第55話 はゆる、覆す

 一瞬の出来事だった。

 群れという言葉でさえ言い尽くせないほどの、無数の猫から成る波が、一気に押し寄せ私たちを呑み込んだ。


「なんなんだ、なにが起こった!?」


 汀さんが素っ頓狂な声を上げながら、へんてこなダンスを踊っている。その体型がやけに不自然で、よく見ると白衣の中に大量の猫が入り込んでいるようだった。半狂乱になって暴れる汀さんの、振り上げた腕に猫が飛びかかり、よろめいた足に猫が噛みつく。

「離れ……ぐふッ」あっという間に猫たちに覆われて押し倒された汀さんは、色とりどりの毛玉でできた泡と成り果て、地べたに這いつくばってうごめく。

 気づけば、同じ泡がそこかしこに発生していた。どういうわけか猫たちは白衣の連中だけを寄ってたかって攻撃している。闘牛が赤い布に反応するみたいに。実験場内に乱れて反響する猫の鳴き声に、人々の悲痛な叫びが乗る。


 私は文字通り、呆気あっけにとられていた。

 その時、前触れなく私と紅愛の拘束が解かれた。

 紅愛は軽やかにカプセルを飛び出し、大きく伸びをすると、汀さんのデスクのほうへすたすたと歩いていった。その背中を目線で追いかけると、コンピューターの上にいつの間にか座っている、一匹の白猫が目に入った。


「いえいっ!」


 紅愛は満面の笑みで、白猫に向かっててのひらを差し出す。そこに白猫は前足をぽんと合わせた。紅愛の言葉や仕草を理解できているかのようだった。


「まさか、こんなにも計画通りに進むとは思わなかったね」


 背の低い男子が嬉しそうに言いながら、紅愛に近づく。すかさず、白猫が彼の頭に飛び乗った。


「失敗に備えて代替案を用意していたが、無駄だったな。おい、みんな!」


 あの恐ろしく落ち着いていた男子が、手を叩いて声を張り上げた。


「そのへんにしといてやれ」


 猫たちが一斉に動きを止め、彼の周りにぎゅうぎゅうと集まり、行儀よく腰を下ろした。今まさに神の意思を民衆に伝えんとする預言者みたいに、彼はたった一人、数え切れないほどの猫の中央に悠然と立つ。それは間違いなく目を疑うべき光景だった。でも、この数十秒間の出来事があまりに現実離れしていたせいか、その光景をなんの疑問も抱かずに受け入れている私がいた。


 遠くで、汀さんが苦しげに呻いて、上半身を起こした。その顔には痛々しい引っ掻き傷が無数に走っている。


「貴様ら……いったい、なにをした……?」


 さっきまでの威勢はどこへやら、汀さんは砂漠で遭難したみたいな表情で紅愛たちを見上げる。


「帰るまでが遠足、種を明かすまでが手品」


 背の低い男子はそう言うと、頭上の白猫を不満げに見上げた。


「そろそろ辻野つじのさんの身体に戻れよ」


 白猫は左右で色の異なる瞳を、両方とも紅愛に向けた。

 その瞬間、紅愛は静電気で痺れたみたいな反応を見せ、直後には彼女の纏っていた柔らかい雰囲気が、わずかに冷えたように感じた。


「――やはり、紅愛ちゃんの身体は居心地がよくて素敵です」


 紅愛の口から、紅愛の声で発せられたその言葉は、どこか懐かしい響きを伴っていた。


    ※  ※  ※


 やはり、紅愛ちゃんの身体は居心地がよくて素敵です。

 私は少し身体を慣らしてから、汀さんに近寄りました。相手は私に目を釘付けにしながら、身体を引きずるようにして後ずさりました。


「どうやらあなたは、私を信用しすぎてしまったみたいですね」


 わざと、芝居がかった口調で言ってみました。


「なんの真似だ……? 貴様、どうやってこの場所から猫に指示を――」

「お勘違いをしていらっしゃるようでございますが、」


 思いつく限りの慇懃無礼な言い方をして、私は少し呼吸を整えました。


「私がここを訪れたのは、ほんの一分ほど前のことなのです」

「……?」

「つい今しがた、たくさんの猫たちとともに下りてきたばかりですが」

「はあ? なに寝ぼけたことを言ってやがる。ずっとその少女の中にいたじゃないか?」

「寝ぼけているのはあなたのほうでしょう」


 少し声を大きくしてやると、汀さんの顔がびくっと強張こわばりました。

 私は笑ってしまいそうになるのを堪えて、言おうと決めていた台詞を放ちます。


「一度たりとも考えなかったのですね。紅愛ちゃんが、あたかも私に漂意ただよいをされているかのように演じている、という可能性を」


 汀さんが顔を強張らせたままで、目をぱちぱちとしばたたきました。


「初めからここにいたのは、紅愛ちゃん、わたりくん、日向太ひなたさん、はるなちゃんの四人だけ。みんなが時間を稼いでくれている間に、のびしろくんの身体を借りた私は、この猫たちを連れて忍び込んだのです」

「まあ蓋を開けてみれば、僕たちが時間を稼ぐまでもなく、おっさんが一人でべらべら喋ってたけどね」


 渡くんが口を挟むとともに、彼の足元で小さな栗色の猫が鳴き声を上げました。


「なんだい? エルンスト」日向太さんが反応し、その場にしゃがんで耳を傾けます。


「……換気設備から侵入するってのはなかなかに肝の冷える体験だったぜ姉ちゃん、だとよ」


 日向太さんが通訳を終えるとともに、エルンストは私を見つめてもう一度鳴きました。私がささやかにウインクを返すと、彼は得意げな表情をして渡くんの足に頬をすりすりしました。


「デタラメだ! デタラメに決まってる!!」


 突然、怒鳴り声が響きました。


「残念ながら汀さん、日向太さんは本当に猫と会話ができるのですよ」

「そんなことはどうだっていい! 映、お前の話だ。黙って聞いてりゃなんだ、口から出まかせを言いやがって。ええ? なぁにが漂意の演技だ、そんなもので俺の目がごまかせるわけが――」

「じゃあ教えてあげる」


 紅愛ちゃんが、我慢ならないといった様子で割り込みました。


「あなたが失敗した理由。ひとつは私の演技力を見くびってたこと。もうひとつは、映ちゃんの推理力を見くびってたこと」

「……なんだと?」

「以前自分の身体に戻ろうとした時、魂が弾かれて上手くいかなかった――その経験から映ちゃんは、あなたが漂意をコントロールしてる可能性に思い当たった。私の身体に漂意をした状態で、迂闊うかつにあなたの前に姿を見せれば、返り討ちにあう危険がある。映ちゃんはそこまで想定したうえで、この作戦を立てたの」


 まあ立案したのはほとんど日向太さんなのだけれど、気分がいいので黙っておくことにしましょう。


「はは……」汀さんが、血まみれの頭を抱えて項垂うなだれています。


「……この俺が、貴様らごときの茶番に、引っかかった?」

「ええ、その通り」


 答えたのは、私でも紅愛ちゃんでもありませんでした。コンピューターにもたれかかり、汀さんを冷ややかに見下ろしているのは、はるなちゃんです。


「普段のあなたなら、この程度の子ども騙しなんて簡単に見破れたはず。でも今回のあなたはそれを見破れないほどに焦っていた。この研究施設の存在を、無関係の子どもたちに知られてしまったことでね」


 その言葉が耳に入っているのかいないのか、客観的には判断しかねるほどに、はるなちゃんを見上げる汀さんは呆然としています。


「貴様が、手を貸したのか」

「んー、まあ、私はみんなにこの場所を教えてあげただけですけどね」

「……裏切ったんだな」

「裏切った?」


 汀さんの呟きに、はるなちゃんは困ったような笑みを返します。


「そんな人聞きの悪い言い方やめてくださいよ。それじゃあまるで、私がもともとはあなたの味方だったみたいに聞こえちゃうじゃないですか」


 それが、とどめの一撃となったようでした。

 汀さんは感情をなくした顔を虚空に向け、しばらく人形のように固まっていたかと思うと、発作みたいに床に拳を叩きつけました。


「くそおおおおおおお!!」


 声の限り叫び、手に血が滲むまで殴り続ける汀さんを目の当たりにしても、私は同情も憐憫も抱きませんでした。

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