五記_根岸凛菜の胸中

 一限「国語」、二限「数学」、三限「数学」、四限「英語」。

 あっという間に四限が過ぎ、昼休みになった。朝、業平に「先生に当てられる」と言っていた生徒は、業平含め、友達の助言でどうにか授業を乗り切っていた。

 「山神く〜ん、ちょっといいかな」

 黒板の板書をノートに書き取る手を止めて、顔を上げる。すると、教室の入り口のほうから手招きをする人が目に入る。英語担当の根岸先生だ。

 「はい、今行きます」

 返事をしてから席を立ち、教卓に向かう。そこに置かれたままになっているスーパーのバスケットに手をかけた。

 中に入っているものは、言わずもがな根岸ねぎし先生の授業道具である。相変わらず、管理は雑なようでとりあえず放り込んだのが見てとれる。

 先生は実家の近隣に住んでいた人で、幼少期は一緒に遊んでもらっていた。確か、年齢は丁度俺と十歳差だったと思う。それなりに親しいせいか、この高校に進学してからは雑務をよく頼まれていた。

 「山神くん。最近大丈夫?」

 職員室まで荷物を運ぶ途中で先生に話しかけられた。三週間ほど前、日々の無理が祟って学校で倒れたことがあった。おそらくそのことを気にしてのことだろうと推測する。

 「大丈夫です。病気とかではないですから」

 「…そう」

 やや遅れて反応すると、先生は眉をひそめた。すると彼女は僅かに躊躇うような間を置いてから、口を開いた。いつの前にか足も止めていたようで声は背後からかかる。

 「君は…まだあの子に引き摺られているの」

 その言葉は、寝不足で朦朧としていた頭を鋭く貫いた。

 「…これは俺の意志です。俺はただ失いたくないだけですよ」

 俺は取り繕うように言葉を繋いだ。人の死を傍観すること。それは本当に耐えがたい。今、思い出しても胸が締め付けられる。それだけに他の人にはなるべく経験させたくないという気持ちが常にある。

 「…そう。でも、倒れられるのは勘弁だからね」

 「はい、分かってます」

 一度、倒れてからは体もしくは頭に異常を感じた時には寝ることを最優先に置くように変えていた。この一件で人には限界があることを身をもって知った。気が早るのが常だが、こればかりは仕方がない。

 「じゃ、ありがと」

 職員室に着いた先生はそう言って、俺から荷物を受け取ると中に入っていった。


 *  *  *


 私は新と別れた後、自席に座った。瞬間、いつものように謎の脱力感が身を襲い、それに従うように上半身を机に投げ出した。

 …私は彼に何と声を掛ければよかったのか

 その子のことは忘れろ、その子は今のように憔悴した君を見ても悲しむと思う。

 普通なら、こんな言葉を言うのだろうか。

 どれも気休めにしかならない。下手を打てば、彼の怒りを買ってしまいそうだ。そのくらい彼女は彼にとって大きな存在だった。

 元々、人と関わるのが得意では無かったのか彼はいつも一人だった。公園でいつも一人で遊ぶ彼を放っておけなくて話しかけたのが、私と新が話すようになったきっかけである。

 ところが歩夢ちゃんが新と交友関係をもつことを契機にしてだんだん友達も増えて、よく笑うようになった。そして私はいつしか友達の一人になった。

 しかし、彼女の死後、彼は変貌した。狂ったと言ってもいい。卑屈になり、友達は減り、笑わなくなった。それまで学力が平均くらいだったのが、県内最難関のここに受かるくらいになり、今は薬学の研究職を志望している。

 その異様なまでの変容ぶりはまるで何かに取り憑かれているかのようだった。見ていて畏怖を抱くくらいには狂気をその身から滲ませていた。

 人を助けるためなら、自分の命は厭わない。そんな気迫を日々滲ませているように感じる。今の彼はまるで奴隷のように私には見えてしまう。歩夢ちゃんに、死者に生き方を支配されてしまっている。そういう気がするのだ。その裏には物を、人を、あらゆることを失うこと、失わせることを怖がっている姿が見え隠れする。彼自身もそれは認識しているようだった。

 「ん〜。お姉ちゃんとしては結構心配なんだよな〜」

 他の生徒みたいに「ゲームしてて寝不足なんです〜」なんてことならどれだけいいか。

 体の内から不安を絞り出すように両腕を上げて伸びをする。逆さになって見上げた空は全体が暗く、所々ゴツゴツとした暗雲が立ち込めていた。

 …ホント、あの子の保護者はあんな不安定な心理状態の子供を放ってなにをしているのだろう

 新には両親がいない。幼い時に親が亡くなり、家をたらい回しにされた後に遠縁のおばさんが新を引き取ったと聞いている。それだけで新の精神状態にかなり不安が生じるが、それをさらに加速される要因があった。例の引き取った叔母さんは新に興味がないようなのだ。同居していた時でさえ、話すこともほとんどなかったという。

 私もその人についてはよく知らない。よく夕方まで公園で新と遊んだ後に彼を家まで送っていたのだが、たまにマンションのエントランスで声を聞いたくらいのものだ。彼は幼いながら鍵を持ち歩いていた。

 彼曰く、叔母は保護者参観などの学校行事には一切顔を出したことがないという。新の高一の時の担任の先生に聞いても会ったことが無いといっていた。その先生は「山神くんは真面目だから、親も安心しているんだよ」と特に気にしているような様子もなかった。

 普通はそうなのだろう。彼の過去を知らずの側から見れば、ただの優秀な生徒だ。 

 「ネギ先生、大丈夫」

 この声は猫田先生だ。反射的に頭を起こすと、額に何かが当たった。

 コンッ!

 「ネギ先生、だ、大丈夫⁉︎」

 「ったーーー」

 「はい、これ」

 「うう〜。ありがとう」

 差し出された物を受け取るとことの全容がわかった。どうやら頭に缶コーヒーをぶつけてしまったようだった。運悪く、角にぶつけたようでしばらく痛みは取れなかった。

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