夜光①

夜光


 デートの終わりは何だかソワソワする。今日一日の自分の振る舞いをあれこれ想像し、何が良くて何がダメだったのかを考える。そうすると、自ずと横にいる彼女が疎外されて、僕はまたひとり落ち込む。


 星がきれいだから高台へ行こうと誘ったのは、僕の方なのだから、道のりが長いときの場つなぎは、自分の役目だと思っていたのに、横にいる彼女は不満げもなく僕に

「どこまでいくんですか?」

と聞いてくる。


「ええと、とにかく横浜の高いところを目指します。ビルが目立つと星がよく見えないから」


中華街の猥雑とした雰囲気からでも、わずかに星の輝きは確認できるのだが、僕はどうしても、彼女と最後に星を見たかった。


「じゃあ、とにかくこの坂を登り切ればいいんですね」


そう笑いながら話す彼女の、カラーコンタクトで大きくなった瞳に、夜光が宿っていた。


 JR石川町駅の近くには、中華街と元町商店街という横浜屈指の観光スポットがあるので、二十時でも人の往来は激しく、店の明かりが坂を登る僕たちを後ろから照らしていた。坂の上には高級住宅街山手があり、その先は本牧ふ頭のある、これまた高級な家々が連なる地域へと繋がるので、頂上は大衆の営みがまるで感じられない、ひっそりとした静謐な雰囲気が、町を包み込んでいた。


「この建物、どこかの映画に出てきそうなお城みたいですね」


彼女がベージュ色の建物を指さして言った。


「これは学校だよ、クリスチャンの。多分その建物は校舎で、向こうに見えるのがチャペルだ」


住宅地の真ん中に女子高が建てられているので、周りには街灯が少なく、雲の隙間から覗かせた月の光が、暗闇の洋館を朧げに照らす。道路わきのイチョウの葉はサアサアと、静まり返った通りに響く。


「この道をまっすぐ行けば、大きな公園があるんだ」


暗がりの通りに沿って東に歩いていけば、JR根岸駅のちょうど上あたりにたどり着くからと僕は言って、街灯の少ない山手通りを歩いた。


 住宅地を割って作られた静かな通りを歩いていると、不思議な気持ちになってくる。もちろん、隣に彼女がいるからというのもあるのだけれど、先ほどの場所からまだそう歩いてはいないはずなのに、横浜の中心とは到底思えないほど、辺りはひっそりとしていた。時折遠くから現れる、自動車の歩行ランプが僕と彼女を照らして、その時だけ僕たちの世界に光が訪れる。街灯の僅かな明かりでは彼女の顔など見えなくて、僕は不安になりながら何度も後ろへ振り返る。黒くなった彼女の、耳元で揺れるイヤリング。銀色の光沢が薄橙に染まる。僕はそれに目が離せなくなる。彼女は驚いたふうに「なに?」と言って、僕は恥ずかしくなりまた前を向く。


 彼女と二人きりで歩いているのに、僕の身体には常に閉塞感がたぎっていた。それは緊張や充足に通ずるものではなく、僕という人間の、ある種の特性ともいえるものだったから、僕は何度もこの気持ちを隠してきた。

中華街の食べ歩きをしようと言ったのは、先週の金曜日。それから下見をし、予定を立てるのに五日も費やした。生まれて初めての彼女だったし、男側がリードするのは、現代の恋愛では常識なのだから。服装や身だしなみにも注意する。手をつなぐかもしれないから、爪はきれいに切っておく。食べ歩きは喋るのに不向きだから、座れるところがあればそこへ行く。すべて頭の中に叩き込んできたはずなのに、当日はボロボロと外側から剥がれていって、気づけば誰でもわかるような、浮薄な知識を並べるだけの男になっていた。


 僕は焦っていた。彼女は何も言わず黙って僕についてきていたけれど、きっと心の奥底で、今まで出会ってきた男性の数々を思い出し、僕を侮っているのだろう。いやいや、彼女はそんな奴ではない。うららかで純情な、まだ男を知らないコスモスなのだから。


 山手の家々は、そのひとつひとつが大きくて、それぞれが「かたち」を持っている。通常の一軒家やビルディングとは異なる、建築家の独創性が外観に表れているのだ。あるものは丸っこく、その隣の建物は三角の屋根をしている。オーストラリアのオペラハウスを彷彿させる白いドーム型もあれば、灰色の外壁に、竹矢来のような黒い格子がはめ込まれているものもある。その建物の隣には、これまたどこかの庭園に置いてあるような、アメリカンな大木が植えられていて、丘の上に微弱に流れる、鬱々としたぬるい風に吹かれて、門塀に垂れた緑葉が音を出す。


 しばらく歩いていると、自動車の出が激しい大きな四つ角に出る。信号の向こう側には、両脇に商店が並ぶアーケードが伸びていた。高級住宅街はここで終わり、ここから先の公園までの道のりは、下町の人情通りに変わるというわけだ。僕は信号を待っている隣の彼女に


「もう少しかかるから、帰りたかったら今日はここで引き返そう」


と言った。彼女の家は金沢区と横須賀市をちょうど境にした、追浜という場所だったので、公園に着いても帰りの電車に乗るころには、終電間際になってしまうのではないかと、僕は心配になったからだった。


「公園って言っても、ただ他の所より大きくて芝生が広がっているだけだから、特別何かあるわけでもないんだ」 


信号が青に変わり、彼女が足を進めた時、あぁ、言ってしまったなと僕は思った。

自分から公園に行きたいと誘っておいて、帰ってもいいと言い出すのは、いくら何でも意志薄弱すぎるのではないか。途中でそんなことを言い出すのなら、何もここまで来ることなかったではないか。黙って隣を歩く彼女の、アーケードに吊るされた寂れた蛍光灯が、じりじりと音を出していた。


「わたし、星みたいです」


半分シャッターが下ろされた、老舗の和菓子屋の前で彼女はそう言った。


「いいのか?帰れなくなるかもしれないよ」


「そうなったら、タクシーを呼びましょう。とにかく私は星が見たいんです。こんなに急な坂を登ったんですから、きっと綺麗な夜空を眺めることができると思うんです」


アーケード商店街は長かった。そのほとんどにシャッタが―下ろされ、年季の入ったものもいくつか見受けられた。花屋にパン屋に惣菜屋。クリーニング屋に時計屋にクリニック。きっと数年前までは、この辺りに住む人々の台所になっていたであろう場所が、今は数キロ先の大型スーパーに客を取られて、一帯が廃れていた。


 アーケードが終わっても、通り沿いには商店が続いていた。こちらは先ほどの老舗のものよりも、幾分か外装が新しくなっており、焼き肉屋や珈琲館、パステルカラーの美容院などが軒を連ね、十階建てのマンションの下には、あまり見かけない小さなスーパーがあった。


そこから先はまた住宅が続き、小学校を抜けて緩やかな坂を登ると、目的の公園が見えてくる。僕は少し狭くなった歩道の、ガードレール側に沿って歩く。電柱の蛍光に照っている彼女は、小学校を見ると


「この学校。どこかで見たことがあります」


と、興奮気味に言った。


「ここに来たことがあるのか?」


「いいえ。この場所は初めてだと思うんですけど、この小学校、前にどこかで見たことがあるような気がするんです」


彼女はそう言って、防球ネットの傍まで近づき、暗闇の校舎を見つめた。


「一度も来たことがないのなら、何かの見間違いじゃないのかぁ?それとも、テレビのロケに使われたとか」


僕が後ろからそう呟くが、彼女は一向にその場から離れようとせず、明かりのない校舎に目線を注がせていた。


「ううん、この場所です。このふたつ別れた白い校舎、確かにこの目で見たんです」


住宅地の中にポツンと建てられたその建物は、二棟に分かれていて、その隣に体育館とプールが見えた。


「ちょっと、場所を移動してもいいですか?」


彼女は防球ネットに顔を近づけたままそう言うと、今いる場所とは反対の、正門を指さした。


「確か、校舎の正門側に大きなイルカの壁画があるんです」


興奮気味にそう言った彼女は、通りから逸れた横道を歩きだした。


「あぁ、おい」

僕も彼女の後を追って、さらに街灯が少なくなった小道を歩いた。



「ほら、やっぱりありました」 


フェンスが並んだわき道を歩き、少し広くなった正門のところで、彼女は嬉しそうにそう言った。


「あったって……こんなもの他の小学校にだってあるだろぉ?」


「そうですか?私の通っていたところにはなかったですけど」


白い校舎の側面に、太い線でクジラが描かれていた。三階建ての校舎の一階から屋上にかけて、一頭のクジラが水面から跳ねて、空へ馳せようとしているところが瑞々しく現わされていた。街灯の少ないこの場所から眺めると、小学校ではなくどこかの劇場のようにも見えて、僕は隣の彼女に


「この壁画、有名な作家さんが描いたのかなぁ」

と言った。


「違うと思います。確か、この学校を卒業された一期生の方が作った……そんなような気がします」


「どうして、そんなことがわかるんだ?」


「いえ、わかりません。けどそんな気がするんです」


彼女はまた不思議そうに壁画を眺め、何かを探っているようだった。

そうだ、彼女はこういう性格なのだ。と僕は思った。初めてバイト先で会った時も、この紅茶はどこの産地からとれるのか、これとこれは産地が一緒だが、絶妙に葉の色が異なっているのはなぜなのかと、食い気味で質問してきて、男子高校を卒業したばかりの、まだほとんど女性と話したことのなかった僕に、締まった心のほどきを教えてくれたのだ。


僕はそんな彼女が心の底から好きだった。好奇心旺盛で無邪気な少女のように、あれこれ眺める趣向は、この年の女性では珍しかったし、時々夢中になりすぎて、本筋から逸れてしまうこともあったから、僕は子供のお守りをするように、彼女を近くで見守っていた。



 一年前の春。在学中から働いていた駅前の紅茶専門店に彼女が現れたのは、開店から二時間が経った風の強い午後のことだった。

それまで、店は僕と店長の二人で切り盛りをしていたのだけれど、その日は店長が急に親戚に呼び出されてしまったので、働き始めてから五か月目の僕が、初めて一人で店番をすることになった。


お店は元町本通りを少し逸れた、JR石川町駅に近い区画で、周りには宝石店やブティック、海外のブランド店などが軒を連ね、その店先には、多くの観光客とマダムが、サングラスを傾けながらショーウィンドウに見入っていた。


 僕は不安だった。まだ高校を卒業したばかりの青二才が、こんなところでひとり店番をしていていいのだろうか。周りは僕よりも一回りも二回りも経験のある、広い知見をもった人々が大勢いるのに……

ガラス扉の反対側に置かれたカウンターン前に立って、僕は一人そんなことを考えていた。


カランと扉に付けたベルが鳴り、三月の寒風が店に押し寄せる。

カウンターに頬杖を突きながら、物思いにふけっていた僕の目の前に、鼠色のダッフルコートが現れた。


「お店、やってます?」


「あぁ、はい営業中ですよぉ」


僕は驚いて、慌て姿勢を伸ばす。が、その拍子で腰を軽くひねってしまった。


「大丈夫ですか?」


腰を抑えながら後ろへ下がる僕に、彼女はそう言って近寄る。


「へへへっ、大丈夫ですよ。そこし捻っただけで……」


僕は彼女に顔を見せられまいと必死だった。彼女の大きくて丸い目の下の、冷たくて赤くなった鼻先が、何か童話に出てくる少女のようで愛おしかったから、僕は彼女の顔をまともに見ることができなかった。


「こうちゃ。この時期はどれがオススメですか?」


カウンターから出てきた僕に、彼女はそう言って腕を広げた。


「ええと……この時期はこちらのセイロンのディンブラがオススメで、でも初めての方ならこっちのダージリンの方が……」


「店員さんはどの葉っぱが好きなんですか?」


彼女は顔を僕に近づけてそう言った。僕の胸上しかない背を、精一杯伸ばして見つめてくるので、目のやり場に困った僕は、慌ててショーケースに顔を向けた。


「僕はこのアールグレイが好きですね。アイスティーやミルクティーにしても合いますし、フレーバーなので嗅いでみるとほのかに甘い香りがするんです」


「フレーバーって何ですか?」


「あぁ、そうですよね。フレーバーって言うのは葉っぱに花やフルーツの匂いをつけたもので……」


 僕はありったけの知見を振り絞って、彼女に紅茶についてのいろはを教えた。僕が身振り手ぶりで話しているのを、彼女は最初黙って聞いていたが、次第にこっちの紅茶は何というのか、これはどの飲み方が一番いいのかなどと、楽しそうに聞いてくるので、僕は店長から教わったことを一通り語りつくした。


「紅茶はいいですよ。今はアロマとかバスボムとか、気持ちを落ち着かせる商品が町に溢れていますけど、やっぱり時代を超えてきたものは、その良さってものがあるんです」

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巨頭 ほか なしごれん @Nashigoren66

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