にならない声を上げ、五郎は銃を床に叩きつける。

 几帳面にグリスで蓋をされたコルト・ポケット31口径が床を転がった。

 五郎は大量の冷や汗をぬぐうこともせず、顔を手で覆う。

 これで30回目の自殺未遂だった。節約した給料で買った銃は毎日五郎の頭に銃口を向け、そして引き金を引かれることはなくタンスの中に納まる。

 五郎はしばらく沈黙した後、ベルトの間に銃を捩じり込んで、鏡の前でどう動いても銃が露出しないかを確かめる。

 死ねないのなら、殺すしかない。それが五郎の結論だった。


 五郎は銅山の坑夫として働いていた。

 厳しい労働環境の中で、気の弱い五郎は気性の荒い坑夫たちにいいように使われていた。

 はじめは面倒な仕事を押し付けられる程度であったものが、次第に五郎に飯をたかるようになったり、軽い暴力を振るうようになった。

 最近では、外に運び出す物が詰まったゴンドラをわざとぶつけられる等の大けがを負ってもおかしくないレベルにまで彼らの「遊び」は悪化していた。

 五郎はどうすればいいのか見当もつかなかった、彼らはあくまで冗談という風体で五郎を虐げる。坑夫たち自身にもわかっていないのかもしれない。

 仕事を変えるだけの能力や学は五郎にはない。地域を出ていくだけの金も五郎にはない。

 五郎は何もない男だった。

 労働で疲れ切った体に、安い汁ものを流し込む五郎の周りで、坑夫たちは五郎から「指導費」という名目で取り上げた金で店に通い、酒を飲む。

 五郎はベルトの下の銃に意識を集中していた。坑夫の中には明らかに様子がおかしい五郎を気にする者もいるが、声をかけてくることはない。

 ここで坑夫たちを皆殺しにして、すべてを終わらせる。

 素早く銃を抜き、ハンマーを倒して引き金を引けばよい。狭い自宅で五郎が何度も練習したことだった。死ねないのであれば、苦しみの原因そのものを取り除いてしまうべきだ。

 銃は普段握っているよりも冷たく、重く五郎の腕にのしかかる。

 グリップを握りしめ銃を抜く。失敗しようのない単純作業である。

「おい、お前顔色悪いぞ。ここで吐くなよな!」

 五郎が決意を込めて引き抜こうとした手は、そんな単純な一言で止まってしまった。

「……何黙ってんだ?明日も仕事なんだぜ、ヤバいんなら帰って寝とけよ」

 声をかけたのは坑夫のリーダー格の男、三島であった。

 三島の声に少しだけ含まれていた、気遣うような声色に、それだけの要素に五郎は銃を抜くことができない。

 ほんの少し垣間見えた人間性に、五郎はどうしても固まってしまった腕を動かすことができない。

 五郎は真っ青な顔でうつむいた。絶望を終わらせるための戦いは失敗に終わった。

 異変を察した坑夫たちの視線が五郎に注がれる。

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