手白香姫の冒険

清瀬 六朗

第1話 明日香の思い出

 宮の窓に寄りかかって、姫は外を見ている。

 ここは、つまらない。

 この石上いそのかみ広高宮ひろたかのみやに移り住んで二年が経つが、その思いは変わらない。

 窓から外を見ても木立ちのほかには何も見えない。

 二年前まで、姫は明日香あすか八釣宮やつりのみやに住んでいた。

 そこが弘計うぉけ大王のおおきみの宮居だった。

 八釣宮には庭があり、その庭に池があった。姫は細かいことは知らないが、たぶん、池が先にあって、そのまわりに宮を造ったのだろう。

 宮居みやいのことだから、その庭に来るのは官人かんにんやその一族が多かったが、明日香の民も宮の庭に来るのを禁じられてはいなかった。梅や山桃の咲くころには明日香の人たちが家族や朋友を連れて八釣宮の庭に遊びに来ていた。

 姫の父は億計王おけのみこという。弘計大王はその億計王の弟、姫の叔父に当たる。

 億計王と弘計王うぉけのみこ播磨はりまに住んでいた。播磨で牛飼いをしていたとか、飯炊きに使われていたとかいう話はさすがにほんとうではないが、姫の父の億計王も、父の弟の弘計王も民のなかに混じって暮らしていた。播磨の川村かわむらという村のなかで少し大きな高い家が姫の育った家だった。また、まだ大王でなかったころの弘計王の住まいは小野おのというところにあった。広い庭のある大きな家ではあったけど、王の家と同じくらいの家は村にはほかにも幾処いくところかあった。

 大和やまとに来て大王になっても、弘計王はそのやり方を変えたくなかったのだろう。

 弘計大王は庭の池を囲んでよくうたげを開いていた。

 弘計大王は歌が好きだった。そこで、大きなさかずきが自分のところに回ってくるまでに歌が作れないとその酒を飲み干さなければならないという決めごとをして、池を囲んで宴を張ったこともあった。

 そうすると、大王の宮でしか飲めない旨い酒飲みたさにわざと歌を作らずに待つ官人が必ずいた。

 まだ小さかった姫は、焼いたよもぎをすりつぶして粗布あらぬのに包み、宴にまぎれ込んだ。ほかにも子連れで来ている官人はいたので、姫がちょろちょろしていても目立たなかった。そして、そういうけしからぬ官人に盃が回る前に、見つからないようにその粉を酒に混ぜ込んだ。

 旨い酒が飲めると大盃を傾け、思ってもみなかった苦さに酒を吹いてしまう官人もあった。しかし平気で飲み干す者もいた。

 官司つかさに見つかり、弘計大王に言いつけられた。怒られるものと思って震えながら大王のところに出て行くと、

「あれは、酔っ払ってもう酒の味もわからなくなっているのだ」

と大王は教えてくれた。そして、わざと怖い顔を作って

「酒というのはそういう怖い飲み物なのだぞ」

と言い、大声で笑った。

 姫にとってはいい叔父さんだった。世の人にとってもいい大王だっただろう。怒った顔など見せることのない人だった。

 たった一つのことを除いて、だけど。

 しかし、姫のいたずらは、かわりに父の億計王に怒られた。

 だいたい大人たちの宴に子どもが行くものではない。少しは弟の鷦鷯さざきを見ならいなさい。

 見倣いなさいって……。

 弟を?

 姉が?

 いつも部屋にこもって、漢直あやのあたえたちに相手をしてもらって、文字というものを読んだり書いたりしている弟を?

 見倣うことはとてもできそうにない。見倣いたいとも思わない。

 父は、どうやら、弟の弘計大王がしきりに宴を開くのが嫌いだったらしい。

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