第56話 はゆるの終幕

「自業自得の極みを見たな」


 日向太さんが吐き捨て、くるりと背を向けました。


「さあ、こんな場所さっさと出るぞ」

「この連中はどうするんですか?」渡くんが、白衣に包まれて床に転がる人々を眺めて言いました。


「知らん。あとのことは、ばあさんがどうにかしてくれるだろうさ」


 階段のほうへと早足で歩く日向太さんに、はるなちゃんが従順なメイドのようにすたすたと、渡くんが老執事のように控えめに、ついていきます。


「待ってください」


 その後ろ姿を、私は慌てて引き留めました。


 振り向くと、そこにはカプセル型の装置が佇んでいます。その内部に、とっくに拘束は解かれているのに、自分の居場所はここにしかないとでも言うように、〝私〟はすっぽりと身を収めています。私が意識するまでもなく、紅愛ちゃんが自らの意思で装置に近づき、ただ黙って、優しく〝私〟の手を取りました。


「……どうして、助けてくれたの」


〝私〟は憔悴しきった顔で、私を見上げます。満身創痍の状態でも相変わらずの美人です。


「どうしてもなにも、助ける以外の選択肢はないのです」


 言いながら、〝私〟の肩をそっと引き寄せました。「行きましょう」


 けれど〝私〟は首を横に振り、かたくなに拒みます。


「行く場所も帰る場所も、もう私にはない。私はあなたを取り返しのつかないほど深く傷つけた。あなたの過去も、思いも、抱えてるものも、なんにも知らずに」


 その声は、先生に怒鳴られた子どもみたいに、すっかり萎縮していました。


「私には、あなたとともに行く資格なんてない。この身体は……もう、あなたの好きにしていい」


 それだけを言い残すと、〝私〟は虚ろな表情をして口をつぐんでしまいました。灰色の沈黙が落ちてきて、私たちの間に流れる時をぴたりと止めました。


 静寂の中、私は唇を噛んで〝私〟を見つめます。

〝私〟は今、どんな思いで私と向き合っているのでしょう。それを推し量るのは難しいことです。


 でも――私の心は、たったひとつの確信に満ちていました。


 やはり、あなたは私なのです。


 絶望し、自らを責め、孤独へと閉じこもる――私。

 ほかの誰でもない、私の姿。


 そんな自分自身を前にして、私はいったい、なにをなすべきなのか。

 考えずとも、答えは自ずと出ていました。


「わかりました」


 短く言って、私は私をぎゅっと抱きすくめました。


 私は突然の出来事に理解が追いつかない様子で、石のように身を固くしています。安心させてあげようと、私は私の耳元で囁きました。


「好きにしていいと、言われましたので」


 私から、ふっ、と力が抜けた感じがしました。


「……すべてを奪った私に、どうして優しくするの?」

「いいえ。あなたのせいではありません。あなたは、なにも悪くないのです」


 私は落ち着いた声で、でもきっぱりと、否定しました。

 それから、さらに言葉を続けました。


「この漂意ただよいという体質は、あまりにも多くのことを私に教えてくれました。弱さも、痛みも、自分だけでぜんぶを背負う必要なんてないということ。それらを分かち合い、寄り添ってくれる相手が、どんな世界にも必ず存在すること。そしてその時、人の心に生まれるものこそが、愛なのだということ」


 透明な、私自身の思い。このちっぽけな冒険の果てに、たどり着いた答えです。


「みんなのおかげで、私は気づくことができたのです。愛を知らずに育ち、ずっとひとりぼっちで苦しんでいた私を、抱きしめて、ひとりぼっちなんかじゃないよと言ってあげる。それができるのは――この私しか、いないのだと」


 私の腕の中で、私は穏やかな呼吸を繰り返しています。その身体は我ながらだいぶ小さいけれど、確かなぬくもりを感じます。


「あなたは、私を愛してくれるの?」


 長く続いた沈黙ののちに、そう尋ねた私の声は、得体の知れない暗闇に怯える幼い少女のようでした。


「愛さないはずがないでしょう。あなたは、私なのですから」


 熱い感情がこみ上げてくるのを抑えながら、私はさっきまでよりも一層強く、私を抱きしめました。

 その時になってようやく、私は私の背中にそっと腕を回してくれました。


「ごめんね……」

「大丈夫。もう、十分すぎるほどに謝ったでしょう」


 世界に時が戻るとともに、私は温かい涙を流しました。それはどんな言葉や行動よりも強く、私を受け止めてくれる涙でした。


 やがて、私と私の境界が溶けるように消えていきました。そして、この三年と数日間の冒険のすべてが、静かに終わりを告げました。

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