第30話 浄化魔法の残滓に誘われ

「よいしょ、っと」


 黄金のドラゴンは後ろ足だけで起立し、前足を二階のバルコニーに引っかけてきた。

 屋敷が破壊される。向こうに悪意がなくても、その重量だけで壁が損傷する――。

 と思いきや、ドラゴンの全身が光に包まれ、見る見る小さくなっていく。


 その光が晴れると、バルコニーに女性が立っていた。

 二十代前半くらいだろうか。クラリッサとは系統の違う、穏やかな印象の美人だ。

 ゆるやかなウェーブを描く長い髪は、さっきまでいたドラゴンと同じ黄金色。


「ドラゴンが……人間に変身した……?」


 クラリッサは信じられないという様子で呟く。

 アオイも驚いているが、しかしドラゴンの巨体が消えたおかげで、少しばかり気持ちに余裕ができた。いくら敵意がなかろうと、あんなのが目の前にいたら威圧されている気分になる。

 それにドラゴンが人間になるというのは、ゲームやアニメで馴染みある設定だ。

 この世界で生まれ育ったクラリッサよりも、フィクションで予習済みのアオイのほうが、ある部分ではファンタジーに慣れているのかもしれない。


「うふふ。驚かせちゃったかしら? 高位のドラゴンは人間になる変身魔法を使えるのよ。自己紹介が遅れちゃったわね。私はエメリーヌ。よろしくね~~」


 エメリーヌを名乗る彼女は、頬に手を当てて気さくに笑う。

 あらあらうふふ系の人だ、とアオイは感動した。

 日本では、こんな如何にも「お母さんですよ~~」という性格の人間と出会うことはなかった。しかし異世界には実在したのだ。


「ドラゴンが、こんな田舎の町になんの用があるっていうの……? まさか庭の果物がお目当てってわけじゃないでしょうね……?」


 クラリッサは抜剣こそしていないが、警戒心を隠そうとしない。

 すっかり和んでいるアオイとは対照的だ。


「さすがに違うわよぉ。フルーツはたまたま、美味しそうだったから食べちゃったの。ごめんなさ~~い」


「それはいいから、来た理由! 敵意はないみたいだけど……」


「ええっとね、私、光属性のドラゴンなのよ。それでね、空を散歩してたら、この家からもの凄い光の魔力を感じたの。あなたたち、ここで光属性の魔法を使わなかったかしら? すごーく心地いいのよぉ」


「光魔法……確かに先日、この屋敷のゾンビを浄化しましたけど」


 アオイは答える。


「ゾンビを浄化! ええ、それだわ。浄化魔法の残滓を感じるもの。とっても空気が澄んでる……すーはーすーはー」


 エメリーヌは大きく深呼吸をする。

 どうやら光属性のドラゴンにとって、光魔法は心地がいいらしい。


「まさかゾンビを浄化する魔法に釣られて、ドラゴンがやってくるとは思いませんでした」


「私もこんなところで光の魔力を感じるとは思わなかったわぁ。浄化魔法を使ったのは……あなたね? 残滓を直接吸収してもいいかしら?」


「残滓ってことは、新たになにかする必要はないんですよね? ボクとクラリッサさんに危害がないなら構いませんよ」


「ありがと~~」


 そう言ってエメリーヌはアオイを抱きしめてきた。

 クラリッサのより更に大きい胸が、顔面を覆い尽くしてくる。

 柔らかくて気持ちいい。が、息ができない。


「く、苦しい……」


「あら、ごめんなさい。じゃあ、こうしたらどうかしら?」


 エメリーヌはアオイをくるんと回し、後頭部が胸に当たるようにする。


「苦しくなーい?」


「これなら大丈夫です」


「よかったぁ。それじゃ、いただきまーす」


 特になにか奪われているという感覚はない。

 しかしアオイとエメリーヌの周りに、光の粒子が浮かび上がった。キラキラしたそれらはエメリーヌの体に吸い込まれていく。

 残滓という言葉通り、浄化魔法で使った魔力のわずかな残り香を吸っているのだろう。


「ああ、気持ちいい……」


「ボクも気持ちいいです……」


 アオイはこの世界に来てから自覚したが、抱きしめられるのが好きだった。

 女性の柔らかい体に包まれると、かつて母親が優しかった頃を思い出す。

 クラリッサも胸が大きいほうだと思うが、エメリーヌはその比ではなかった。当然、それだけ柔らかく、包容力がある。

 このまま眠ってしまいたいほどリラックスできた。

 ところが、その落ち着きを邪魔する雑音が轟く。


「アオイくんのえっち! おっぱいに包まれて気持ちいいとかえっち! 私のアオイくんにえっちなこと教えないで!」


 クラリッサがなにやら必死な様子で叫んでいる。


「なにがどう、えっちなんですか?」


「おっぱいはえっちでしょ! アオイくんにはまだ早いです。没収!」


「いや、クラリッサさんにもついてるじゃないですか。それでボクのこと抱っこしてくれたじゃないですか」


「私はいいの! よこしまな気持ちがないから!」


「ボクだってないし、エメリーヌさんにもないでしょ?」


「ないわよ~~」


「むしろ、えっちとか叫んでるクラリッサさんが一番よこしまなのでは? クラリッサさんこそが一番えっちなのでは?」


 リラックスタイムを邪魔されたアオイは、とげとげしい口調になってしまった。


「わ、私はえっちじゃないもん! ただアオイくんを守りたいだけなのに……酷いよぅ!」


 クラリッサは涙目になった。

 少し厳しく言い過ぎたとアオイは反省する。


「ごめんなさい。けど、エメリーヌさんの胸は本当に安全ですよ。最高にお母さんって感じです。クラリッサさんも包まれてみれば分かりますよ。エメリーヌさん、次はクラリッサさんを抱きしめてあげてください」


「あらあら。お母さんだなんて言われると照れるわぁ。いいわよ、あなたもムギュってしてあげる。ほら、おいで」


 エメリーヌは両腕を広げ、女神のような微笑みを浮かべる。


「むぅ……女の私が、おっぱいなんかに屈するわけが……」


 などと言いながら、クラリッサはふらふらとエメリーヌの体に近づいていく。そして胸と両腕に包まれた瞬間、ふにゃふにゃと表情をとろけさせた。


「あ……ああ……これはしゅごい……脳が溶けていく……お、お母さんだぁ……」


「よしよし。お母さんですよ~~」


 エメリーヌは優しくクラリッサの頭を撫で、すっかりその気だ。

 それから十数分後。

 すっかり脱力しきったクラリッサは、力なくバルコニーに座り込む。「おっぱいに負けた……でも気持ちいいから悔しくない……」と幸せそうに呟く。


「喜んでもらえて、私も嬉しいわ。ねえ、私、ここに住んでもいいかしら?」


「この屋敷に?」


「ええ。だって光魔法の使い手がいるし。美味しいフルーツがなってるし。駄目かしら? 人間の姿なら邪魔にならないと思うけど。料理、洗濯、掃除ができるわよ。結構長生きしてるから、たわむれに覚えてみたの。あと、いつでも二人をムギュって抱きしめてあげる」


 魅力的な話だ。

 この広い屋敷に二人だけというのはもったいないと思っていた。家事ができるなら心強い。そして、いつでもムギュッというのに心引かれる。


「ボクは大歓迎です」


「アオイくんを一番上手にムギュってできるのは私なんだからね……! けど……エメリーヌさんがこの家にいてもいいと思う」


「二人ともありがとう! えっと、アオイくんにクラリッサちゃんね。これからよろしくね。家事は任せて!」


 そう言ってエメリーヌは軽やかに身を翻した。

 すると着ていた衣服が、ロングスカートのメイド服に早変わりしてしまう。


「おお、それも変身魔法ですか。凄いです。けどエメリーヌさんを家政婦扱いするつもりはありませんよ」


「うふふ。分かってるわ。メイド服は私の趣味。可愛いでしょ」


「はい。可愛いです」


「うぅ……アオイくんが私以外の人を褒めてる……なんか嫉妬……けど確かに可愛いし美人だ……しかし! 姿形が立派でも、実際に家事ができるとは限らない! エメリーヌさんの実力を見せてもらおうじゃないの!」


 と、クラリッサはなぜか上から目線で審査しようとする。

 ずっと病院暮らしだったアオイと家事能力が大差ないくせに。

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