絶対味覚の男

いちはじめ

絶対味覚の男

 体を列車の揺れに任せ、車窓を移ろって行く景色をぼんやりと眺めていると、いきなり目の前に小さな手が現れた。驚いてその方向を見ると、三歳くらいの男の子がつぶらな目で私を見ている。その背後の、通路を挟んだ反対側の席にいた彼の祖母と母親と思しき女性が軽く会釈した。全く気付かなかったが、途中の駅で乗り込んできたらしい。改めて坊やに目を移すと、差し出した手に小さなお菓子の袋を握っている。どうやら、一人でぼうっとしていた男を憐れんで飴をくれるらしい。小さな坊やの好意を無にする訳にはいかない。私は「ありがとう」とその袋を受け取ると、お礼に坊やの頭を優しくなでた。彼の髪は高級な絹織物のようなとても柔らかい感触がした。

 首尾よく目的を果たした坊やは、嬉しそうにほほ笑むと踵を返して祖母の胸に帰っていった。


 手に残ったのは昔懐かしいM社の飴だった。

 まだ年端もいかない頃、私はある施設にいた。親に捨てられた身寄りのない子供たちが暮らす施設、孤児院だ。その施設でおやつ代わりに時々配られていたのがこの飴だった。

 包装を破りその黄色い丸い塊を口に入ると、たちまちその原材料や着色料などの添加物の成分が舌で分析され脳裏に伝わって行く。使用禁止になった幾つかの人工甘味料が別のものに置き換わってはいるものの、当時とさほど変わらない成分構成だ。

 そう、私は一度経験した食べ物の成分を正確に知覚することができる『絶対味覚』の持主なのだ。この能力を自覚してから、料理人としての研鑽を積み、今や絶対味覚を持つ味覚評論家として、各方面から引っ張りだこの忙しい日々を過ごしている。

 今日はある地方テレビ局の料理番組に出演した後、近郊の小さな街に足を延ばそうとしている途中だ。多忙な日常の合間に地方の街を旅しては、その土地の味覚をせっせと記憶している。それはまた私の記憶に存在するある一つの正体不明の味覚を求める旅でもある。

 それは『肉じゃが』で味わったものだ。いつどこで食したのか全く思い出せないのだが、これまでの他の料理でも味わったことのない味覚が私の中に存在しているのだ。私は評論家として名を馳せてから、それを求めて数えきれないほどの『肉じゃが』を食してきたが、いまだにそれに出会えていない。


 坊やの飴を堪能してから小一時間ほどして、列車は目的地に到着した。予約していた旅館に早めにチェックインして、街を散策する。

 初めて訪れたこの街は何の変哲もない地方という風情であった。人通りの少ない寂しげな商店街の裏手に回ると、何軒かの小料理屋が立ち並ぶ筋があった。まだ早い時間なので開けている店はなさそうだったが、ある一軒の小料理屋に暖簾が懸かっていた。私は一度宿に戻って出直してくるのはおっくうだと思い、その暖簾をくぐることにした。

「すみません、やってますか?」

「まだ仕込み中で出せるものは少ないよ」

 背を向けて仕込みをしていた年老いた女将が、そのまま申し訳なさそうに答えた。

 開いているなら大丈夫、と私はカウンター席に座りビールと総菜を注文した。

 女将が仕込んでいるのは紛れもなく『肉じゃが』だ。下味をつけ終わったじゃがいも、玉ねぎ、にんじん、それに豚肉をじっくりと今煮込んでいるところだ。ぐつぐつと煮立つ音と共にうま味の匂いが小さな店を満たしている。残念ながら『絶対臭覚』は持ち合わせてはいないので、豚肉と醤油・みりんぐらいしか区別がつかない。

「お客さん、どこかで見たような気がするんだけど、有名人かい?」

 ぶしつけな女将の問いに、どこにもいるような平凡な顔だからと曖昧に答えた。

「そうかい……。ほら、あのだっけか? あの評論家と少し似てるなと思ったもんだから」

 ――私の出演した番組を観ていてくれたのか。

 見れば店内に色褪せた私のインタビュー記事が張ってあった。それは私が『絶対味覚』の持主として世に出始めたころの古い新聞記事で、もう二十年も前のものだ。確かそのインタビューでは、『肉じゃが』に関するあの謎の味覚についても語っていたはずだ。

 私に関する昔の新聞記事の切り抜きを持っているこの女将に興味が湧いてきた。

「そういえばそのの評論家は何か『肉じゃが』にこだわりがあるようですね。分析できない味覚の記憶があるとかないとか」

「誰にも忘れられない味というものがあるもんさ。でもそれは味覚成分というような理屈じゃない、何か心の味覚なんじゃないかね」

 ――心の味覚?

 女将さんがこちらに向き直り、私の顔をまじまじと見つめた。

「食べてみるかい、私の肉じゃがを」

 元よりそのつもりであったので、私は大きく頷いた。

 出された『肉じゃが』は思った通りのオーソドックスな味だったが、地産の新鮮な素材を丁寧に作り込んだものであった。お世辞抜きに美味い。その味をゆっくりとかみしめていると、あの正体不明の味覚が記憶から呼び起こされてきた。そしてそれは心を強く揺さぶってくる。

 ――何なんだこれは。

 何故だか分からないが、溢れる涙を止めることができなくなった私は、涙でくしゃくしゃになった顔で女将を見た。

 女将の目にも涙が浮かんでいた。

「やっぱり達彦なんだね。これは最後にお前に食べさせた『肉じゃが』と同じ味なんだよ」

                                   (了)


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