ある異常者の話
コオロギコズエ
第1話 学び舎にて
私は小さなときにイギリスにわたり、父方の祖父母に預けられることになった。姉と共に最後の便に乗って赤い土の道を通った。祖父母は、最初は優しく迎えてくれた。祖母は当時の私と同じくらいの背丈の、小太りの女で、祖父は顔が細くしわだらけの禿げ頭をいつも黒いローブで覆っていて、長身の男という、対照的な印象を受けた。幼児期の私は姉と仲が悪かったので、非日常的な状況で嫌な気持ちだった。
我慢をするのは私の特技だが、この当時から我慢強い人間であった。数日の静かな休日が過ぎたあと、祖父が豹変した。私の顔をいきなり殴り、私に雑用をさせた。私は殴られたくなかったので、言うとおりにした。落ち葉や木の実の採集、庭掃除、家じゅうの家事、たとえ平凡にこなせなくてもやらされた。また、姉には仕事や学校に行かせたのに、私には町中を走り回って植物採集や昆虫採集、魚とりなどをさせた。おかげで体は強靭なものになったが、学校に行かせてはもらえなかったので頭は良くならなかった。今まで付き合ってきた人々にも会えなくなったので、精神的にもつらかった。
祖母はすぐに家を出ていった。
私が八歳に上がった時に、祖父の暴走はエスカレートした。祖父は私についに共同生活の場に送り込んだ。そこは、祖父が秘密裏に経営している、いわゆる学校ではなく寮のような施設であった。四階まであるかなり大きな施設で、個室が百以上あった。短い期間に過ごした仮家を離れ、姉とも会えなくなり、私には小さな個室が与えられた。
私の個室には、壁や床中に草やキノコが生えていた。天井がガラス張りで、床は土になっていた。空調はしっかりしているが、ベッドも毛布もなかった。眠るときは少し高く育った草の中に顔を埋めて眠った。寒い日は土を掘りだして土の中で眠った。土の中は意外と暖かく、ミミズやハサミムシとともに夜を越した。
その施設は表向きには動物園の飼育バイトの住み込み寮であるとされていた。しかし、後にも先にも全く動物園の仕事には触れなかった。私のほかには、三人の同年代が住んでいた。彼らはいずれもイギリス人であり、女もいた。彼らの個室はどれも土壁のガラス張りの天井という点では同じであったが、いずれの部屋も自分の部屋とわかるような意匠が凝らしてあったという。私は同じ寮に住んでいる三人を自分の個室に招待したり、中がどのようになっているか見せたりすることは一切なかった。だが、見栄っ張りのジャックなどは壁に自分の自画像を自分の爪で彫り込んでいたりだとか、壁を突き破って水を引いて日が出ている間は顔をずっと眺めていたりだとかを、誇らしげに話していた。
私たちは、そこでいわゆる人殺しになるための教育を受けたのだった。一日三時間の運動と二時間の座学を受け、人一人以上を殺してくることを強要された。私たち四人はその時間に顔を合わせて、情報を交換した。
運動の時間は日によって内容が違うが、体をぶつけあうような対人競技にはじまり、喧嘩のようなことをすることもあった。祖父の機嫌が悪くて、どちらかが重傷になるまで終わらない日もあった。血だらけになった側は次の日必ず部屋から出られなかった。
座学の時間には、私たちはミーティングルームに移動して、地球上の生き物についての知識を学んだ。魚、虫、動物、植物などの攻撃性について細かく学習していた。このときには必ず古い学会論文や書物が教科書となっていた。講義形式ではなく、教科書の指定箇所を熟読し意見を深めるという形式をとっていた。
座学の後、私たちはすぐに施設の外に出され、人を一人以上殺して心臓か頭部を持ち帰ってこなければ、施設に戻ってくることは許されなかった。殺した数によって報酬がもらえ、殺害数トップの殺し手には一食分の食事と人を殺した数のキャンデイ、逆に最下位殺し手には何も報酬は与えられない。しかも、警察に見つかれば当然捕まるし、他の殺し屋に殺される危険もある。キャンデイは予備の食糧であり、功績の証であった。ハイリスク・ローリターンだが、生を享受するためにしかたがなかった。
私たちは殺害の成果の証であるキャンデイをもらえる時間を、「リワード」と呼んでいた。この時間には祖父が死体の殺され方を判断するために十分程度の休憩が入る。他の同僚生とコミュニケーションを得る絶好の機会であった。
最初は人を殺すことは実行できなくて、他の三人が殺したものを分けてもらってなんとか食い扶持を稼いでいた。その中の一人はたまに私に反論を返してきた。
「命かけてナイフ握って、勇気出して、人殺して、恐怖と罪悪感を抱いているのがわからないなら、みんなしてあなたにキャンデイを与えるのは不公平じゃないかしら?」
リワードの時間に、唯一の女であるセレンが私に言った。
「不公平とかそういう問題じゃないだろう」
「人間殺しちゃダメなことくらいわかってるわよ。でも、あなたはここのルールを無視して生き残ってることはアウトでしょ」
引っ込み思案のドルベルはキャンデイの包装紙をいじりながら口をはさんだ。
「人殺したくなるまで帰ってこなきゃいいんだ。…君のもらうキャンデイは、行動の対価として成り立っていない」
「あたし先生がもどってきたらあなたのこと言ってやる」
祖父が解剖室から出てきたところで、セレンは大きな声で私のルール違反を告発した。それを聞いた祖父はうんうん頷いて、報酬を誰にも渡さずに個室に返した。ただ私だけはリワードの部屋に一人残された。祖父は私に、食事があれば人を殺せるかと尋ねた。私ができないというと、
「お前はどんな気持ちで俺の言うことを聞いていたか知らないが、お前がもし一度でも俺に歯向かうようなら、一発で殺すつもりだったんだぞ。今までしっかりしていたから、殺すのはやめてやるが、お前は明日からあいつらと別メニューでいくからな」
と言って、ボロボロの手帳を手渡した。座学の時間の内容がまとめられており、祖父のメモが赤字で書き込まれていた。
次の日から私は個室から出ることを許されなかった。食事も与えられず、他の三人との会話も禁止された。そのかわり、新しくリスのルームメイトが増えた。そのリスは、私が祖父母の家に滞在していたときに捕まえたリスで、祖父がコレクションとして保管していた。性別はオスで、祖父は「ラベル2」と呼んでいた。
ラベル2は他のリスと繁殖を進めており、私の個室の土壁の開閉入り口から出入りして、外の木で巣を作っていた。私の部屋を訪れるのはナラの実を土の中に埋めるためであった。私は時々土を掘り起こしていたので、リスでも掘り起こしやすい土になっていた。埋められたナラの実が発芽するとめきめきと成長し、次々と幼木が生えた。私はラベル2が埋めたナラの実を口に含むこともあった。渋くて食べられるものではなかったが、生きるための栄養を摂取する必要があったために食べるしかなかった。
祖父は、ラベル2の他にも今まで私が捕獲した昆虫や小動物を送り込んできた。彼らに迷惑をかけないように、共存を図れるようにあまり動かなかった。その間は、祖父の手帳に目を通すことにしていた。初見は全く理解できなかったが、毎日読んでいくうちに空腹から来る吐き気を我慢できるようになった。
半年後、私は祖父の手帳にどっぷりと洗脳されていた。
祖父は私の部屋に放送アナウンスをして、闘技場に呼び出した。そこには成長した同僚生が立っていた。久々に人を見たのでいくらか緊張を覚えた。
「ナメクジみたいになったね」
ジャックが私に向かって言った。私自身がそうなってしまったのかはよく考えなかったが、そこに集まっている三人は、前々の彼らとは思えなかった。話を聞くと、各々殺人スコアを増やしながら毎日三食をもらっており、キャンデイの量はもはや一日では食べきれないほどに増え、部屋の中は未開封のキャンデイの山ができるまでになったらしかった。
祖父は私たちの前に姿を見せず、放送アナウンスで私たちに殺人の依頼を一人一人に指示した。私にも当然のように依頼が用意されていた。依頼の内容は、大衆酒場での百人以上の殺人だった。他の三人は普段から十人以上の殺人をしていたため、私の依頼内容を聞いて羨ましがっていた。長袖の白装束とサバイバルナイフを支給された。白装束はゆったりしたつなぎで、服の中に武器を隠せるようになっていた。
長きにわたる監獄生活を続けていたせいで、私は人の前に出ることがひどく怖くなっていた。着替えを終えた私に祖父は目の前に現れて、手帳を必ず携帯しなさいと告げた。そして、殺す前に四ページの心得を胸に刻んでおきなさいと入念に言いつけた。私はそのページの項目は、考えの浅い私にもわかる、最も倫理観からかけ離れた祖父の信条そのものであった。言われた通り口で何度も復唱した。
「一、人のオオカミは人。一、人は弱さゆえに人を殺す。一、人は…」
これ以降は口に出すのも恐ろしい妄念の羅列が続き、私はひどい自我のゆがみを感じ、その感覚を持ちながら駆け出した。街に飛び出すと、歩いている人や楽しそうに話している人を見て、殺したくなった。ひたすら周りにいる人間を殺したくなった。この衝動の裏付けとしては、おそらく人は人を殺すことが目的であるという刷り込みがあったからだといえる。同種で共同体を作って社会を形成している人類であるが、戦争や抗争は絶えないのだから、殺害を否定できる生き物ではないし、全ての生き物の頂点に立っているわけでもないただの獣だ。そう考えて、私はつなぎの袖の中からサバイバルナイフを抜き出して、目の前を通りかかった同年代の少年の首筋にスパッと切りつけた。少年はすぐにこと切れて、地面に倒れた。周りで悲鳴を上げ始めた人々の首も一気にはねた。返り血で私の真っ白なつなぎは赤いまだら模様になっていた。
夕方になって私は徒歩でロンドンの町の酒場についた。依頼された酒場の殺人スコアは、私の初めての殺人を考慮してか、たった一人の殺人だった。殺す人間は指定されていたが、限りなく無垢な感情で、中にいた全員の首と腹を切り裂いた。断末魔が町中に響き渡り、それらが静かになると、赤く濡れたナイフをつなぎの白い部分を探してきれいにした。私は指定された人間の頭部を持ってその場から立ち去った。
酒場の裏口から出ると人が集まっていた。町の人間と警察官が私を取り囲むように臨戦態勢をとっていた。懐中電灯をあてられて目が痛かった。警察官が拳銃を持っていたので、簡単には動けなかった。警察官は私を逮捕すると言ったが、私はそれを拒みサバイバルナイフを構えて警察官のはらわたをめがけて飛び込んだ。警察官は銃を発砲する間もなく腹を貫かれた。貫いた間隙を突いて他の警察官が私に向けて発砲し、私は右肩を撃ち抜かれた。
その場から動けなくなった私は警察に連行された。まずは緊急治療センターで肩から銃弾を抜く手術を施された。そして、私は痛み止めと、少々気がふれていたために精神安定剤を注射された。その後、常勤のカウンセラーによって三十分程度のカウンセリングを受けた。女のカウンセラーは三十分間私の行った殺人について、私の心境について事細かに私に話させて、話し終わったときには頭を抱えていた。私が着ていた血まみれの服は洗濯されて手元に戻り、サバイバルナイフは警察によって没収された。
当時は十歳に満たない年齢だったため、一応の保護者である祖父がセンターまで迎えに来てくれた。その場にいた人の証言によって、私が四十人以上の殺人を行ったことが明らかとなったが、何しろ前例がなかったものだから、とりあえず書類ができるまでは帰してもらえることになった。事件の概要を祖父は終始目を丸くしながら聞き、頭の黒い頭巾を目深にかぶっていた。祖父は若干驚きながら私を車に乗せた。
車の中で私が人を殺したことと、任務以上の殺人を犯したことについて、私のことをひどく褒めた。私が警察官に補導されたことについては、年齢という守りがあったせいかとがめることはなかった。私が殺害対象の頭部を持ち帰れなかったことについて祖父に尋ねると、満面の笑みで問題ないと言った。初めて私の行動を祖父は認めたが、私はあまりうれしいとは思わなかった。
寮に戻ってきたときにはすでに夜明け前になっていた。同僚生は祖父の部屋の前に集まっており、リワードの時間を待っていた。昨晩は祖父が私を迎えに行くためにリワードが先延ばしにされていた。三人の私を見る目は非常に鋭くて、直視することができなかった。私が指定の位置につくと隣にいたジャックが私の右腕を小突き、少し痛みが走った。
「警察に捕まらなきゃパーフェクトだったぜ」
ジャックは少し私のことを認めたようであったが、ドルベルとセレンからはさらにおかしな偏見を持たれるようになった。話しかけられることはなかったが、セレンに目線を送ろうとすると明白な怒りを含んだ目で見られ、ドルベルにはなぜか畏怖の目でずっと見つめられるようになった。
その日のリワードは私の殺人スコアがトップであった。その報酬として、草で編んだかごにいっぱいのキャンデイと、二個の小さな里芋をもらった。里芋は私の好物で、部屋の土の中に埋めて増やすことにした。全員三十人以上の殺人スコアであったため、今日は三食の食事が与えられた。私たちはランチルームに入って用意されたそれなりの朝食をとった。そのランチルームには私たち以外にも動物園の夜勤の職員も食事をとっており、ロールパンを噛んでスープを飲んでいた。私はジャックに話しかけた。
「久しぶりのこういう食事だよ。昨日までほぼ何も食べてなかったのと同じだった」
「もし君が従順に人を殺していたらそうはなっていなかったさ」
ジャックの言葉に私は、この食事が、私が殺した三十人以上の死体の山から絞り出されたものであることに気づいた。それが私の仕事の対価、獲物から得られた褒美なのだから、別にためらうことも罪悪感を抱くことも必要なかった。
次の日から、また運動の時間と座学の時間に参加することになり、私たちはより高いスキルの習得を要求された。私は半年間体を動かしていなかったので、最初の十五分間はうまく動けなかったが、だんだん感覚がつかめてきて三人の動きについていくことができた。決闘の授業で私がドルベルの背中を拳でひどく打ち付けて勝利したとき、セレンが私に声をかけた。
「あなた本当に人を殺せるようになったの?今の試合を見ていてもそうは見えなかったけど」
私はセレンの問いかけに答えることはできなかった。
夕方の殺人スコア狩りも毎回外部からの依頼に沿った殺人を指示されるようになった。初めて人を殺した時の感情を思い出せば、依頼以上の数の人殺しを行うことは容易かった。祖父の手帳の信条を暗唱し、人を殺す自分になる。最初は何度も衝動を止められず、警察のお世話になった。祖父を怒らせたくなかったので、私は祖父に内緒で治療センターの薬品庫から精神安定剤と注射器を盗み出して、毎日依頼を終えるたびに薬を注射していた。そのおかげで、私は自分で注射を打つことがとてもうまくなった。私は、周りの同年代の殺し手と同じ扱いを受けたかったから、そして私の周りにいる人を殺してしまいそうだったから、手帳と注射で自分を使い分ける生き方を学んだ。
さらに半年後、私たちの一つ下の世代が入寮することになった。私たちよりも三倍の人数の殺し屋見習いたちが入ってくることになり、リワードの時間も長くなった。どの殺し手も親が反社会勢力の構成員であったり、暗殺者だったりする殺人者のサラブレッドであるとジャックが言っていた。
「俺は普通の家で生まれたんだけど、親が借金を作って殺人強盗に走ったからもう普通の暮らしはできなくなったんだ」
「ちなみに私のパパとママは暗殺者なのよ」
「僕は親に捨てられたからよく知らない」
セレンとドルベルも自分の出生を語った。私も自分の親のことを言わなければならなくなった。
「俺の親は日本でエリート官僚をしていて、小さなときからあんまり家に帰ってこなかった。でも優しい人だと思うよ」
三人は私の話を聞いて意外だとつぶやいた。強制的にここに連れてこられて約一年、私は親のことを考えている余裕はなかった。彼らの親に対する執着というものは少なからずあるようで、ドルベルは親がいる私たちをうらやんでいた。
寮の人数が増えたことから、リワードの時間に新しいルールが追加された。その日のトップも当然私であったのだが、祖父は里芋とキャンデイを手渡した後に、私の耳に口を近づけて最下位の殺人スコアの人を殺すことを命令した。私が冷静にその命令を拒むと、祖父は鼓膜が割れそうなほどの大声で私を罵倒した。
「お前はなぜまた俺の期待を裏切る!」
最近まで落ち着いていた祖父の機嫌が一気にフラストレーションして、私には暴言がひたすら浴びせかけられた。私はその場に座り込んで耳をふさぎ、静かになるまで目を開けることができなかった。リワードの部屋から誰もいなくなったことを確認すると、キャンデイと里芋を拾って私の部屋に戻り、眠りについた。
次の日から私は依頼された殺人の数以上の殺人を抑えることにした。そのころには一日に百人以上殺すことが当たり前になっていたため、依頼ノルマをこなすことは自分の欲望にブレーキをかけているようでもどかしい思いがした。そのうえ、最下位になると殺されることになるので前回最下位だったものの動向を見つつ殺しを行わねばならなかった。単純な思考しか持ち合わせていない私にとって、そのような器用なやり方はただただげっそりするだけだった。
祖父の非人道的な教育方針から逃れることができなかった私の唯一の癒しは、私の部屋に住み着いた小鳥や小動物たちであった。小型犬なら通れそうなほどの小さな小窓から毎日用事をこなしに来ていた。部屋の地面はすっかり肥えていて、虫の数も増えた。ラベル2が植えたナラの木も今では私の背丈と同じぐらいになるまで成長した。大きくなりすぎると天井のガラスを突き破ってしまいそうだったので、適当なところで枝を折って成長を止めていた。私には緑に囲まれた、人間が私しかいない部屋にいることが、一切の順位社会を忘れられる自然の時間だった。
朝に部屋を一歩出ると目の前を年下の同僚生が歩いていて、思わず殺そうと考えた。すぐに精神安定剤を注射したが、殺したいという思いは止まらなかった。通り過ぎていく同僚生を追いかけながら二本目の精神安定剤を注射することでやっと衝動が収まった。しかし、過度の注射によって、私は気を失ってその場に倒れこんだ。
目覚めたとき私は保健室のベッドに寝かされていた。両脇にはセレンとドルベルが座っていた。
「よかった、生きてた」
ドルベルはほっとした表情でため息をついた。私が顔を見ると、ドルベルは安心したようで保健室から出ていった。残ったセレンは私の持っていた注射器を布団の上に置いた。
「こんなもの使っていたんだね。どこで手に入れたの」
「治療センターの薬品庫から。これを打たないと自分を保てなくなる」
「そんなことしていいと思ってるの。逃げればいいのに。あんたみたいなハンパな人は普通の生活をするべきなのに。日本に家族もいるんでしょ…」
「…先生は俺の祖父で、ここでの保護者だから。ここに預けてくれた俺の親に申し訳ないし、俺の姉さんもロンドンで、仕事も、学校も行ってるから……」
私はどうしてだか胸を押さえたくなった。おなかに向けて体を丸めてなぜだかあふれる涙を、セレンに見えないように布団で拭った。セレンは私の手を握った。
「ここ、少し腫れてる」
セレンは私の左腕の袖をめくって少し赤くなった部分をさすった。
「日本にいたときに、その、重い病気の子を助けるために骨髄を移植したんだ。痛くないし特に支障もないから」
セレンは前髪をよけて、組んだ手に額を押し当てた。三秒ほどの後に、立ち上がって私の注射器を没収して保健室を出ていった。注射器は街で処分するのだと言い捨てた。
人を殺すことよりも罪悪感があったが、その日の授業と殺人ノルマは休んだ。私はその日、ロンドンで初めてベッドで眠った。布団ですら懐かしく、日本での生活を思い出してむせび泣きながら眠りについた。
朝になると、すぐにリワードがあるとジャックが保健室に知らせに来た。私は昨日の殺人スコアが最下位だったのだと知らされ、トップのセレンに殺されることが決定した。同僚生は初めて同僚生が殺されることもあって、ざわついていた。セレンはサバイバルナイフを構え、闘技場に来るように私に促した。
闘技場には私とセレンだけでなく、祖父や寮の人間が集まった。私は無抵抗のまま殺されるのだと思っていたので、何も考えることはなかった。私はもう死んでもよかった。祖父のいうとおりにする機械として存在している意味などなかった。セレンはつまらなそうに私の首筋にナイフをあてた。
セレンは私に顔を上げろと言った。私は汗を流しながら彼女の顔を見た。
「私があなたを保健室に連れて行ってあげたの」
さらっと発せられた言葉にドルベルがびくっと震え、小さく声を上げた。
「いつも殺人スコアがトップだったあなたが、ここの人間さえまともに殺せないだなんて、しかも怒られたくらいでしょげるなんて。あほらしいったらありゃしないわ。あなたが消えればドルベルもジャックも、あたしだっていらいらしなくて済むのよ。あたし言ったよね?逃げればいいのにって。あれ、一年間一緒に過ごした日々が楽しかったし死んでほしくなかったから言ったんだよ。ねぇ、何か最後に言いたいことは?」
セレンは私の言葉を待っていたが、同時に私を殺そうともしていた。私はここにいる人に言い残すことはなかった。この時は、今まで私がしてきたことがものすごい悪事だったと、親と姉に言い残したかった。
私が何も言わないのを見て、セレンは泣き崩れた。ナイフを地面にたたきつけ、両手で涙をぬぐい始めた。
「殺したくないよ。糸の言うとおりだった」
セレンは私の髪の触角を持ち上げて耳元で初めて名前を呼んだ。ささやいたために周りの人間には聞こえなかったようだった。私と彼女は同じ年齢だったが、このときは彼女のほうが大人っぽく見えた。近かった顔をすぐに放し、セレンは祖父に提案をした。
「先生、明日殺してもいいですか?」
祖父は構わないと言った。その代わり、私もセレンも殺人ノルマはきっちりこなすように言い渡した。それきり言ったところで祖父は闘技場を去った。私は安心していいのかわからなかったが、セレンは私のことを救ってくれたようだった。ジャックとドルベルがこちらに駆け寄ってきた。
「どうするつもり?」
ドルベルが細い声でセレンに尋ねた。
「先生を殺すのよ」
「本当?」
「俺の意見だけど、別にいいんじゃないかな。もう必要ないし」
リワードの後、彼らは私を引っ張ってジャックの部屋で作戦会議をすることになった。今日の殺人スコアはこなさなければいけなかったが、三人が頭部を隠れて部屋に残っていた私に分けてくれたので、私は自我を失うことはなかった。セレンが二人に私のことを説明してくれたおかげで、快諾してくれたそうだ。ちなみに今日のリワードでもトップと最下位が私たち以外でいたのだが、ジャックが、
「このルールだとゲーム性が足りないんじゃないですか?つまり、ポンポン殺していくと人数がすぐに減って一週間ちょっとで全員死亡ですよ。そこで、僕はトップポイントと最下位ポイントの制度を作り、月ごとに『グランドリワード』を行ってどっちかのポイントを一番貯めたもの同士で殺しあう制度を提案したいと思いますね」
とぺらぺらと言葉で祖父をうならせて納得させた。そのおかげで私もセレンに殺されなくてよくなった。祖父は首をかしげて腑に落ちないところがあったようだが、踵を返して解剖室に戻っていった。
ジャックの部屋は聞いていた通り、自分のサインが壁に掘られ、川が引かれていた。静かに彼らが話し合うのを聞いていた。父の親である祖父が死んでしまうことはもちろん悲しかった。だからといって一昨日のように雷を落とされるのもこりごりだった。話はまとまっていったようだったが、私は言われるままに従った。
真夜中、祖父が眠っている間に私たちは行動を開始した。私はドルベルが描きとってきた祖父の部屋の構造を覚えながら、部屋の天井裏の指定の位置にたどりついた。ドルベルがくすねてきた鍵でドアを開け、中に入った二人が素早く眠っている祖父の手足を押さえつけ、祖父の首を切り裂いた。祖父は暴れることはなく、フードに包まれた首を静かに落とした。私はその様子を確認し、元来た道を戻って三人に合流した。
私は切り離された頭部を改めて触って確認し、祖父の死を確認した。切り離したのはセレンで、やりがいがなかったと愚痴をこぼしていた。
祖父の部屋には生物学の本がずらりと並んだ本棚で敷き詰められており、閉塞感があった。私たちに与えるためのキャンデイや里芋、ライ麦パンなどが、段ボールに敷き詰められていた。段ボールの側面にメモ用紙がセロハンテープで止めてあり、私たちの好きなものがリストアップされていた。祖父の頭上には日本刀が掛けられていた。私は祖父が日本刀を持っていることは知らなかった。
私たちは本が整頓された書き物机の中から書類が挟まれたバインダーを手に入れた。それは殺人の依頼書であった。私たちには知らされていなかった依頼主の名前も正確に記されており、依頼主の規模も性別も様々であった。私の最初のターゲットであった男性は祖父の弟で、祖父の直接の依頼であったことが分かった。
私がさらに放送アナウンス系統を調べようとすると、死んだはずの祖父が部屋の奥に立っていた。分厚い本棚の壁の奥の部屋から出てきたようだった。
「何をしている」
セレンが首を落としたのは、祖父によって縫合された祖父の弟の首であった。私は祖父に首を提出していなかったが、混乱に乗じて回収していたようだった。あまりにも精密に縫合されていたため、セレンにも気づけなかった。祖父は私たちを横一列に整列させ、一人一人の行動を述べさせた。私たちの目的が自分の殺害であると知った祖父は、私を見てこう言った。
「お前は同級生を一人も殺せないとのたまうくせに、血縁者の俺を殺そうと思えるようになったのだな。…いや、お前は俺の弟をすでに手にかけていたな。見たのだろうあの書類を」
私が真横を盗み見ると、三人の顔は青ざめていた。
「お前たちがここまで反抗的になったのも、すべてお前のせいだな。失望したよ。やはりあのまま監禁しておけばよかった」
私たちは黙って下を向いていた。誰も言葉を返すことはできなかった。祖父は私たちが結託して絆を深めていたことをひどく攻めた。
「俺がここで見ているから、セレンを殺せ。できなかったら俺がお前を殺す。それでチャラにしてやる」
「先生私は抵抗します」
セレンは勢いよくかみついた。ドルベルとジャックはびっくりした表情になった。
「構わない。さっさとやれ」
私はいきなりのことで動けなかったし、殺傷用のサバイバルナイフも持ち合わせていなかった。対するセレンは常にナイフを所持していたが、私が攻撃するのを待っているようだった。殺してくれるなといいたげな目をしていた。ドルベルは怖くなってその場から立ち去ろうとしていたが、祖父が鋭い声でとどまらせた。部屋を見まわし、私は日本刀を見つけて手に取った。そして、おぼつかない所作で鞘を抜いてセレンに向かい合った。セレンはじっと私のことを見つめていたが、私の気合が少し緩んだスキを狙って、祖父の部屋から逃げ出した。
私はここで祖父を殺そうと思った。私は迷うことなく祖父に攻撃を仕掛ける準備ができていた。強く踏み込んで祖父の首元を狙った。しかし、祖父は顔色を変えずに刃を指先で受け止めた。私はひるまず力を加えたが、日本刀はピクリとも動かなかった。フードの下から覗いた祖父の目は非常に冷たかった。私は、刀を押し返されて、しりもちをついた。日本刀は祖父の手に渡り私に向かって振りかざされた。
祖父に殺される、そう思ったとき、私は祖父の手帳の中のページが脳裏によぎった。肉食動物と草食動物が、捕食者と被捕食者という対立で対立をしている図であった。そして、祖父が私に日本刀を向けたから、私に反撃をしてきたことに気が付いた。ならば、この状況において、私が捕食者ではないかと思った。私は生き物としての本能に従わなければならなかった。
私はぬるりと立ち上がり、ドルベルが落としたナイフを拾い、祖父の体へとびかかった。祖父が長いリーチの日本刀を振り切ったので私は後方転回した。ドルベルが奇声をあげた。私は何度も立ち向かい、ついに祖父の日本刀を落とすことができた。私はすぐに祖父の胸にナイフを突き刺した。
「ぐうっ‼」
祖父は私の髪や肩を強く引っ張って引きはがそうとした。何本か髪が抜けたが、私は考えなかった。ただひたすらサバイバルナイフを祖父の体から抜き差しした。やがて祖父の体は後ろの本棚に倒れ、私は山乗りになり、次は首を集中的に狙って胴から切り離そうとした。祖父の首の筋肉は非常に固く、ナイフで何度も刺さなければ落ちそうになかった。祖父は死ぬ前まで大暴れしていた。
静かな祖父の部屋は本棚が一つ倒れ、整頓されていた机もぐちゃぐちゃになった。祖父の死体は身長が高いこともあって、狭い部屋の中を窮屈にしていた。返り血でべとべとになったナイフを着ていた服の裾できれいにして、私はドルベルに手渡した。ドルベルは表情を固めたまま、私からナイフを受け取った。ドルベルは私にか細い声で話しかけた。
「何で、笑ってるの?」
言われて私はほんのりと笑っていることに気が付いた。私はこう返した。
「相手は敬わなければいけないから」
「は?」
ドルベルは体をこわばらせて後ずさりをした。ジャックが言った。
「糸君が人を殺すスタイルってそんな感じなんだね。なんか狂人っぽくてイケてる」
私は何も考えずに祖父の部屋を出た。二人は一緒に部屋を捜索しようと言ったが、私はそんな気分にはなれなかった。体が、頭の中が殺害のことでいっぱいだった。私は返り血まみれの拳を二人に向けまいと、必死の思いで自分の部屋に戻ろうとしていた。また、二人を殺すためのサバイバルナイフを部屋から持ってこようともしていた。
私の部屋にはセレンがいた。セレンは土の床に月光の差す部屋でナラの木立を見ていた。
「…ごめんね、勝手に部屋に入ってて」
セレンはいつもの強い物腰を和らげて言った。私は壁に立てていたサバイバルナイフを力強く握った。会話をする必要などなかった。セレンが安らいだ表情で言った。
「あなたの部屋って自然がいっぱいね。落ち着く」
私はナラの木の実をつかんで安心しきったセレンの首をはねた。彼女の茶色の髪がふわりと揺れた。血で部屋が汚れないように、セレンの体と頭部をすぐに部屋の外に出して、私は部屋の扉を閉めた。セレンの触っていた葉っぱを、服の汚れていない部分で丹念に拭いた。もう外に出るつもりはなかった。
しばらくすると、ジャックが扉の向こうから声をかけてきた。
「入っていいかな?」
私はだめだと言った。ジャックは外に出てきてほしいとは言わなかった。その後、私は一年前と同じ監禁生活をすることを決断した。外に出て人を殺したかったから、他に住んでいる同僚生が眠ったころに、夜な夜な外出して出歩いている人の首をはねていた。食事は種芋から育てた里芋を、皮を剥いて生のまま食べていた。里芋が無くなった時は、キャンデイを食べるか、真夜中に食堂に行ってパンを食べていた。
そんな生活を続けていくうちに、昼間に私の部屋の前を歩いていく同僚生の足音を聞いて、扉を破り捨てたくなるほどに周りにいる人間を殺したくなっていた。私が他の人間を殺すことで、私のすべてが守られることが生きることだという考え方が、私の脳内に定着していた。しだいに、扉の向こうから私以外の人間の気配を感じるだけで、攻撃欲が掻き立てられるようになった。祖父の手帳をわき目もふらず読むこと、そして動植物と触れ合うことで、人を殺したいという欲から解放された。
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