天使の微笑み

如奈

第1話

「いってきます」

「いってらっしゃい、花織ちゃん」


そう言って微笑むのは、わたしの天使——もとい婚約者。

ちゅっとかわいらしい音がして頬にほんのり熱を受けた。ほんとうにあの子は天使かもしれない。




彼女——美羽ちゃんはわたしの婚約者だ。

まだ十代前半でわたしよりひと回り以上歳下の高校生。


何故そんなに歳下の女の子がわたしの婚約者なのか。それはこっちが聞きたい。


詳細は、説明されたと思うが聞きたくなかったので経緯はわからない。ざっくりいえばどうやら祖父の代にわたしの家と美羽ちゃんの家との間になんかしらの取り引きがあったらしい。

そのときの条件が、孫同士を結婚させること。本来はわたしの兄と美羽ちゃんがそうなる予定だったのだが、兄は無視してさっさと家を出て結婚してしまったのでわたしに番が回ってきた。


結婚はできずともパートナーシップ制度によりある程度婚姻と同様の待遇が受けられるし、彼女が大人になる頃には同性婚が認められているかもしれないから問題はないと両親に言われ、彼女の両親もそれでいいと了承した。祖父同士の取り引きで婚姻は必要だが子どもを作る条件はないからと。最悪形だけでいいらしい。


兄の代わりのわたしはともかく、彼女は生まれたときからずっと婚約者がいる。それがあまりにも窮屈で可哀想に思えてくる。だから彼女が望むなら婚姻は形式上で構わないし、婚約者としてではなく姉妹のように接している——少なくともわたしは、そうなるように心がけていた。


というのも、彼女は長子だから上の兄弟はいない。加えて、彼女の両親は共働きで夜遅くなることが多く、両親公認でわたしの家に度々泊まりに来る。わたしは実家を出て悠々自適に一人暮らしをしていたけど、自分の両親と彼女の両親にお願いされれば受け入れるしかない。おかげでわたしの家にはおおよそ一人暮らしで独身の女性が持っていないだろう服や靴、参考書が置いてある。


つまるところわたしとしては、ちょっと歳上のお姉さんくらいでいいと思っていたのだ。けれど彼女は『婚約者』に囚われているらしく、ことあるごとにかわいい顔で翻弄してくるからこちらが耐えられない。起きたばかりで頭が働かないときにキスされたのは記憶に新しい。

別に、あのかわいらしい天使に何かしようとは思わない。思っていても未成年相手はまだ犯罪だ。


だから一線を引いてるのに、あの子は……!


頬に残る熱がじわじわと侵食していく。

きっと彼女はこれから学校に行って勉強してくるだろう。


ちゃんと友人はいるのか? いじめられてないか? 勉強のことはわからないけど、やれることならわたしが力になろう。


なんて、まるで親心みたいだ。





「おかえり、花織ちゃん」

「ただいま。美羽ちゃん、今日は帰らなくていいの?」


度々泊まりに来る彼女には合鍵を渡してある。今回もそれで入ったのだろう。

もうそろそろ夕飯の時間だ。あまり夜が更ければ一人で家に帰すのは危険になる。送ってあげるにしても、車を持っていないので必然的に公共交通機関になるので、終電を過ぎればわたしが家に戻ってこられない。


「うん。二人とも遅くなるから、花織ちゃんのおうちにお泊まりしてねって」

「忙しいね、美羽ちゃんの両親」


この子はさみしくないのだろうか。両親に甘えたいだろうに、それが許されない。しかも、彼女の母親には新しい子どもの命がある。その子が産まれてくれば、彼女より弟だか妹だかの方がかわいがられることになるだろう。


「いいの。あたしには花織ちゃんがいるからさみしくないよ?」

「……よしよし」


まるでわたしの考えを読むように見上げる丸い瞳。わたしに絶対的信頼をおいている瞳だ。


「宿題はやったの?」

「うん! 花織ちゃんが来る前に終わったよ」

「さすがね……」


自分が学生の頃は勉強なんて大嫌いで、宿題など全くと言っていいほどやらなかった。この子はそうではないらしい。そういえば、エリート校で成績はかなり上の方だと彼女の両親から聞いたことがある。


「ふふ、えらい?」

「えらいよ」


頭をなでる。柔らかな髪が指先に絡まり、さらさらと指の間を通り抜けて滑り落ちる。若さ溢れる髪。わたしがどうこうできるものではない。


「よし、ご飯にしようか」

「うん!」


食欲旺盛なこの子は、いい顔をしてよく食べる。それがいとおしくて、ついつい張り切ってしまうのだ。





美羽ちゃんが泊まった翌朝。学校に行く彼女はわたしより先に出る。なんでも部活の朝練があるらしい。

朝早い婚約者を見送って、散らかった洋服を片づけていると電話が鳴った。


「はい」

『あ、もしもし? 花織ちゃん?』

「どうしたの?」


声の主は、先程別れたかわいい婚約者。電話の向こうで言い淀んでいるのがわかる。


『あー……うん。あのね、おうちに体操着忘れてない?』

「体操着? ああ、もしかしてこれかな」


学校の紋章と彼女の名前が入ったジャージは、今しがた片づけた服の中にあった。てっきりこのままわたしの家に置いておくつもりだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。


『あった?』

「あったよ。でもジャージだけ?」

『うん、ジャージだけ忘れちゃって』

「届けに行くよ」

『ごめんね?』

「これから向かうから、着いたら連絡するね」


彼女の学校に寄ると会社からは少し回り道になるが、遅刻するほど時間がかかるわけてはない。寒くなってきたし上着がないとつらいだろう。




彼女へメッセージを入れて、校内へ入る。用がない人は入るなと看板にあるけど、わたしにはちゃんと用がある。

勉強が嫌いだったわたしと違ってエリート校に通う美羽ちゃん。学校の雰囲気も違う。たしかあの子は吹奏楽部だったはず。音楽室らしき方向へ向かうと、ちょうど練習の最中だった。

そこには、わたしの見た事のない、真剣な表情でひたむきに練習する美羽ちゃんの姿があった。時折部活のメンバーと笑いあう。その表情も見た事がない。

しばし遠目から見ていると、わたしに気づいた美羽ちゃんがこちらへ駆けてきた。


「ごめんね、花織ちゃん。呼んだのこっちなのに」

「いいよ。これ、ジャージ」

「あ、ありがとう!」

「忘れ物、気をつけてね。美羽ちゃんそそっかしいから」


去り際にあれって誰? と茶化され、彼女は、近所の仲のいいお姉さんなの! と反論していた。


ずきずきと心窩部に痛みが込上げる。


人間、誰しも人によって態度が違うものだ。わたしに対してと、部活の仲間に対しての態度が違うのは当然のこと。


それなのに、わたしはいつもと違う彼女の表情に嫉妬している。


あの子を婚約者として閉じ込めてしまいたいのはきっとわたしの方だ。いつでも彼女が逃げられるように、一線を引いているのもわたし。でもほんとうは……——





まっすぐわたしを見つめる瞳に、冷や汗が止まらない。なんでこんな蛇に睨まれた蛙みたいな状況になっているのかというと、ジャージを渡したあとのわたしの態度が気に食わなかったらしい彼女は、帰宅したわたしを仁王立ちで出迎え、正座させた。


「どうして花織ちゃんは、いつも他人行儀なの? 二人のときはそんなことないのに」

「……そんなつもりはないけど、そう見えたのなら謝るわ」


ひと回り以上離れている年齢。同性で、祖父同士が勝手に決めた婚約者。友人というには歳が離れすぎているし、ましてや婚約者とも説明できまい。いったい、他者にどう説明するのがいいのか。そんなのわたしにもわからない。他人行儀に見えるのだとしたら、きっとわたしが彼女との距離感をわかりかねているからだ。


「あたしは……花織ちゃんが婚約者でよかったと思ってるよ?」

「え?」

「だってあったかくて優しいから」

「……」


無邪気で、偽りのない瞳。わたしを見透かすようなそれ。


それ以上、暴かないで。



「……それとも、嫌なの? あたしが婚約者なのは」

「っ?!」

「嫌だから、距離を置くの?」

「違う、」


合った瞳は、ひどく寂しげだった。

目は口ほどに物を言うとよくいわれるが、この子の瞳は本当に正直だ。丸くてつぶらでわたしの大好きな瞳が、不安に揺れる。


「わたしは……あなたの足枷になりたくないのよ」

「あしかせ? どうして?」

「本来、美羽ちゃんはわたしの兄と婚約する予定だったし、まだ若いでしょ。わたしなんかに縛られちゃだめよ」

「関係ないよ」

「わ、」


華奢な身体がわたしに向かって突っ込んでくる。彼女は勢いのままぶつかって、わたしの腕の中に落ち着いた。


「ねぇ、釣り合わないからそう言うの? あたしが子どもで、花織ちゃんは大人だから」

「……」


この子はまだまだいろいろなものを吸収していく。わたしがその妨げになってはいけない。

頷きもしないわたしを、彼女は肯定とみなしたらしい。


「あたしが釣り合うくらい大人になったら、お嫁さんにしてくれる……?」


そう上目遣いで見つめられたわたしのことも考えてほしい。破壊力がとんでもない。気を抜くと欲望が溢れだしそうだ。


「美羽ちゃん、一旦離れようか」

「やだ。いいよって言ってよ、花織ちゃん」


彼女が大人になったとき、彼女はわたしを置いては行かないだろうか。彼女が歳をとるということは、わたしも歳をとるということ。そのときにはもう、わたしは引き返すことは出来ないだろう。


彼女がいろいろ吸収してもなお、わたしのそばにいてほしいと思うのは、傲慢だろうか。


「……それまであなたの気が変わらなければ、ね」


今のわたしには、そう言うのが精一杯だ。自分の気持ちにも、彼女の気持ちにも、まだ答えを出せない。早急に答えを出すと、この関係がなくなってしまう気がした。


「ありがとう。早くお嫁さんになれるようがんばるね」


彼女の微笑みは、今までで一番美しかった。

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