影を喰む
猫本夜永
第1話
世界はつまらない。
母が居なくなって何年経っただろうか。
私はもう小学生になり、四年生になった。
そんな私には楽しいことがない。
話を聞いてくれる人はいない。褒めてくれる人もいない。
本当につまらない。
──そう思っていた。
──今日まではそう思っていた。
空がどんよりと曇った学校の帰り道。
ひょいと頭を下げて古びた小屋の床下を覗き込む。
「こんにちは」
「……」
家の近くにある誰も居ない小屋。そこの床下に真っ黒な猫がいた。既に体は大きく成体であることは明らかである。
雪に着いた足跡を見てここにいることが分かった。
この猫は前に二、三回道端で見かけたことがあった。何かを咥えていたから、鳥か鼠でも捕ったのだろうと思っている。
猫は床下で目をまんまるにしてこちらの様子を窺っていた。
「これあげる」
ランドセルから、なけなしの貯金を崩して買ったキャットフードを取り出し、そこら辺に転がっていた茶碗に移して差し出す。
猫は出てこない。人間が近くにいると出てこないのだろうか。
「また来るね」
そう言って私は家の方へと駆け出した。
次の日。
「来たよ」
猫は居た。相変わらず床下にいる。目を開いてこちらを窺いている。
「今日も持ってきたからあげるね」
空の茶碗にキャットフードを注ぐ。多分、私が帰った後に出てきて食べたんだろう。美味しかっただろうか。そうだといいな。
「それじゃあ帰るね」
私はまた家の方へと駆け出した。
そのまま途中で少し振り返ると、床下からにょきりと猫の首が外へ生えていた。
猫は見ていた。
こちらをじっと見ていた。
季節が巡る。また同じく雪が降り積もる。
学校の帰りに猫に餌をやるのが日課になっていた。
気づけば約一年も続けている。
「そういえば今日もこんな日だったね」
雪が降っておらず、ただそれが積もった後に足跡がついていて、空はどんよりと曇っている。
「美味しい?」
「にゃあ」
ただ違うのは、猫が床下から外へ出てきてくれているところ。
思ったよりも大きかった。
私の膝上を埋めつくすようにしながら猫が座る。
「餌をあげたから大きくなったの?」
「にゃあ」
返事をしているようなしていないような。顎を撫でると嬉しそうに尻尾を空へ向ける。
「ねえ、猫は楽しい?」
ゴロゴロと喉を鳴らす猫に尋ねる。そんなことを聞いてどうするのかというのは私でも分かっているが、どうしても尋ねずにはいられなかった。
「私、もう嫌だな……楽しくないから。人間の子供なんてやめたいな。猫がお母さんだったらよかったのに」
猫はいつの間にか喉を鳴らすのをやめて、その瞳を黄金色に輝かせて私の顔を仰いだ。
「嫌いな人全員いなくなっちゃえばいいのにね。そうすればまた楽しくなるの……に……」
一瞬。
ほんの一瞬、猫が気味の悪いぐちゃりとした笑顔を浮かべたように見えた。
だが、瞬きした後には前と同じように普通の猫の顔がそこにはあった。
気の所為だろう。暗いことを口にしたから、猫までそういう風に見えてしまったのかもしれない。
「……じゃ、じゃあ今日はもう帰るね」
なんだか冬の冷気とはまた違う寒さを感じる。
猫はすんなり膝上から退いてくれた。
「ま、また……来るから」
私は一度も振り返ることなく走って家に帰った。
もし振り返ったらそこには、あの気味の悪い笑顔を浮かべた猫がじっとこちらを見ている気がしたから。
翌日、恐る恐るあの小屋へ行くと軒下で猫が待っていた。とはいえ、普通の猫の顔だった。
なんだかあの気味の悪い笑顔が頭の隅に貼り付いて嫌な感じだが、私がただ自分が思っているより臆病で過敏なだけだろう。
第一、猫はあんな風に笑わない。だからきっと見間違いなんだ。
その日も猫は膝上に乗ってきた。
そしてまた顔をあげて私をじっと見てきた。
そうしているとなんだか、安心して。
つい、心に降り積もってぐちゃぐちゃになった感情を吐露したくなった。
「私が嫌いな人全員苦しんで死んじゃえばいいのにね」
いなくなってほしい。
けれど、受けてきた苦痛が目を開けてこちらをじっと見つめている。
「助けてくれるなら、猫に助けてほしいな。そうしたらきっともっと猫とも楽しく遊べるよ」
自然と涙がこぼれ、口の端が吊り上がるのを感じた。
そして呪詛を吐くように、ただひたすらに名前を言い続けた。
嫌いな人間の名前を全部。
繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し──
あの後のことはよく覚えていない。
気づいたら家の中、自分の部屋に居た。
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