姫帝、内裏にて婿殿をお育てになる事

白里りこ

第一帖 姫帝、婿殿を寵愛なさる事

第1話 婚姻

 空は雲一つない秋晴れだった。


 涼葉すずはは黒の礼服を重ね着して、大人しく祈信殿きしんでんの中央にある一対の玉台の片方に正座して待っていた。

 都の北端にある帝の御座所、内裏だいりの中で、最も南側に位置する祈信殿は、帝が公的な儀式をするために使われる建物だ。

 間もなく、涼葉はここで、人生初の結婚式を挙げる。


「結局、お相手がどのような殿方か分からないままね」

 涼葉は御簾の隙間から外の様子をじっと窺いながら、神より賜りし使い魔の葵龍きりゅうを手の先でもてあそんでいた。

「どなたであっても、私のやることに変わりはないけれど」


 ギャギャギャ、と葵龍はその小さな細長い体をくねらせた。側に控えている侍従たちが、少し不思議そうに葵龍の姿をこっそり見ていた。


 貴族が台頭しつつあるご時世とは言え、姫帝ひめみかどとして空光国そらみつのくにの頂点に君臨する涼葉の結婚式において、涼葉当人が当日まで相手を知らないというのは、本来ならば前代未聞の異常事態だった。


 だが今、空光国は未曾有の危機に瀕していた。


 疫病の大流行である。


 高い発熱と全身の発疹を伴う奇病で、発症の数日後には死に至る。治療法は確立されていない。ちょうど今はこの病が国中で猛威を振るっている最中であり、都である倖和京こうわきょうもその渦中にあった。


 元々涼葉の夫となるべきであった殿方はこの病で呆気なく早逝し、次の候補の人物も次々と倒れた。それでも強引に婚姻が執り行われるのは、この国での政において熾烈な派閥争いをしている貴族、佐野原さのはら氏の意向であった。


 涼葉の亡き母はまた別の貴族、久保山くぼやま氏の出身である。その涼葉が帝位についた今、久保山氏に権力が集中しすぎてしまい、政の秩序が乱れる。そこで涼葉は、太政大臣たる実兄と相談の上で、この婚姻を承諾した。


 とはいえ、相手は噂にすらとんと聞かない御方だ。政に関わっているという話も知らない。とんでもないぼんくらという可能性もある。だとしても、受け入れるしかないが。


 じきに御簾の外から、畏れながら申し上げます、と使者からの奏上があった。お相手を乗せた牛車が大内裏だいだいり前に到着し、ただいま輿こしにて内裏へ──祈信殿に向かっているという。


 涼葉は己がなるべく清楚で高潔に見えるよう、心の内を覆い隠して、居住まいを正した。心臓の鼓動が強まっているのが分かる。これより結婚相手と対面して、そのまま挙式へと進むのだ。いかに姫帝といえど、平常心でいるのは難儀する。

 しかし涼葉とて立派な帝室の者。所作は完璧に洗練されている自信がある。


 ──足音が、近づいてきた。

御令婿ごれいせい様のおなりです」

 侍従たちにより粛々と御簾が上げられる。

「失礼仕ります」

 聞こえた花婿の声音は予想よりも高く、若々しかった。

 そして、ぎこちない摺り足で祈信殿に入ってきたのは──予想よりもうんと年若い、どちらかというと少年と呼ぶに相応しい年頃の御方であった。


「お初にお目に掛かります。佐野原菊斗きくとと申します」

 丁寧に平伏した姿の、何と小さく愛らしい事か。

 あらあらあら……と、驚きと慈しみの声が漏れ出そうなのを我慢して、涼葉はきりっとした表情を作った。


おもてを上げてください。どうぞこちらへ」

「承知致しました」


 菊斗は左側の玉台に上り、ちょこんと胡座をかいた。涼葉との体格の差は歴然で、威容の差もまた歴然であった。涼葉はついにこらえきれずに微笑んでしまった。

 菊斗は、元服をしてから大して時が経ってすらいないのだろう。その栗色の髪の毛はまだ子どものように短く、結うこともできていない。となると歳の頃は十四。涼葉の六つも下だ。だとしても、かなり小柄で細身な方だと思うが。

 これなら、噂を聞いたことすらなかったのも頷ける。菊斗はつい先日、大人になったばかりなのだ。


 祈信殿にて、神主と巫女が舞を捧げ、祝詞のりとを唱える。侍従たちは微動だにせず、真顔でそれを見守っている。


 次いで、涼葉と菊斗名前に、御神酒おみきの入った朱塗りのさかずきが置かれる。涼葉はそれを傾けて口を潤し、丁寧に菊斗に差し出した。菊斗は恭しくそれを受け取ると、カチコチと緊張した様子で少しばかりその透明な酒に口をつけた。


 最後に涼葉が誓いの言葉を読み上げる。


「天高く風爽やかなるこの佳き日に、私、上津島かみつしま涼葉と、佐野原菊斗は、婚姻の儀を執り行いました。今後私どもは、互いに助け合い、苦楽を共にし、終生愛を貫きますことを、祖良御魂神そらのみたまのかみの御前に誓います。何卒幾久しくお守りくださいませ」


 文言が書かれた紙を畳んで、神主に渡す。神主がそれを神前に備え、もう一度紙垂しでをひらひらと振る。

 これにて儀式は終了である。

 

 一旦、涼葉は帝の午後の居室である慈浄殿じじょうでんに、菊斗は帝の配偶者に与えられる最高位の房室である虹希殿こうきでんに向かう。


 凛とした態度で背筋を伸ばして渡り廊下を歩み、慈浄殿の房内に入った涼葉は、畳の上にすとんと座り込んだ。

「上様!?」

 侍女たちが慌てふためく。側近の桐菜きりなが素早く涼葉の元に寄り、顔色を窺った。


「如何なさいましたか。お加減が悪いのですか」

「かッ……」

「上様」

「可愛い過ぎる……ッ!」


 涼葉はその深い藍色の目を大きく見開いたまま、右手で顔を覆った。


「……はい?」

「何なの、あのつぶらな瞳は! あどけなさの残る顔立ちは! ほっそりとした体躯は! 可愛いの権化だわ! あの子が私の、お、夫……ッ! うおおああ!」

「上様、お気を確かに」


 涼葉はコホンと咳払いした。


「失礼。取り乱しました。お相手が予想より若くていらしたものだから、少し驚いてしまったの」

「左様ですか」

「そう。決めたわ。私、あの子を育てます」


 侍女たちはぽかんとして涼葉を見守った。


「……上様、お気を確かに」

「大丈夫よ桐菜、私は正気だから。それより、あんな可愛い子が来るだなんて思わなかったわ。運の良いことね。明日からは私が四六時中おそばに居て、手取り足取り色々なことを教えて、あの子を私好みの素敵な殿方に育て上げるの。良いと思わない?」

「……上様のお好きになさるのがよろしいかと」

「やっぱりそうよね!」


 涼葉は両掌を合わせてにっこり笑った。


「こうしてはいられないわ。明日から忙しくなるわよ。まずは手習いをさせて教養を磨いてもらわなくっちゃ。楽しく過ごしてもらえるようにお遊びも少し……。それに、年寄りばかりに囲まれていては可哀想よね。桐菜、あなたの親戚に、昨年元服したばかりの男の子がいるでしょう?」

「ああ、はい。夕真ゆうまと申します」

「その子を菊斗の世話役補佐として登用するわ。良いかしら? 良いわよね? 紙と筆と墨と判子と朱肉をここへ。委任状をしたためなくては」

「上様、お待ちを」

「それから菊斗のために玩具と楽器と書物をここへ。玩具は碁と双六と鞠とお手玉で良いかしら? 楽器はとりあえず琴で良いわね。書物は物語と説話集と歴史書と歌集と詩集を、それぞれ何冊か見繕っておいて頂戴。それから読み書きに必要な道具類と……諸々必要なものを一揃い運んで欲しいわ。お願いできる?」

「……。承りました」


 桐菜はいつにも増して完全なる真顔になり、淡々と言われた通りに侍女たちに指示を出した。慈浄殿は急に慌ただしくなった。

 さて、侍女たちが忙しくしている間に、祝宴に出かける準備をせねばならない。

 黒の着物を直してもらった涼葉は、桐菜を供につけて内裏を出て、すぐ近くの舞禄殿ぶろくでんに向かった。これは帝や貴族たちが宴を開くのに用いられる建物だ。


 宴会場はすっかり準備万端であった。暗くなりかけの房室には灯火が幾つも設置されている。

 房室の一番奥には涼葉と菊斗のためのお膳が置かれ、参列する貴族たちのお膳もずらりと連なっている。

 お膳には御神酒の入った酒器と盃、かつおの刺身、焼きあわび、葱と慈姑くわいのお吸い物など、豪勢な御馳走が並べられていた。

 参加者が出揃ったところで、いざ大宴会の始まりである。


 貴族たちは最初、涼葉と菊斗に恭しく祝賀を述べた。その後はかしましくお喋りに興じていたが、やがて飲めや歌えやの騒ぎに発展し、踊り出す者まで現れた。涼葉はにこやかにそれを眺めながら、菊斗の盃に酒を注ぐ。菊斗は平身低頭しながらそれを受ける。

 宴もたけなわになったが、あまり夜遅くになっては障りがある。涼葉は頃合いを見て立ち上がり、列席してくれた人々に礼の言葉を述べ、解散を命じた。皆は涼葉と菊斗に逐一祝いの言葉をかけて、退出していった。


 慈浄殿に戻った涼葉は、早めに寝支度を整えることにした。侍女の手を借りて湯浴みをし、絹糸のように白く滑らかな髪を解いて梳いてもらい、香を焚き込んだ寝間着に着替える。

 辺りはもう真っ暗だ。


「そろそろお休みになられますか」

 桐菜が普段と変わらぬ平坦な声音で尋ねる。そのいつも通りの空気感に、涼葉の緊張もほぐれる。

「そうするわ」

 涼葉は上品な笑みを浮かべ、帝専用の寝室である星流殿せいりゅうでんの中の房室まで移動した。

 桐菜が燭台に火を灯し、深々と礼をする。


「では私どもはこれにて失礼します」

「ええ、ご苦労様」


 涼葉は真っ白くて大きな布団に正座して、侍女たちを見送った。御簾が下げられる。涼葉はただじっと、菊斗のおとないを待った。

 通常、帝は任意の時にきさきの房室を自ら訪問する。しかし涼葉は女性であるため、特別に初日だけ、あらかじめ菊斗を自室へと招く頃合いを指定していた。

 涼葉は敷布団に座り、掛け布団を腰まで掛けて、静かに待った。


 やがて、月明かりが清らかに差し込む御簾の前に、小さな影が現れた。

「し」

 声変わりもまだしていない、上ずった声が聞こえてくる。

「失礼、仕ります。菊斗でございます。こ、今宵の、夜伽よとぎに、参りました……」


 まあ、と涼葉は柔らかく笑った。


「入室を許可します。どうぞ、お入りになって」

「恐れ入ります」


 菊斗は挙式の時よりも遥かにぎこちない動きで、御簾を上げて入ってきた。動きがガチガチに固まっている。どうしたらいいのか全く分からないが、下手におどおどするのも失礼に当たる、と考えているのが丸分かりであった。

 涼葉は優しく声をかける。


「大丈夫ですよ、菊斗。最初からあなたに無理な真似はしません。ただ、少しばかり添い寝しながら、ゆっくりお話をいたしましょう。ほら、おいでなさい」


 ぽん、と涼葉は自分の敷布団の右半分に手を乗せた。

「は、い……」

 菊斗はおずおずと敷布団に正座した。


「もう。それでは眠れないでしょう? 少し失礼しますよ」


 涼葉は菊斗の肩に片手を置き、もう片方の手で菊斗の背中に手を回して──その小さく軽い体を捕まえ、ぽふんと布団に転がった。


「よーしよしよしよし!」

 抱き枕よろしく抱きしめて、短い髪の毛をわしゃわしゃと撫で回す。

「ムグゥ」

「菊斗。よく私の元に来てくれました。今日はさぞ疲れたでしょう。私の胸で、ゆっくり休んで下さいね」

「ふぁ、あの、上様……ムググ」

「ここでは涼葉とお呼びになって。さあ、今宵はたくさん『よしよし』しましょうね。めいっぱい可愛がってあげますから、覚悟なさって。ほら、よーしよしよしよし」

「涼葉様、その、……ムグググ」


 涼葉の腕の中で、菊斗は完全に赤面してしまっていた。涼葉は構わず、片腕で菊斗の頭を胸にギュウギュウ押し付け、頭から背中まで執拗に「よしよし」しまくり、ねぎらいの言葉をかけまくり、可愛い子だと褒めまくった。


 菊斗は結局この夜、真っ赤になるばかりで、ゆっくり話すどころかまともに口も開けなかった。涼葉の方もすっかり愛おしさが暴走してしまって、「よしよし」以外のことは全くできなかったのだった。

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