第25話 はゆると紅愛ちゃんと渡くん②

 周囲の騒音で、私は目を覚ましました。


 やはり元の身体に戻っているのを確認しながら、あたりを見渡しました。

 そこは、広大な本屋さんでした。かなり盛況の様子で、レジには長蛇の列ができています。


「あ、いたいた! 和泉いずみさーん!」


 突然、耳馴染みのある声で名前を呼ばれて、私は顔を上げました。

 本棚の向こうから顔を出すのは、エプロン姿の香椎かしいさんです。エプロンには「クオラル堂」の五文字が踊っています。


「今って手空いてる? 新刊のPOP作るの手伝ってほしいんだけど」


 言われて、ふと見下ろすと、私も香椎さんとお揃いのエプロンを身に着けています。胸元に無機質なフォントで「和泉」と記された名札を見つけて、呆然としたまま突っ立っていると、


「もしもーし? 聞いてる?」


 香椎さんに肩を優しく叩かれました。

 ゆっくりと顔を上げると、その胸には「店長(エリアマネージャー兼任) 香椎」――心しか、私の名札よりも大きく見えます。


 矢も盾もたまらず、私は駆け出しました。「待って、和泉さん!」香椎さんの叫ぶ声を背に受けながら、お客さんを押しのけ、どこに向かえばいいかなんてわからないのに、ひたすら逃げるように走りました。


「きゃあっ!?」「うっ……」


 角を曲がる時、飛び出してきた人とごつんと正面衝突して、私たちはお互いに尻もちをつきました。額を押さえてうめく私に、


「あいたたた……あれっ? はゆりんご先輩!」


 私とまったく同じ姿勢のはるなちゃんが、明るく笑いかけました。


「お久しぶりです! 最近お見かけしないから、バイト辞めちゃったのかと思いましたよ! どうしたんですか? そんなに慌てて……」


 真っ暗な海の底に沈んでいくような感覚とともに、私はその場に倒れ込みました。


    ※  ※  ※


 次に目を覚ました時、私は自分の部屋にいました。


 リビングの真ん中の、ホットケーキみたいにふかふかのソファの上で、うずくまって眠っていたのです。身体にはタオルケットがかけられています。


「起きたか、映」


 突然、耳馴染みのある声で名前を呼ばれて、私は顔を上げました。

 台所でフライパンを巧みに操りながら顔だけをこちらに向ける、みぎわさんと目が合いました。


「体調は、どうだい? 食欲が戻ったなら、映の分の飯を用意するが……」


 跳ね上がるようにして身体を起こし、私はトイレに駆け込みました。


 永遠に続く迷宮に、知らず知らずのうちに囚われてしまったような心地です。一刻も早くここから抜け出さなきゃいけない……というのだけは確かなのに、迷い込んだ原因も詳細も解決策も頼れる人も、なにひとつ思い当たらないのです。


 めまいがしてきました。


 胸の内に、得体の知れない恐怖が黒く渦巻いています。それは寝付けない夜中にふと宇宙の行く末や自分の死について想像してしまった時に感じるような、茫漠としていて、なおかつ根源的な恐怖でした。私は便器にしがみつくようにして、恐怖をすべて体外に吐き出そうとしました。

 でも、口から出るのは渇いた咳だけ。いっそ無理やりにでも吐こうと、手でおなかを押し込んだり何度か殴ってみたりしたけれど、ただ痛いばかりです。


 口元からだらしなくよだれを垂らしたまま、途方に暮れて、トイレの壁にもたれかかると、波のような眠気が襲ってきました。


    ※  ※  ※


「…………ちゃん……ゅるちゃん……」


 水の中から呼んでいるような、たぶん女の子の声が、耳の奥を微かに揺らしています。

 

「……ぉんとにこの猫…………のか?」


 後を追うように、男の子らしき声。

 二つの声の余韻はその輪郭を曖昧にして、やがて複雑に溶け合って――


「映ちゃんっ!!」


 その時、はっきりと聞き取れなかったひとつめの声が、急に実体を伴って、目の前に現れました。


 視界の中央には、手を伸ばしてこちらを見上げる紅愛ちゃんの顔。それから、浮いた状態でぷらぷらと揺れる、白く細い足としっぽ。


「映ちゃん……なの?」


 紅愛ちゃんは悲しげな表情で首を傾げています。


「和泉さんなら、漂意ができるはずなんだけどな」紅愛ちゃんの斜め後ろから、渡くんが声をかけました。「ただ、僕に乗り移るのはもう勘弁してくれ。中に和泉さんがいると、どうも落ち着かないよ」


 和泉さん……僕……。

 私のよく知っている、渡くんの話し方です。


 そう認識した時には、私は紅愛ちゃんに向けて意識を研ぎ澄ませていました。冷凍保存から目覚めた後のような、まだ思考も感情も現実に追いついていない状態での、半ば本能的な行動でした。


「……映ちゃん?」


 紅愛ちゃんが私を呼んだのに合わせて、私は自ら抱え上げている真っ白の猫の姿を見ました。幻覚でも夢でもなく、何度瞬きをしても、視線の先には自分の陥る状況をまるで把握できていない猫の顔があります。


『紅愛……ちゃん……』


 自分を納得させるように、あるいは思い出したばかりの記憶を定着させるように、私は呟きました。


「やっぱり映ちゃんだ! よかった〜!」

「まじかよ、本当に猫の中にいたのか?」


 紅愛ちゃんが声を弾ませ、渡くんは溜息をこぼしました。なんだかんだ、二人とも私との再会を喜んでくれているようです。

 けれど私には、心の底から安心できるほどの余裕はありませんでした。心にはまだ、黒いもやが居座っているのです。


「二人は……、紅愛ちゃんと渡くんなのですか……?」


 紅愛ちゃんの声を震わせて、私がそう言うと、渡くんは壊れた腹話術人形みたいに口をあんぐりと開けた表情で、私を見つめ返しました。

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