姫帝、内裏にて婿殿をお育てになる事
白里りこ
第一帖 姫帝、婿殿を寵愛なさる事
第1話 婚姻
空は雲一つない秋晴れだった。
都の北端にある帝の御座所、
間もなく、涼葉はここで、人生初の結婚式を挙げる。
「結局、お相手がどのような殿方か分からないままね」
涼葉は御簾の隙間から外の様子をじっと窺いながら、神より賜りし使い魔の
「どなたであっても、私のやることに変わりはないけれど」
ギャギャギャ、と葵龍はその小さな細長い体をくねらせた。側に控えている侍従たちが、少し不思議そうに葵龍の姿をこっそり見ていた。
貴族が台頭しつつあるご時世とは言え、
だが今、空光国は未曾有の危機に瀕していた。
疫病の大流行である。
高い発熱と全身の発疹を伴う奇病で、発症の数日後には死に至る。治療法は確立されていない。ちょうど今はこの病が国中で猛威を振るっている最中であり、都である
元々涼葉の夫となるべきであった殿方はこの病で呆気なく早逝し、次の候補の人物も次々と倒れた。それでも強引に婚姻が執り行われるのは、この国での政において熾烈な派閥争いをしている貴族、
涼葉の亡き母はまた別の貴族、
とはいえ、相手は噂にすらとんと聞かない御方だ。政に関わっているという話も知らない。とんでもないぼんくらという可能性もある。だとしても、受け入れるしかないが。
じきに御簾の外から、畏れながら申し上げます、と使者からの奏上があった。お相手を乗せた牛車が
涼葉は己がなるべく清楚で高潔に見えるよう、心の内を覆い隠して、居住まいを正した。心臓の鼓動が強まっているのが分かる。これより結婚相手と対面して、そのまま挙式へと進むのだ。いかに姫帝といえど、平常心でいるのは難儀する。
しかし涼葉とて立派な帝室の者。所作は完璧に洗練されている自信がある。
──足音が、近づいてきた。
「
侍従たちにより粛々と御簾が上げられる。
「失礼仕ります」
聞こえた花婿の声音は予想よりも高く、若々しかった。
そして、ぎこちない摺り足で祈信殿に入ってきたのは──予想よりもうんと年若い、どちらかというと少年と呼ぶに相応しい年頃の御方であった。
「お初にお目に掛かります。佐野原
丁寧に平伏した姿の、何と小さく愛らしい事か。
あらあらあら……と、驚きと慈しみの声が漏れ出そうなのを我慢して、涼葉はきりっとした表情を作った。
「
「承知致しました」
菊斗は左側の玉台に上り、ちょこんと胡座をかいた。涼葉との体格の差は歴然で、威容の差もまた歴然であった。涼葉はついにこらえきれずに微笑んでしまった。
菊斗は、元服をしてから大して時が経ってすらいないのだろう。その栗色の髪の毛はまだ子どものように短く、結うこともできていない。となると歳の頃は十四。涼葉の六つも下だ。だとしても、かなり小柄で細身な方だと思うが。
これなら、噂を聞いたことすらなかったのも頷ける。菊斗はつい先日、大人になったばかりなのだ。
祈信殿にて、神主と巫女が舞を捧げ、
次いで、涼葉と菊斗名前に、
最後に涼葉が誓いの言葉を読み上げる。
「天高く風爽やかなるこの佳き日に、私、
文言が書かれた紙を畳んで、神主に渡す。神主がそれを神前に備え、もう一度
これにて儀式は終了である。
一旦、涼葉は帝の午後の居室である
凛とした態度で背筋を伸ばして渡り廊下を歩み、慈浄殿の房内に入った涼葉は、畳の上にすとんと座り込んだ。
「上様!?」
侍女たちが慌てふためく。側近の
「如何なさいましたか。お加減が悪いのですか」
「かッ……」
「上様」
「可愛い過ぎる……ッ!」
涼葉はその深い藍色の目を大きく見開いたまま、右手で顔を覆った。
「……はい?」
「何なの、あのつぶらな瞳は! あどけなさの残る顔立ちは! ほっそりとした体躯は! 可愛いの権化だわ! あの子が私の、お、夫……ッ! うおおああ!」
「上様、お気を確かに」
涼葉はコホンと咳払いした。
「失礼。取り乱しました。お相手が予想より若くていらしたものだから、少し驚いてしまったの」
「左様ですか」
「そう。決めたわ。私、あの子を育てます」
侍女たちはぽかんとして涼葉を見守った。
「……上様、お気を確かに」
「大丈夫よ桐菜、私は正気だから。それより、あんな可愛い子が来るだなんて思わなかったわ。運の良いことね。明日からは私が四六時中おそばに居て、手取り足取り色々なことを教えて、あの子を私好みの素敵な殿方に育て上げるの。良いと思わない?」
「……上様のお好きになさるのがよろしいかと」
「やっぱりそうよね!」
涼葉は両掌を合わせてにっこり笑った。
「こうしてはいられないわ。明日から忙しくなるわよ。まずは手習いをさせて教養を磨いてもらわなくっちゃ。楽しく過ごしてもらえるようにお遊びも少し……。それに、年寄りばかりに囲まれていては可哀想よね。桐菜、あなたの親戚に、昨年元服したばかりの男の子がいるでしょう?」
「ああ、はい。
「その子を菊斗の世話役補佐として登用するわ。良いかしら? 良いわよね? 紙と筆と墨と判子と朱肉をここへ。委任状をしたためなくては」
「上様、お待ちを」
「それから菊斗のために玩具と楽器と書物をここへ。玩具は碁と双六と鞠とお手玉で良いかしら? 楽器はとりあえず琴で良いわね。書物は物語と説話集と歴史書と歌集と詩集を、それぞれ何冊か見繕っておいて頂戴。それから読み書きに必要な道具類と……諸々必要なものを一揃い運んで欲しいわ。お願いできる?」
「……。承りました」
桐菜はいつにも増して完全なる真顔になり、淡々と言われた通りに侍女たちに指示を出した。慈浄殿は急に慌ただしくなった。
さて、侍女たちが忙しくしている間に、祝宴に出かける準備をせねばならない。
黒の着物を直してもらった涼葉は、桐菜を供につけて内裏を出て、すぐ近くの
宴会場はすっかり準備万端であった。暗くなりかけの房室には灯火が幾つも設置されている。
房室の一番奥には涼葉と菊斗のためのお膳が置かれ、参列する貴族たちのお膳もずらりと連なっている。
お膳には御神酒の入った酒器と盃、
参加者が出揃ったところで、いざ大宴会の始まりである。
貴族たちは最初、涼葉と菊斗に恭しく祝賀を述べた。その後はかしましくお喋りに興じていたが、やがて飲めや歌えやの騒ぎに発展し、踊り出す者まで現れた。涼葉はにこやかにそれを眺めながら、菊斗の盃に酒を注ぐ。菊斗は平身低頭しながらそれを受ける。
宴もたけなわになったが、あまり夜遅くになっては障りがある。涼葉は頃合いを見て立ち上がり、列席してくれた人々に礼の言葉を述べ、解散を命じた。皆は涼葉と菊斗に逐一祝いの言葉をかけて、退出していった。
慈浄殿に戻った涼葉は、早めに寝支度を整えることにした。侍女の手を借りて湯浴みをし、絹糸のように白く滑らかな髪を解いて梳いてもらい、香を焚き込んだ寝間着に着替える。
辺りはもう真っ暗だ。
「そろそろお休みになられますか」
桐菜が普段と変わらぬ平坦な声音で尋ねる。そのいつも通りの空気感に、涼葉の緊張もほぐれる。
「そうするわ」
涼葉は上品な笑みを浮かべ、帝専用の寝室である
桐菜が燭台に火を灯し、深々と礼をする。
「では私どもはこれにて失礼します」
「ええ、ご苦労様」
涼葉は真っ白くて大きな布団に正座して、侍女たちを見送った。御簾が下げられる。涼葉はただじっと、菊斗の
通常、帝は任意の時に
涼葉は敷布団に座り、掛け布団を腰まで掛けて、静かに待った。
やがて、月明かりが清らかに差し込む御簾の前に、小さな影が現れた。
「し」
声変わりもまだしていない、上ずった声が聞こえてくる。
「失礼、仕ります。菊斗でございます。こ、今宵の、
まあ、と涼葉は柔らかく笑った。
「入室を許可します。どうぞ、お入りになって」
「恐れ入ります」
菊斗は挙式の時よりも遥かにぎこちない動きで、御簾を上げて入ってきた。動きがガチガチに固まっている。どうしたらいいのか全く分からないが、下手におどおどするのも失礼に当たる、と考えているのが丸分かりであった。
涼葉は優しく声をかける。
「大丈夫ですよ、菊斗。最初からあなたに無理な真似はしません。ただ、少しばかり添い寝しながら、ゆっくりお話をいたしましょう。ほら、おいでなさい」
ぽん、と涼葉は自分の敷布団の右半分に手を乗せた。
「は、い……」
菊斗はおずおずと敷布団に正座した。
「もう。それでは眠れないでしょう? 少し失礼しますよ」
涼葉は菊斗の肩に片手を置き、もう片方の手で菊斗の背中に手を回して──その小さく軽い体を捕まえ、ぽふんと布団に転がった。
「よーしよしよしよし!」
抱き枕よろしく抱きしめて、短い髪の毛をわしゃわしゃと撫で回す。
「ムグゥ」
「菊斗。よく私の元に来てくれました。今日はさぞ疲れたでしょう。私の胸で、ゆっくり休んで下さいね」
「ふぁ、あの、上様……ムググ」
「ここでは涼葉とお呼びになって。さあ、今宵はたくさん『よしよし』しましょうね。めいっぱい可愛がってあげますから、覚悟なさって。ほら、よーしよしよしよし」
「涼葉様、その、……ムグググ」
涼葉の腕の中で、菊斗は完全に赤面してしまっていた。涼葉は構わず、片腕で菊斗の頭を胸にギュウギュウ押し付け、頭から背中まで執拗に「よしよし」しまくり、ねぎらいの言葉をかけまくり、可愛い子だと褒めまくった。
菊斗は結局この夜、真っ赤になるばかりで、ゆっくり話すどころかまともに口も開けなかった。涼葉の方もすっかり愛おしさが暴走してしまって、「よしよし」以外のことは全くできなかったのだった。
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