血塗れの聖人

江蓮蒼月

プロローグ

 夜だというのに暗くない、ビルの明かりできらびやかな街に、パトカーと救急車のサイレンが響いている。騒がしい通りとは反対に薄暗い路地裏には、サイレンから逃げるようにそこに転がり込んだ青年の荒い息遣いが小さく聞こえているだけだった。


 青年は右手に刃の長いナイフを持っていた。その足元のアスファルトを音もなくナイフから滴り落ちた液体が濡らしている。左手には、手にしたナイフで刺し殺した若い女性の鞄を握っていた。


 彼はもちろん、自分が捕まれば強盗殺人罪に値することがわかっていた。もう何度目かわからない罪だ。このナイフにどれだけの血を吸わせたのだろうか。そう思うだけで気分が悪くなって目を瞑る。

 彼は人を刺すのも、物を盗むのも望んでしているわけではないのだ。生きたいという気持ちだけが彼の中の確かなもので、そのために犯罪に手を染めている。


 この青年は十八歳の、親も名もなきホームレスだ。生きる方法もろくに知らない彼は、生きるために殺すというのは当たり前だった。良いこと、悪いことではなく、生きれるか、死ぬかが考え方を分け隔てている。良いも悪いも二の次なのだ。

「……ごめんなさい、俺だって、殺したくはなかったんだ」

 ポツリと呟かれた言葉がただの言い訳であることは、青年が一番わかっていた。急所にもろに入ってしまったのだから、殺したくなかっただなんて誰も信じないだろう。


「見つけたぞ!」

 青年の耳に、その一言が届いた。それが何者かはすぐにわかった。

「警察か……」

 青年には、それが都合がいいと思えた。自分一人が生きるために何人が犠牲になっただろうか。ここにいたら、これからも人を殺して、物を盗んで生きていくのだろう。それならもう、逮捕されたほうがいいのではないかと思っていたのだ。生きたいという気持ちも、殺人を重ねるたびに曇っていっていた。十八年の時を過ごした路地裏から離れるいい機会だと思えた。

「何もしない。逮捕、してください。これ以上__人を殺したくない」

 警察官は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、星を逃す手はないと踏んだのか、青年に手錠をかけた。


 青年はパトカーに乗せられて刑務所に向かった。そこで数日を過ごした後、裁判が行われるのである。すでに嫌というほど証拠は集まっていて、彼も殺人を認めている。その上、時間が経っているために再捜査も厳しい状態だ。だから、捜査はあまり時間をかけることなく終わったのだ。


 数日後。

「俺は多くの人をあやめた。自分が生きるためにたくさんの未来を奪った。どんな罰でも受ける覚悟はできています」

 裁判官の前で、青年ははっきりそう言った。裁判所にざわめきが広がる。まるで静かな水面に石を投げ入れた時の波紋のように。彼は残虐で人の心を持たない怪物だと周知されているのだから、当然といえば当然だ。

「静粛に」

 裁判長の声で、再び静寂が戻る。

「いかなる理由があろうと、確認可能だったものだけで六十人は殺害されている。被告人は満十八歳以上であり、極刑も可能だ。__よって判決は、極刑とする。命を持って、命を償うように」

 青年は極刑を宣告されても落ち着いていた。その判決がわかっていたかのように、結果を当然のように受け止めていた。


 死刑当日。

「今日で人生が終わるわけだが__。どうだ、反省はしているのか?」

「当然だ」

 そう答えてロープを手にした青年の動きが止まった。

「最後に一つ、神に願っても構わないか?」

「ああ」

 死刑見届人の許可を得て、青年はその場に跪いた。

「来世というものがあるのなら、今度は人を救えますように」

 立ち上がった青年の頬に涙が伝った。彼のその顔を唯一見た死刑見届人は思わずヒュッと息を呑んだ。残虐だという噂とは正反対の態度。静かに泣く様子は、間違いなく一人の人間だった。

 青年はロープに首を通す。死刑見届人が無線で連絡を入れると、待機していた死刑執行人がボタンを押した。く、と呻き声を上げた青年は、それっきり何も言わなかった。


 青年がゆるゆると瞼を開けると、辺りは真っ白だった。天井も床も壁もないその世界に、辺りと同化するほどに白い羽を背から生やした人物がふわりと降り立った。

「誰だ」

 青年の問いに答えず、彼はニコリと微笑んだ。

「新たなる生を望む者に会えて嬉しいよ。生を与えるのがボクの仕事だからね」

 何をわけのわからないことを、と思って青年の思考が固まった。

 なんで、意識があるんだ? 絞首で死んだはずなのに……。その事実に気がついたのだ。

「キミは死んでるよ。ここは天界。死者を導く場所なんだ」

「導くも何も、俺は地獄に落ちることが決まっているだろう? 天使おまえがいるんだ、閻魔だっているはずだ」


 俺が何人の人間を殺したと思っているんだ。ほとんど毎日殺傷事件を起こしていたんだから地獄へ行って当然だろう。そう思っていた青年が捨てられた絵本に載っていた知識を並べ立てると、天使は意地の悪い笑いを見せた。

「キミには異世界に行ってもらおうと思ってる。なんの異能力もないとこじゃ、同じ運命を辿りそうだからね。実際、覚えてないと思うけど、キミは一度生き返ってこれだもんね」

 さっきから心を読んでるのか? というか、え……? それって、前世も殺人犯だったってことか? 青年はその情報量の多さに混乱状態に陥りつつあった。

「心を読む? 当たり前でしょ。役職柄、心の奥底の疑問まで解決しなきゃでね。殺人犯だったのは前前世からってとこかな。今回は記憶を残して転生しよっか」

「な、そんな勝手に……! いっそ俺を地獄に送れよ! そうすりゃ世界が平和に収まるはずだろう!?」

 そして正しい能力の使い方をしろよ。青年は最もなツッコミを心のなかで入れつつ、同時に口でも正論を叫ぶ。

「前世の才能と願いを融合させた異能『殺戮守護者マタルガーディアン』を授けよう。両刃もろはの剣だけど、その分強力だよ」

 青年の言葉を完全に無視して、天使はそう言った。

 ……耳はあるのだろうか、こいつ。青年がそう思ったのも無理もないことだ。

「失礼だなー。あるよ、耳くらい。まあ、都合の悪いことは聞こえないけど」

 どういう構造だ、腹立つな。言い訳下手くそなのか? 反応を返してこないあたりに若干の苛立ちを感じながら青年は天使を睨みつける。

「場所は〜、山奥にある村でいっか。そういうわけで、いってらっしゃ~い!」

 ふざけんな、どういうわけだと言いたいことが色々あって口を開くが、それを言葉にする前に青年の身体は白い光の渦に巻き込まれた。

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