第49話 Hayuru, is deceived and betrayed.
剥き出しの配管をじっと見上げていたら、次第に異世界の生物みたいに思えてきた。
その天井に向かって、私はなんとなく、ふううと息を漏らしてみた。煙草をふかすみたいに。もちろん煙草を口にしたことなんてないけれど。
あたりを見回す。普段通りの、研究施設。この場所は三年前から、もしかしたらもっと前から、ずっと変わらない。
はゆるのことを考える。彼女は両親を
いや――同じ、なのかな? 私たちの境遇は、まったく一緒?
違う。そんなわけがない。
まだまともに言葉すら話せない頃、顔も名前も知らない両親に生ゴミみたいに捨てられる。
心の底から愛していた両親をも巻き込んで、不慮の事故で死亡したうえ、自分だけが引き離されて異世界へと漂流する。
一緒のわけがない。
どっちのほうがより辛くて、苦しくて、救いのないことなんだろう。私にはわからない。春江おばあちゃんなら、その答えを知ってるのかな。
考え続けていたら、なんだか胸のあたりがざわざわとしてきた。気分転換に、広々とした施設内を散歩してみる。
※ ※ ※
散歩の収穫は、なかなか面白いものだった。まさかこの施設がこんなにも縦に長かっただなんて、知らなかった。
私がもといた実験場でさえだいぶ地中深くに位置しているけれど、そこを地下一階として、さらにその下に六階分、掘り抜かれていた。実験場が主な舞台だとするならば、ほかの階は実験動物の飼育室や試薬の保管庫、メンテナンスルームといった、裏方にあたる空間。そこではお揃いの白衣を着た大勢の人々が、私には目もくれずに、慌ただしく行き交っていた。
私は汀さんを探して歩く。
聞かなければならないことがある。彼はなぜ、知っていたはずのはゆるの過去を、私に隠していたのか――?
その時ふと、視界の右側に、細く伸びる廊下が現れた。私は思わず足を止め、そちらを見やった。
廊下の先には小さな扉。なぜか、私はその扉に強く惹き付けられた。
なんとしてもあそこまで行って、扉を開かなきゃ――異様な好奇心、というより、ある種の強迫観念だった。
奥歯に少し力を入れ、歩き出す。一歩を踏み出してしまうとあとは勝手に足が動いて、気づけば扉は目の前にまで来ていた。小さいと思っていたけれど、この距離で見るとそれなりに大きな扉。上部に小さな窓が付いている。でも私の身長では、背伸びしても中を覗くことはできなかった。諦めて、ノブに手をかける。
扉が開いた瞬間、埃に酢が混じったような、少し危険を感じる匂いが鼻をついた。軽く握った手を鼻の下に当てて口だけで呼吸しながら、見回す。
室内は狭く、薄暗い。床は元の色や質感がまるでわからないほどに散らかっている。左手にはレースのカーテンが雑にかけられた棚が見え、奥の壁に向かって汚れた白い学習机が置かれている。小学生女子の部屋が、めちゃくちゃに荒らされて、何年もそのままで放置されてるみたいな感じ。
散乱するゴミ袋やら段ボールやらビニール人形やらを恐る恐る掻き分けながら進んで、机にたどり着く。
机上には、淡い青色をしたフラットファイルが一冊。見るからに新しいもので、この場所に存在するのが不自然にさえ思える。手に取ると、その瞬間周辺の埃が舞い上がって、思わず咳き込んだ。
ファイルを適当に開いてみると、いきなり難解な数式の羅列が目に飛び込んだ。職員の誰かが置き忘れていった資料……?
なんて考えながら、顔を
そこには、いくつもの欄が設けられた紙が挟まっていた。各欄には文字がぎちぎちと印刷されていて、履歴書か、医者の書く診療録のように見える。手が止まったのは、その中に私の名前を見つけたからだ。
[献軀]和泉 映
[年齢]13歳(実験開始時)
最初の二文字が読めない。とりあえず、無視して目を滑らせる。私の個人情報が細かく記載されていて、胸がむず痒くなった。
そうして見ていくと、紙の下のほう、欄外に、手書きの文字があった。
廻**は別界・癸*-F6bの和泉映の魂魄を使用。誘因は火災の予定。
此界の和泉映への対応:記憶改変
・方法……大脳皮質への**rem300の投与、及び電気刺激
・設定案……事故による実験の失敗→不本意ながら異世界の和泉映の魂魄に君の身体が乗っ取られてしまった、と説明
・懸念……副作用として、扁桃体への高負荷により感情*御機能に異常をきたす可能性あり→凶暴化?
「なに……これ……?」
殴り書きで一部識別できない文字があるけれど、だいたいの内容は把握できた。
私は瞬きも忘れて、手元の紙を見つめ続けた。何度読んだって書いてあることは変わらなかった。だんだん紙面から文字がふわふわと浮かび上がってきて、やがて渦となって私を巻き込んだ。
脳を激しく揺さぶられる感覚に酔いながら、私は必死に落ち着こうとした。でも、落ち着けるはずなんてなかった。
「君には、あまり見せたくなかったんだがな」
ふいに、背後から声がした。
振り返ると、部屋の入口にもたれかかるようにして、白衣姿の汀さんがいた。
「自らここまでたどり着いてしまうとは。まったく、昔から君の潜在的な知能の高さには驚かされてばかりだ」
言いながら、汀さんはゆっくりとこちらに向かってくる。彼の足元で、なにかがパキッと音を立てた。
「君にいくつか嘘をついたことは……申しわけなく感じている。だが君の実験は、未来への、極めて重要な第一歩だった。人類を肉体の呪縛から解き放つ。我々のその使命を実現させるためには、はゆるの死は、必要なことだったんだよ」
距離を縮めてきたことで、陰になって見えなかった汀さんの顔が、やっと認識できた。
その表情はもう、私の知っている汀さんじゃなかった。
「悪く思わないでくれよ。向こうの汀が誰を殺したとて、今ここにいる私には、一切関係のないことなのだから」
私は咄嗟に駆け出した。汀さんの脇をくぐり抜け、部屋を飛び出し、来た道を戻った。自分の足音以外はなにも耳に入らなかった。
心臓が痛いほどに高鳴り、呼吸が乱れる。気にする暇はない。目についた曲がり角を曲がって目についた階段を駆け上がる。どんなに息を吸っても肺に空気が入ってこなくて、視界の周縁がぞわぞわと黒いもので覆われ始めた。それでも走った。通ったことのない道に入るたび、どうか行き止まりじゃありませんようにと遮二無二祈りながら走った。
けれど、神様は――そんな存在がいるのなら、あるいは、いるとしても私なんかを気にかけてくれてるのなら――そんなに甘くはなかった。
「うっ……」
足がもつれて、私は前方に転んだ。受け身に失敗して床に顎を
起き上がろうとした時、ふと手に硬いものが触れた。汀さんから連絡用に渡された携帯電話だった。開いて、電話帳に登録されているはるなの番号に発信する。呼び出し音が鳴り出す。無慈悲に繰り返される音が胸の鼓動と共鳴する。急に音が止まった、かと思えば、着信を拒否されていた。もう一度かける。
「お願い……出て! 出てよ!」
〝私〟だけが、希望だった。でも――それはあまりに独善的な考えだと、すぐさま思い当たった。はゆるにたくさんのひどいことをして、ひどいことを言ったのは、ほかでもない私だった。それが、汀さんに騙されてたんだってわかった途端、無様に助けを求めるだなんて。
情けなくて、申しわけなくて、涙がこぼれた。もう立ち上がる気力すら残っていなくて、私はへたり込んだまま、頭上を仰ぎ見た。クリーム色の天井があるだけだった。
「おっと、こんなところで休憩か?」
汀さんの声と一緒に、首筋にびりっと痛みが走った。細い針のようなものが刺さっている。そう認識した時には、私の意識は既に消えかけていた。
「ごめんなさい…………」
呟いた声は、誰にも届くことなく、アスファルトに落ちた雨粒みたいに溶けてなくなった。
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