◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
斎藤一という男
……だるい。
今の気持ちを言い表すならば、とにかくその一言に尽きる。
斎藤
額に張りつくクセのない短髪を払い、舌打ちを漏らしたいのをこらえながら、手の甲でぞんざいに汗を拭う。ただでさえ黒の羽織が暑苦しい中、やはり黒に近い濃灰色の着物袴を身に着けているため、余計に熱がこもっているのかもしれない。
斎藤は切れ長の目を鋭く細め、睨むように前方を見据えた。左の腰に差した大小の刀に手を触れると、柄頭の金具や正絹の柄巻きが、わずかにひんやりと心地良い。
と思ったのも束の間、手の熱を吸収して、それもすぐ生ぬるくなってしまったが。
江戸の乾いた暑さとは違う、まとわりつくような京の都の湿気が全身を覆っていた。大人三人が横に並べるかどうかという狭い路地に響く蝉達の声も、うるさすぎて、まるで体や耳に張り付いてくるかのようだ。
「暑いですねえ」
眉間にしわを寄せた斎藤の隣で、カラコロと軽快に下駄を鳴らす青年が呟いた。高くも低くもない、耳通りの良い葉擦れを思わせる声だ。そんな青年の声からは、しかし口にした言葉に反し、暑さに対する不快など微塵も感じられない。
見やれば、斎藤より拳一つ分ほど低い位置にある黒茶の瞳と視線がかち合った。二十歳を過ぎた男にしては丸みを帯びた、少年らしさの残る目がやわらかく細められている。
無駄な肉付きのない斎藤以上に細い、体付きの華奢な青年だ。腰にはやはり二本差し。灰白色の着物と紺地の袴の上には、斎藤と同じ、胸に『誠』と染め抜かれた漆黒の羽織をまとっている。
「仕事なんて、やる気なくなっちゃいますよねえ」
「……いや。そもそも沖田さんがやる気満々に仕事する様を見たことがないんだが」
斎藤は嘆息交じりに言い返した。暑さにだれた声は低く掠れていたが、青年――沖田総司には、充分に届いたようだ。
「うわっ、ひどい!」
途端に沖田はぶうたれた。不満そうに眉根を寄せ、大刀の柄頭を手のひらで打つ。
「とんだ誤解です、やる時はやりますよ、私」
言って、ぼんぼりのようにまとめ結わえた髪を揺らし、小首をかしげて斎藤を見上げた。
「だって、やる気出さないと怒る人が
「……理由が幼い」
うんざり答えると、返ってくる声音がひと際高くなる。
「おや、そう言いますか! なら言わせていただきますけど、私から見ると斎藤さんのほうが老けてるんですよ。同い年ですよ、私達。二十一の若輩者なんですよ、お互いに。だからですね、怒られるのヤだなあとか、まだそういうことを普通に思っていいお年頃だと思うんですよね!」
熱弁をふるう沖田に、斎藤は吐息とも言葉ともつかない声で「あー」と相槌を打って、
「別に悪いとは言っていないが……」
――と言うか、老けてるって。
思わず顔をしかめるが、しかし否定しきれず、反論する気も起きず、斎藤はすぐさまいつもの無表情に戻った。
何しろ、とにかく、だるい。ひたすらそのひと言に尽きる。二十歳の時に入京して一年余り。都で夏を迎えるのは二度目となるが、この季節には生涯慣れる自信が持てなかった。
「……まあ何にしても、現状やる気が出ないのにだけは同意する」
「それなら、最初っからそう言ってくださればいいのに!」
「悪い。頭が回らないんだ」
「まあ、わかりますけどね。やっぱり暑いですもんねえ」
沖田の声音も落ち着いたところで、二人は同時にゆるりと歩みを止めた。
「……うん。『二』ですね」
沖田が行く先の物陰を指差したので、斎藤は背後に視線を投げながら「三」と答えた。
一見するとひと気のない通りには、焦がすような強い日差しに、ゆらゆら陽炎が立っている。
「んー、斎藤さん、二でいいです?」
「……やる気がないんじゃなかったのか?」
斎藤が首を傾けると、沖田は悪戯っぽく口元をゆるめた。
「ええ、やる気はないんですけど……最近、剣術の稽古さぼり気味でしたから。そういう意味では、ちょうどいいかなって」
「……そうか」
なら任せる、と。
言ったが早かったか、それとも沖田が走り出したが早かったか。
次の瞬間、颯爽とひるがえった黒の羽織だけが斎藤の目の端をかすめていった。
斎藤は沖田を追わず、再び一人で前進した。静かに、腰の得物に手をかける。
「天誅ーッ!!」という叫び声が前方と後方、双方から飛び込んできたのは、ちょうどその時だった。
風を切る音がかすかに耳を突き、目前の死角――建物の陰から遠慮のない白刃が振り下ろされる。
斎藤は素早く抜き放った刀の柄頭で、一閃を弾き返した。
「うわっ?」と妙に上ずった間抜けな声が返ってくる。
「……あー」
斎藤は抜き身を片手に、一歩引いた。
見れば、物陰から飛び出して来たのは『二人』の見知らぬ浪士達だった。沖田の言葉通りの数である。どちらも薄汚れて黄ばんだ着物に、裾の擦り切れた袴を履いている。片方の男は無精ひげを生やし、つり上げた瞳には見るからに物騒な色を滲ませていた。
「ずっとこちらの後をつけていたようだが……」
一拍置いて、斎藤は無気力で抑揚のない声を上げた。
「何か用があるなら、不意打ちを狙うよりもまず口で伺えるか。面倒くさい」
「なッ、アホ言うな!」
「馬鹿にしちょるがか!」
男達が、カッと顔を赤くする。
「何が『用があるなら』じゃ、
「そうや、いっつもウチらァの邪魔ばっかしてきよる!」
「浪士組じゃない、新選組だ。京都守護職お預かりの、新選組。……お手前方の目的が何であれ、この都で刃傷沙汰を起こそうというのなら、職務柄、問答無用で取り締まらせていただくことになるが……よろしいか」
淡々と告げれば、男達は噛み付かんばかりに大口を開けて怒鳴り返してくる。
「うっさい、何を偉そうに! 幕府の飼い犬が!」
「話すことらぁ何ちゃあ
強い訛りで言い捨てて、無精ひげの男が刀を上段に振りかざした。道幅が狭いとは言え、せっかくの『多勢に無勢』を生かしもせず、一人ずつ刃向かってくるつもりらしい。
――弱いな。
斎藤は足を引き、上体を反らした。向けられた切っ先が、紙一重の鼻先を流れていく。
そのまま相手が体勢を立て直す前に逆袈裟に斬り上げると、呆気なく目の前に派手な血飛沫が散った。
「が、ァ……ッ」
断末魔と共に返り血が降ってくる。避けきれず、頬に生ぬるい感触がかかった。独特の鉄生臭いにおいが鼻腔を突く。
不快さに顔をしかめる間もなく、もう一人の男が「ヤアッ!!」と右胴を薙いできた。
軌道を見切り、斎藤は跳び退いてこれをやりすごす。刀を左手に持ち変えて、すぐさま間合いに踏み込む。ぐんと腕を突き出す。
こちらの動きに気付いた男が動きかけたが、遅かった。
「……何が邪魔だ、弱いくせに」
手の内に、ズッ――と鈍い衝撃。
「冥土から出直して来い」
低く呟いて刀を引く。男の首が、頷き返すかのようにがくりと揺れた。
けれどそれは単なる反動だったようで、男はすぐに目を剥いて倒れ伏す。
土埃が舞った。どこか遠ざかっていた蝉の声が、再びまとわりつくように騒ぎ出す。
斎藤は呆れ交じりに鼻白んだ。下駄先で男達の体をつつき、動かなくなったことをぞんざいに確認する。
「――お疲れ様です」
懐紙で血刀を拭い鞘に納めたところで、背中に声がかかった。
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