2-5

 はあ、と、和洋はため息を吐いてしまい、そんな自分を戒める、ということをさっきから数回繰り返していた。

 土曜日。三人は動物園に行くことになっていた。

 なぜ動物園に行くことになったのかが和洋にはよくわからない。光が「かわいいものが好き」と言ったら、千歳が「じゃあ動物園だ」と言ってそれで決定したのだ。もっとも和洋は特に提案しなかったので別に問題はなかったのだが、しかしそれにしてもかわいいものが好きだから動物園に行くという理屈がなんだかよくわからなかった。

 この話し合いは三人で決めた。その日の朝のように乃梨子がまた面倒なことを言い始めるのではないかと思った和洋の配慮だった。光も千歳もほっとしていた。和洋は乃梨子とさほど親しいわけではないが、彼女がおとなしい少女で口論などするタイプではないことは知っていた。それなのにどうして乃梨子はあんなに光に追及するのだろうと和洋は疑問だった。

 その一方で、これが世間の声なのだろう、とも感じる。

 どうしてそんなに普通にこだわるの。

 乃梨子の疑問に、和洋は、そんなのみんながゲイは普通じゃないと思ってるからだろう、と言いそうになったが、しかしそれを言ったあとにどんな“議論”になってしまうかがわからなかったため何も言わなかった。

 いや、そもそも、“自分のことを議論される”、なんて、光にはきっと耐えられない、と思った。

 それは、よくわかっている。

 とにかくせっかくみんなで仲良くやってるのだ。確かに自分の恋のライバルではあるが、友達である。喧嘩はさせたくなかった。

 どうしてそんなに普通にこだわるの。

「普通じゃないって言われれば、そりゃこだわるさ」

 一人呟き、和洋は動物園へと向かう。


 和洋は五分前行動の男だったが、出かけるとなれば十五分前には到着するように計画を立てる男だった。だから今日も十時集合だったので九時四十五分には到着するように設定した。

 ところが動物園の門にやってくると、そこに光がいた。

「北原」

 と、近づいて声をかける。

「ああ、会長。おはよー」

「おはよう。ずいぶん早いな」

「え、そう?」と、光は腕時計を見る。「十五分前だから普通じゃない?」

「いまは確かに十五分前だけど、お前、いつ来たの?」

「えっと、三、四十分前かな」

 あっけらかんと答える光に、和洋はどこか所在ない気持ちを抱いていた。

「そんなに前から?」

「うん! おれ、すげー楽しみだったから!」

 満面の笑み。

 所在ない気持ち。

 なんだ? これは?

 罪悪感ではない。ではないが、それに似た感情を和洋は覚え始めていた。

「千歳ちゃんまだかなー」

「……まだ、十五分前だろ」

「遅刻とかしないタイプには見えるけど、さてどうなるか」

「さあ」

「なんか、ごめんね」

 唐突な謝罪の言葉に、和洋は目を剥いた。

「え?」

「会長、予備校あるのに」

「いや、それはいいよ。別にいいよ。俺だって息抜きしたかったし」

「“息抜き”になるといいんだけど」

 光はひたすら笑顔だった。

 友達と遊ぶことは確かに息抜きである。

 しかし、本来ならそういうことではないはずだった。他の友達たちに対してはそんなことをいちいち言わないはずだった。なのに自分はこの北原光と出かけることをわざわざ息抜きと表現している。なぜだ。

 どうしてそんなに普通にこだわるの。

「お、LINEだ」

 二人のスマホが同時に鳴る。三人でグループを作ってあった。

 千歳からだった。

「『ごめんなさい。突然体調が悪くなって、行けなくなりました……ほんとにごめんね。別の日に絶対埋め合わせするから、今日は本当にごめんなさい』。えっ」

 読み上げた光がびっくりして、二人で顔を見合わせた。

「千歳ちゃん、体調不良だって」

「風邪かな」

「おれのがうつったのかな……」

「いや、そうじゃないと思うよ」和洋は瞬時に否定した。「わかんないけど、お前のせいじゃないよ」

「うーん……まあ、原因は置いといて」

 光は和洋を見上げた。

 しばし沈黙が走る。

 そしてその沈黙を光が切り裂いた。

「じゃ、今日はお開きということで」

「え」

「三人でのお出かけの予定だったし。会長はこのまま予備校行けるじゃない」

「それはそうだけど」

「また埋め合わせしてくれるっていうから、そのときまたよろしくお願いします」

「え、あの。ちょっと」

「じゃあね。また来週、学校で」

「ちょっと」

 そして光はそのまま去っていった。

 光の後ろ姿を見て、追いかけるべきかしないべきか迷い、どうすればいいのかわからず、和洋はその場に立ち尽くした。

 自分を“無視”しているように見える––––とにかくこの場から離れなければと思っているように見える。

 お前、俺のこと好きなんだろ?

 俺と二人で行きたいって思わないの?

 ……想像の中の自分の発言を聞いて、和洋は死にたくなった。

 応えてはやれないのに。

 さっき抱いた感情と同じ感情を、和洋は抱く。


 ドアベルが鳴り、千歳は不機嫌な表情になった。

「誰よこんなときに……セールスだったらギタギタのボコボコにしてやってー……」

 やや苦しそうに布団から起き上がり、千歳は廊下に出た。インターホンを見る。

 そして駆け足で玄関へと向かい、ガラッと大きな音を立てて引き戸を引いた。

「光くん!」

「お見舞いに来ましたん」と、光はお茶やお菓子の入ったビニール袋を掲げた。「数学のプリントじゃないよ」

「どうしたの? 萬屋くんと行かなかったの、動物園?」

「それより千歳ちゃんの方が気になって。どうしたの? 体調不良だって書いてあったけど」

「体調不良っていうか、生理痛で」

「あれ、今日は満月じゃなかったはずだけど」

「そんなファンタジーな。とにかく、上がって上がって! 寝てたらだいぶ落ち着いたから!」

「あ、いや。おれはここで」

 と、光は荷物を千歳に渡した。

 千歳は目を丸くした。

「なんで?」

「だって」

 と、光は苦笑した。

「他にご家族がいらっしゃらぬようですし」

「それが?」

「一応、男と女ですし」

 怪訝そうな顔で光を見る。

「それはそうだけど、それが?」

「うーん。例えばこの場合、おれが会長だったらここでさよならでしょ」

「それはそうだけど、でも」

 光くんはゲイでしょ、と、言いそうになって、千歳は、抑えた。だいたい、生理痛であることなど、あるいは和洋には、絶対に言わなかったはずだ。

 ––––そこに生まれたのは罪悪感だった。

 自分のこの罪悪感の理由。

「またLINEしよ。埋め合わせしてくれるんだったよね〜」

 笑顔でそう言う光に、千歳は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。もちろん一つは予定をキャンセルしたこと。そしてもう一つは。

 どうしてそんなに普通にこだわるの。

 しばし雑談をして、やがて光は去っていった。

 後ろ姿が見えなくなったころ、千歳は頭を抱えた。

「普通じゃないって言われれば、そりゃこだわるわよ」


「ただいまー」

 と、光は自宅マンションで君尋に声をかけた。

「あれ? どうしたの?」

 帰宅時間が早すぎることを怪訝に思い、君尋は光に訊ねた。

「千歳ちゃんが体調不良でさ。それでキャンセルになった」

「じゃあ、会長くんと二人で行けばよかったのに」

「会長に悪いよ」

「ああ、それはそうか」

 あっさり納得した君尋に、光はちょっと傷ついた。

「やっぱり、悪い、と思う?」

「悪いというか、会長くんからすれば戸惑うだろうなとは思うよ」と、君尋はちょっと意地悪そうな目をした。「ゲイとデートなんてな」

「しかも、自分のことを好きなやーつ」

「いつか限界が来るぞ」

 君尋の忠告に、光はうなずいた。

「そんなに浮かれないよ」

「ならいいけど」

「こないだも、友達、の友達と、ちょっと口論になって」光はため息を吐いた。「やっぱり浮かれてはいられない」

「なにがあった?」

 努めて冷静に、しかし心配そうに訊かれ、光は少し身を引き締める。

「ゲイとオネエの違い、みたいな。なんでそんなに普通にこだわるのみたいな」

「ああ、世間一般の声って感じだな」

 光は冷蔵庫から麦茶を出し、コップに注いで飲んだ。そのまま君尋の座っているソファに腰かける。

「でもおれ、うまく説明できなくて。とにかくその子の言ってることが違うってことはわかってたけど、どうしてもうまく返せなくて」

「お前は子どもだからな」

 光はムッとした。

「高三だよ」

「高校生のどこが大人だよ」そう苦笑して、君尋は言った。「まだ言語化能力がそんなに身についてないってこと」

「あなたおっさんだもんなー」

「おっさんていうな。まだ二十八だぞ」

「アラサーになると、言葉にするのが簡単になるの?」

 ちょっと悩み、そして君尋は答える。

「俺の場合、そういうことは日常的に考えてるから」

「なるほど。じゃあ、この場合、どう返答したらよかったと思う?」

「うん、そうだな––––」

 しばし考え込み、やがて君尋は言った。

「その子は、どうせ、ただの男のゲイは普通だけどオネエのゲイは普通じゃないみたいなことを言うお前はいやなやつだ、みたいなことを言ったんだろ」

 光は驚いた。

「よくわかるね。これしきの情報量で」

「あるあるだもん。で、まあ、返答としては、ちょっと回り道して、そもそもなんでテレビにはオネエばっかりが出るのか、を問うのがいいだろう」

 君尋は光と向き合った。

「それ、なんでだと思う?」

「男が好きな男ってだけじゃキャラが弱いからだろ」

「それは違うね。だって芸能人だぜ。特殊能力を持っていればそれでいいはずだ」

「ん?」

 と、光は怪訝そうな顔をした。

 君尋は続ける。

「だからオネエタレントの場合、“オネエであること”が彼らの特殊能力にあたるわけだ」

「ふんふん」

「で、どうしてテレビはオネエばっかりなのかっていうと––––ゲイはオネエとして生きなければ生きられない、という社会の差別があるからだよ」

 光は、ああ、と、うなずいた。

「ああ、まあ、そうね。で、そこからどう話を続けるの? なんかめんどくさそうだけど」

「簡単だよ。“オネエ”は個人じゃなくて社会の問題だってこと」

「でも、素がオネエの友達って普通にいるけど」

「そうだね。でも、“世間様”はそれを社会の問題だと思ってる」

「んん? よくわかんない。個人の話なんでしょ?」

「そこが同性愛の難しいところ」

 君尋は向き直った。光は真剣そのものである。

「いいか? 世間はゲイに対して差別的感情を抱いている。それに抗うためにゲイはオネエとして振る舞う。そうすることで“オネエ”は安全に生きられる。なぜなら世間は自分たちがゲイを差別していることを彼らに誤魔化してもらえて、それで共存できるから。俺や光がオネエが普通じゃないっていうのは当然で、なぜならそれは戦うためにあえて彼らはそう動いているからで、世間が彼らを“普通だ”と思うことは自分たちがゲイを差別しているというれっきとした証明」

「ん、ちょっと待った、難しくなっちゃった。おれよくわかんなくなっちゃったぞ。だって素がオネエの友達、普通にいるし……」

 混乱する光の頭に手をやった。

「まあ、とにかく––––普通じゃないって言われたら、そりゃこだわるさ、って話」

 ぐしゃぐしゃと光の髪を掻いて、君尋は続けた。

「俺の話は難しいようだ」

「ゲイの話になるといつもわけわかんない」

「そうだね。それは、光が日常的には考えてないからだな。その子からすればまるで考えてないわけだからわかり合うのは難しい」

「まあね」

「ところが俺がデヴィッド・ボウイだとしたらその子はあっさりわかり合おうって思うだろうな」

 光はちょっと唇を尖らせる。

「“何を言うかじゃなくて誰が言うか”はよくないんじゃない?」

「そんなことないぜ。暴力団が世界平和を訴えても説得力ないだろ」

 光は大いにうなずいた。

「ああ、まあ、そうね」

 君尋は諦めているような目で光の目を見つめる。

「そして、きっと俺がその子と言い合いになって、いま言ったことをもうちょっとわかりやすく言えたとしても––––その子は“論破”されたとしか思わないだろうな」

「それダメなの?」

「“説得”して“納得”させることができなければ、わかろうなんて思わないだろうよ」

「なんで?」

「そりゃそうさ」

 と、君尋はソファに深く腰かけた。

「自分の世界が壊れるもの」

 君尋の話はいつも難しい。頭の中で考える一方だからで、文章にしたりすればまとまったりするんだろうか、などと光はぼんやりと君尋を眺める。

 いつかそうしてみれば、いい方向に進めるんじゃないかと、思う。

「それで結局、お出かけ計画はこれでオジャン?」

 訊ねられ、いや、と否定した。

「埋め合わせするから、また連絡するって」

 そのときLINEが鳴った。スマホを取り出す。

「あ、千歳ちゃんだ」

 そんな様子の光を見て、君尋は呟く。

「青春はいいねえ」

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