テンジクネズミの推敲

テンジクネズミの推敲

「ねぇねぇ、書けてる?」


私は目の前の少女をじっと見ながら話しかける。


「見ればわかるでしょ」

「うんうん」


相変わらず物凄い速さで筆を走らせているが、そろそろ一時間は経とうとしている。手が痛くならないのだろうか。私は少し悪戯をしてみたい気分になってピンク色の崩れた文字に目を落とす。


「地獄の荊棘には棘がない……」

「わあ、読まないでよ」


それにそこは、と彼女は口元に指を当てるとなにか言いかけて俯いてしまう。私は慌ててもう一度読み上げる。


「地獄のには棘がない!!」

「私の字って、やっぱり下手?」


先程からずっと詩を書き続けていた少女は様子を窺うように顔を上げる。前髪の隙間から見える両目に薄っすらと涙の膜が張っている。


「ほら、トレイシーが言っていなかったっけ」

「もういいわ」


機嫌を損なってしまったと思った。前に彼女が百貨店で買ってきた珍しいインクの万年筆を駄目にしてしまったときは一ヶ月は口を聞いてもらえなかった。そのときも今みたいにもういいわとそっぽを向かれてしまったんだっけ。


「トレイシーがどうかしたの」

「君のために新しい万年筆を買ってくれるんだって」


沈黙が空間を満たす。エリスの瞳を伏せられたまま、表情は動かない。あまり感情を表に出さない子だけれど、嬉しければ私にわかるくらいに微笑んだりしてくれるというのに。


「意地悪だわ。私じゃなくてヘレナに買ってあげればいいのに」


再び静寂が訪れる前に、私は重くなってしまった空気を入れ替える前に書き終わったらまた朗読させてもらえないかと頼み込む。そのために書いているのだからと彼女は言い、私の字を解読できるのはあなただけだろうとも付け加える。


「あなたってなんて言葉知っていたのね」

「エリスが難しい単語ばかり使うから勉強したんだよ」


今は彼女が書いている番だが、詩や小説は私も書く。少し前まで二人で交換して読み合っていたが私がペンを折ってしまったせいで最近はめっきりそんな機会は減っていた。


「ヘレナの作品はわかりやすいから羨ましいわ」

「それって褒めてないでしょう」


私は自分が経験したことを元に文章に起こすことが多い。非現実的なことを書くのは難しいと思う。エリスの方はというと空想的でどこで見てきたのだろうというようなものばかりを書く。実在しないものに対する情景描写がとにかく上手いのだ。読んでいるとまるで違う世界に迷い込んでしまったような、そんな気持ちになる。


「エリスはどうやって見たことも世界を書いているの」


私は置いていたペンを取ると顎の近くに当てて目を瞑る。


「私は見たことがあるからかしら」


私は眉間に皺を寄せると彼女の次の言葉が出てくるまで少し考え込む。彼女には他の人には見えないものが見えているのか。


「一枚の絵みたいに情景が出てくるのよ」

「難しいよ」


エリスは小さく唸るとさっき書いた文章に目を落として黙り込んでしまう。そんな彼女の手元を見ながら私も身動きをやめてじっとしている。

エリスの考えていることはとても難しい。ずっと私と一緒にいるのに未だにわからないことが沢山ある。私のほうが早く生まれたのに知識量は彼女のほうが多くて、たまにそのことがとても羨ましくなる。フランクも同じようなことを思うと言っていた。もう少し私たちに甘えてくれたっていいのにとも。


「さっきのは、わかりにくい言い方だったわ。映像頭の中に見えてくるって言ったらわかりやすいかしら」

「うーん。なんとなく」


ほら、まるで夢の中みたいな。と付け足される。夢の中みたいな。うん、たしかにその例えだとさっきよりはわかるような感じがする。目覚めながら夢を見ているのね。私の手は再び文字を書き起こすために動き出す。


「とても懐かしい色合いの中にいるのになのに、そこにあるものにあまり生気は感じられないの」

「うん」

「私が立っている場所は湖なのだと思うけれど、カモも白鳥も泳いではいないし岸までの距離が遠すぎるわ。でも、水面があまりさざめかないし海ではなくて湖だと思う。そこで私は水の上に大きな百貨店が建っているのを見つけるの。私の興味はすぐそちらに引っ張られてしまうわ」

「うん」

「入ってすぐに大きな、すごく大きなおもちゃコーナーがあるのよ。動物園にしか置いていないような縞馬や蛇のぬいぐるみも置いてあるの。夢みたいだわ。私、別にはしゃいでないわよ。だって、夢の中の私はそんなのお構いなしにエレベーターを使って屋上まで上がっていくんだもの……」


エレベーターが最上階に着いて扉が開くのを待つ。エリスは期待に胸を弾ませている。だって百貨店の屋上と言ったら遊園地に決まっているじゃない、と。でも、扉はなかなか開かない。気がつくとエレベーターは鏡の箱のようになっていて、彼女はそこに映る沢山の自分の視線に耐えきれなくなって目が覚める。


「目が覚めると、私の手の隙間には紙切れが挟まっているのだけれど瞬きをするとそれは無くなっているの……」

「そこには何か書かれていた?」


私は気になって聞いてみるが、なんとなく教えてもらえないような気がする。ほら、やっぱり教えてくれなさそう。


「一瞬だったから、何が書いてあったかなんてわからないわよ」


そんなことない。これは作り話なのだから、そこに書かれている文字を彼女は知っているはずだ。


「少し結末を変えるわ」


エレベーターは開いて遊園地には辿り着ける。でも、そこには誰もいなくてエリスはベンチに腰を掛けるのだけれどここは自分の居場所ではないような気がする。そんな内容に彼女は物語を書き換えていった。最後に先程の話の部分に上から修正をすると顔を上げる。大きな目が輝いていて、小さくて形の整った唇が開く。


「書き終わった」


見て、というので私は紙面に目を落とす。今まで話していた内容が詩の形を取ってそこにある。


「ヘレナに海月の縫いぐるみを買って帰った…?」


私が水族館で海月が好きだといったのを覚えていてくれたんだ。しかし、なんだかエリスの詩にしては平凡な終わり方になってしまった気がする。元の物語はどんなだっただろうと思い出そうとするけれどその場所にはぐちゃぐちゃの線の塊があるだけで何が書かれていたのかもうわからない。


「前のほうが好きだったけど」

「あんなの書きたくないわ」


言いたくなったら教えてよと言ってみるけれど、絶対に嫌だと言われる。


その意味について深く考え始めそうになる。


もう少し考えてみればわかると思う。


夕飯の用意が出来たとトレイシーの声が告げるので、私達は化粧台から立ち上がるとキッチンに向かって歩き出す。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

テンジクネズミの推敲 @murasaki_umagoyashi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ