8、女神の道

 ディケンズは、アーシアがマードックとともに船に戻ることを許してくれた。エドワードを訪ねて宿屋にきたディケンズは、なんと声をかけたものかと考えるそぶりを見せたあとで、無口に尋ねた。


 「何も言わなかったのか、お嬢さんは」

 「何も」


 ディケンズはそうか、と呟いた。彼がすぐに煙草に火を点けたのは、それ以上余計なことを言うまいとしてのことだろう。


 事件に進展はないようだった――少なくとも、ディケンズは捜査に関することをエドワードには一切漏らさなかった。彼が明かしたのは、ポート・オブ・メイカーの役所がエドワードの両親はコーディ夫妻で間違いないと言ってきたということだけだった。どんな証拠が集まり、どんな動きがあったのだか、エドワードにはまったく分からなかったが、不利にも有利にもなっていないのだろう。ディケンズは確実に無実だと分かっている相手をいつまでも留めておくような刑事ではなさそうだったし、同時に、確実に有罪だと判断された人間に、たとえそれが十五歳の少年だったからといって、罰を与えることをためらうようには見えなかった。


 エドワードはこのところ、窓からヴィクトリアの美しい姿を眺めて過ごすのが日課になっていた。ルーミアの中を出歩くのは特に制限されていなかったので(どうせどこかに監視の目があったのに違いない)、最初はティリパット氏の本を、だんだんと手近にあった別の作家の本を、メイガスから一冊ずつ借りてきては、窓辺に座って読みふけった。司書のエルダーさんはいつでもエドワードを歓迎し、彼が好きそうな本をどんどん紹介してくれた。


 エドワードは物語から離れていた時間を埋め合わせるようにして様々な主人公に親しんだ。そして、マリ姫の置かれていた状況と比べたら、今の自分の立場などずいぶんましだ、と考えたりした――ドラゴンたちの城に単身乗り込んだ『マリ姫とドラゴンラース』の主人公マリ姫は、一度は監獄に捕らえられてしまうのだが、その監獄ときたら、檻のすぐ外を凶暴で臭い息の小ドラゴンがうろついているのだ。


 もし手元に愛用の道具が揃っていれば、と考えることもあった。美しい仕事や豊かな人生を手に入れるために、ドルトン氏があれほど詩や物語を読むようにと言った理由が、今のエドワードになら分かった。思い出したという方が正確かもしれない。


 今なら、やはりドルトン親方の弟子だ、と言われるようなものが、いくらでも考えつくに違いなかった――月明かりに青く沈黙する妖精の森や、魔法使いたちが暮らす秘境の町や、精霊が支配する海の光景がエドワードの心によみがえり、思いもかけないようなひらめきがそこからやってくるのだった。開くたびに違う曲がかかるオルゴールがあったら? カード占いをしてくれる魔法使いの自動人形オートマタは? 外箱も中の機械も、すべてをガラスで作った時計があったらどうだろう?


 ヴィクトリアは毎日正しい時刻をルーミアの住人たちに報せ続けた。一日三度、十時と正午、三時に作動する人形たちのからくりも、一日も休むことはなかった。あの生真面目な管理人が、きちんと錘を巻き上げているに違いなかった。住人の誰も知らないことだが、今あの時計台の機構を動かしているのは、永遠に変質しない、比類ない金の歯車なのだ。エドワードは歯車の噛み合う音や動きを思い描いたり、ヴィクトリア全体のからくりの連絡を考えてみたりした。そうしていると、たとえ今後の人生すべてがかかっているような危機的状況にひとりだとしても、ルーミアに長く滞在できることになったのは幸福なことだったとさえ思えた。


 ドルトン氏が亡くなったとき――もしかしたら両親を亡くしたときからエドワードに重なり続けてきた悲しみの影は、いまや物静かな性格に組み込まれて慢性的なものとなっていたが、最初から悲観的だったせいで、エドワードはかえって気楽に自分の心とつきあうことができた。それに、今のエドワードには物語があった――あまり前向きな心情を持つことなく生きてきたエドワードだったが、物語に夢中になっている間は、自分の状況の悲惨さをいっとき忘れていられた。


 今なら胸を張って、ティリパット氏の求める〈心の正しいもの〉だと名乗れるのにと思えば、愉快な気分にさえなった。とはいえ、空想の中に遊び、生き生きとした心の働きを味わっているときに限ってふいに、氷水のような現実に引き戻されることもあった――たとえば、ディケンズが訪ねてくる間の悪さときたら天下一品だった。


 希望がひとつずつ潰えていくような日々の中で、もはや多くを望むまいとエドワードは思った。さらに、そうして心に浮かんだ数少ない望みのいくつかは、すでに叶いそうもないというありさまだった――アーシアをソウルースに戻らせたのは、エドワード自身だったからだ。


 望み薄ではあるが、まだ叶う可能性のある、強い願いをエドワードは日々心に浮かべて過ごした。できることなら、ヴィクトリアの素晴らしい機構をもう一度だけでもこの目で見たい――あれは、親方と父の、ふたり分の命が通うかけがえのない遺産だ。


 不幸続きの少年が神も不憫だったのか、この望みは意外な人物によって叶えられることになった。ルーミアに留まって一週間と少しが経とうとしていたある晩、宿のエドワードをひそかに訪ねてきた男がいたのだ。


 「一緒に来てもらいたい」


 部屋の戸を閉めてエドワードと目が合うなり、エルギンは言った。


 「言うとおりにしてくれるなら、君をここから永久に出してくれるとクレイハーさんが言っていたよ」



 町の中を足早に歩く間も、ヴィクトリアの森を進む間も、クレイハーは始終無言だったが、〈A・T〉の刻まれた木のうろの前まで来て、ようやく口を利いた。


 「僕の聞いた話じゃ、ヴィクトリアの隠し部屋はふたつあるんだ。ひとつは、前に君たちが空けた『歯車の部屋』。もうひとつは、『女神の部屋』だ。君には、そのもう一方の部屋を見つけてもらいたい。そら、本はここにある」


 クレイハーはエドワードに『セオとブラン・ダムのおはなし』を押しつけた。


 「あのヘボ刑事、人の本を出し惜しみやがって……」


 アーシアの言うとおりだったんだ、とエドワードは思った。女神の導く道は、確かにあの歯車の部屋とは別にあったのだ。アーシアは、何て言ってたっけ?


 エドワードが返事をしないので、エルギンが慌てたようにエドワードの肩をつついた。クレイハーは物騒な目つきでエドワードを睨んだ。無視されるのに慣れていないのだろう。


 「聞いてるのか? ぼんやりしない方がいい――僕が君の立場なら、そうするね」

 「その『女神の部屋』には、何があるんですか? 」

 「君に知る必要があるとは思えないが? 黙って、仕掛けを動かせばいいんだ」


 クレイハーは小馬鹿にしたように言い、エドワードとエルギンを先に立って歩かせながら、ほとんどひとり言のような調子で言った。


 「僕は歯車の部屋になんか大して期待をかけていなかったんだ。だが、実際にはあれだけのものが隠されていただろう……女神の部屋というからには、もっとすごいものがあるに違いない。なにしろ、叔父さんの財産ときたら、三代働かなくたって遊んで暮らせるくらいだったんだから……僕の母親が、そう言っていたんだ」


 クレイハーはうっとりしながら言った。クレイハーは、『セオとブラン・ダムのおはなし』をまだ読んでいないようだ……エドワードはクレイハーの期待に疑問を感じたが、また凄まれるだけだと思ったので何も言わなかった。

木のうろから続く隠し通路は、封鎖されていなかった。


 「この時計台のからくりは、どうなっているんだ? 」


 角灯を揺らしながら、クレイハーが聞いた。エドワードは首を振った。


 「全部は分かりません。あまりに大きくて……みんなでどのくらいあるのかも、見当がつかないし」


 ドルトン氏がポート・オブ・メイカーの店に設計図を大切に保管している可能性はかなり高かったが、エドワードは黙っていた。クレイハーは舌打ちした。


 「なら、この間動かした仕掛けの中になにかヒントがないか探すんだ。どこかに必ず入り口が見つかるはずだ」


 そのあとの道のりは、エドワードにとっては苦痛でしかなかった。クレイハーは時間が経つごとに機嫌悪く黙り込み、ヴィクトリアの何を見ようと退屈そうに灯かりを持っているだけだったし、エドワードがヒントを探す以上の時間をかけて機構をよく観察しようものなら、嫌な目つきと舌打ちとで彼を急かした。


 エドワードはティリパット氏を気の毒に思わずにはいられなかった――叔父と甥という、比較的近しい身内同士の関係でありながら、一体この違いは? クレイハーには、何かに興味を抱くような好奇心や感受性の、かけらもないのだろうか? 実の姉の子がこのクレイハーだったティリパット氏を思うと、跡継ぎを相次いで亡くしたあとに遺産の相続権を一族の外に出したくなる気持ちも分かろうというものだ。エルギンはできる限り姿勢を低くして、目立たないように、クレイハーの機嫌を損ねないように、じっと黙ってエドワードの後ろに従ってきた。


 「意地の悪いじじいめ」


 一度動かした仕掛けを戻さなかったので、宝石の鎖は巻き上がったままになっていたし、人形の台も開いたままになっていた。歯車でできた階段を何の感動もなく下りていきながら、クレイハーはぶつぶつ悪態をついた。名家の育ちとは思えない口の悪さだった。


 「ろくに使いもしないくせに、溜めこみやがって。大方もうろくしちまって、自分の持ってるものの価値も分からなくなっちまったんだろうさ」


 星座の鎖も引いたままで、〈歯車の部屋〉に続く鉄格子は上がったままになっていた。クレイハーとエルギンはそのまま通り過ぎようとしたが、エドワードはふたりを引きとめた。部屋が分かれる可能性があるのは、この鎖の仕掛けだ――十二本の星座の鎖は、〈歯車の部屋〉を開いたあともすべてその場に残っていた。


 エドワードが『セオとブラン・ダムのおはなし』を開いたので、クレイハーは角灯を掲げながら近寄ってきた。その目は期待に満ちて輝いていた。


 「何か分かったのか? 何だ? 」

 「ここの星座の鎖のことが書いてあるんです」


 エドワードは星座の詩のページを探し、頭からクレイハーに読んで聞かせた。


 「〈君よ、歌うがいい、獅子のように声高く。踊るがいい、収穫を願う清らかな乙女のように。酌夫の美酒に快く酔い、魚のように自由に泳ぎ、友を片割れのように愛するがいい。快楽の導を選び取り、誤りなく順に辿れば、君は喜びと栄光との座に招かれる。しかし、君が豊かな土壌を秘め、美しい琴線を磨いているのならば、君を真に導いてくれるのは清廉な女神の裁きをおいて他にない。喜びたまえ、アストライアの忠実なる友は、君がその手に取るまでは埃をかぶりはしないだろう〉」


 クレイハーは遮りこそしなかったが、いらいらした調子で言った。


 「その詩がなんだ? 」

 「〈歯車の部屋〉へ行くには、この詩の前半の部分が必要でした。だから、今度は後のところが必要だと思う……」

 「女神の裁き、か」


 クレイハーは目を細めて本を覗きこんだが、彼には何のことやら分からなかったのだろう。


 「ふうん。それで、どうすればいいんだ? 」

 「アストライアっていうのは、女神の名前なんです」


 エドワードはアーシアの教えてくれたことを順番に思い出しながら言った。確か、アストライアは道徳を説いて回ったと、アーシアは言っていた――そうだ、彼女はその手に、天秤を持っているのだ!


 「アストライアは、天秤を持ってるんです。だから、天秤座の鎖が―――」


 クレイハーは眉をひそめ、どうでもよさそうに顎をしゃくった。


 「なら、そのとおりにやってくれ」


 エドワードが天秤座の鎖を引くと、〈歯車の部屋〉へ続く通路が鉄格子で塞がった。クレイハーは不安そうにそちらを見たが、珍しく何も言わなかった。天秤座の鎖はとても重かった――だが、確かに何かが噛み合うガチッという感触があった。


 それはブラン・ダムでいうなら、星座の詩が刻まれている石壁だった。くぐもった歯車の音とともに、積まれた石が少しずつずれていく――壁の中の道が現れようとしている。ヴィクトリアの仕掛けの中でも、特に注意の払われたものに違いないとエドワードは思った。これほど暗い中ではずれはじめるまで壁に切れ目があることはまったく分からなかったし、滑らかに磨かれた石は擦れ合っても耳障りにがりがり削れたりはしなかった。


 やがて下り階段の、細い通路が完全に目の前に開かれた。クレイハーは興奮してエドワードを押しのけたが、中が先の見えない真っ暗闇だと知ると、エドワードに灯かりを持たせて先を歩くように命じた。


 暗い道は、かなり急な傾斜を伴っていた。段を踏み外さないようにしながら、これはどうやら時計台の一階のどこかに連れていかれるようだぞ、とエドワードは思った。しかし、どこに? ヴィクトリアの一階に、隠し部屋を置けそうな場所があっただろうか? それとも、このまま一階も突き抜けて、地下へでも続いているのか? ……


 階段を下りきったところには、木の扉があった。鍵がかかっていたが、ごく普通の扉だ。鍵穴の周りに、模様のついた縁飾りがついている……セオの鍵の模様だ。そして、エドワードはそのとき、自分が〈セオの鍵〉を持っていることを思い出した。人形の台を開けた鍵――チョッキの胸ポケットに入れたまま、すっかり忘れていたのだ――同じチョッキを着ていてよかった!


 鍵を挿しこむ。ぴったりだ! 回すと、いとも簡単に扉は開いた。部屋は小さく、ごちゃごちゃしていて――机の上に置かれたランプが目に入った。


 火が灯されていた。



 誰かいる!


 ランプの火を見たエドワードはぎくりと身を引きかけたが、焦れたクレイハーに肩を押されて、よろめきながら部屋に入ってしまった。


 幸いにも、ランプを点けた人物は席を外しているようだった。ランプのそばには使いこまれた日誌が開いたまま置いてあり、今日の日付と天気に続けて、異常なしと書かれていた。インクはまだ完全に乾いてはいなかった。


 机は窓際にあった。ふたつある窓からは、ヴィクトリアの中庭が見えている。秘密の部屋でもなんでもない、ヴィクトリアを訪ねた人なら誰でも好きに入ることにできる中庭だ。


 「ここはヴィクトリアの管理人室だ」


 エドワードに続いて通路から出てきたクレイハーが、部屋をぐるりと見回して言った。彼が気まぐれに蹴飛ばしたのは工具箱で、中から大きなクランクが飛び出た。


 「あんな大がかりなからくりを動かして、結局こんなつまらないところへ連れてこられるとはな」


 何が女神の部屋だ、と彼はしばらく毒づいたが、その小ずるい目は、ときにエドワードには思いもつかないほど目聡く何かを見つけることができるようだった。クレイハーは机に駆け寄り、一番上の引き出しを開けようとした。三段ある引き出しのうち一番上にだけ鍵穴がついていて、恐らくクレイハーの思ったとおりに、開けることはできなかった。


 「ほら」


 クレイハーは鍵穴を指差してエドワードに言った。


 「さっさとここを開けろよ。さっき使った鍵で」

 「でも……」


 エドワードは思わず逆らった。これだけ隠しごとの多い時計台の秘密を決して漏らさず、毎日遅れのないように気を使っている管理人のことを、エドワードはいまやとても尊敬していた。ドルトン氏とコーディ氏の遺産を、きちんと守ってくれている味方のように感じていたのだ。


 「管理人さんの引き出しを勝手に開けるなんて……」

 「僕はここの管理人をよく知ってる。鍵をかけてまで守らなきゃならないほどのものを持つような身分の人間じゃない――持ってるとしたら、それはあいつのものじゃないんだ」


 クレイハーは侮蔑しきった口ぶりで言った。


 「それに、僕の言うとおりにするという約束じゃないか」


 しかたなく、エドワードは鍵を引き出しの鍵穴に挿しこんだ。ここにだけは、鍵が使えなければいいと思いながら――しかし、鍵は楽々と回り、小さなかちりという音とともに、引き出しは開いた。


 待ちきれないようにクレイハーが取っ手を引いたが、歯車の部屋を開けたときのような感動は――エドワードにさえ――全然なかった。少し、がっかりすらした。引き出しの中には金も銀も宝石もなく、上等だが金製の歯車に比べたらまったくありふれた紙がひと巻き、リボンを結ばれて入れられていた――部屋の雰囲気にそぐわない異様な黒いリボンは、喪服を連想させた。


 「気味が悪いや」


 感受性どころか死者への敬意にも乏しそうなクレイハーは勢い手を突っ込むのではないかと思われたが、さしもの彼も黒々としたリボンを見て顔をしかめ、手を引いた。


 代わりに、エドワードに言った。


 「君が出してくれ……そこに、机に広げるんだ」


 ちょっとためらったが、エドワードは巻き紙を手に取った。蝶結びになったリボンの右に端にだけ、銀の糸で刺繍がしてある――セオの鍵の模様だ! エドワードは丁寧にリボンをほどいた。


 もはや見慣れたティリパット氏の筆跡が現れた――それは、次のような文章だった。


 『これまでいくつもの物語の結末に立ち会ってきたが、そろそろ〈このわたしの物語〉も最終章に差しかかってきたようだ。なるべくならば何の心配もなく、心安らかに残りの人生を楽しみたいところだが、どうもそういうわけにはいかなくなった。


 わたしはわたしの生み出した主人公たちに若くして多くの試練を与えてきたが、彼らの冒険のあとの人生は何不自由なく、平和のうちに過ごせるように取り計らってきた(読者の中には彼らの後半生について刺激的な想像を繰り広げる人もいようし、わたしはそれを否定するつもりはない。物語の余白を自分で補うのは、大いに好ましい頭の使い道だ。しかしわたしは、命からがらの冒険など一度でたくさんだと思う方の人間なのだ)。ところが、事実は小説より何とやらで、彼らの生みの親であるわたしの方が晩年近くなってから推理小説顔負けの状況に身を置くはめになってしまった。


 ジェームズとヴィクトリアが死んだ。こんな時期のことだから、食中毒でも起こしたのだろうという意見が大方だったが、わたしはそうは思わない。


 ヴィクトリア! ヴィクトリア! ヴィクトリア! なぜ若く美しい、賢い娘のおまえが、あんなに青ざめて死ななければならなかったのか? おまえの父親が赤ん坊のおまえを初めてわたしに抱かせてくれたとき、わたしやおまえの父に似て、本の好きな娘に育ってくれたおまえと話をするとき、ジェームズの次にはおまえにレイクフィールド家を任せようと決めたとき、折々を彩った無上の喜びが、こんなにもあっけなく吹き消されることになろうとは! おまえの父親、わたしの息子も、もはやこの世のものではないとは! もっとも天の国に近しいのはわたしであるはずなのに、そのわたしがおまえたちを見送ることになろうとは……。


 わたしの愛するものたちよ! わたしには、おまえたちの死の原因が分かっている(本当に食中毒だったのなら話は別だが)。だからレイクフィールドの当主でいる間の最後の仕事として、わが愛するルーミアの地に、忌々しい〈死の原因〉を隠してしまうことにした。昨夜、ポート・オブ・メイカーの職人に依頼を持ちかけたところだ。以前、わたしの本棚に愉快な細工を施してくれた職人たち――彼らは実に誠実な、優れた男たちだ。なにしろ、わたしやジェームズ、ヴィクトリアと同類なのだから。物語を愛するものに、悪人はいないとわたしは信じて疑わない。わたしの忠実なジャスティン・ゴーツがそうであるように。


 わたしが〈同類〉として認めたものたちは、誰もわたしが隠そうとしているものを受け取ってくれなかった。もし、我が一族の中にそんな人物がひとりでも残ってくれていたら良かったのだが、自分が属する一族の話だからといって、そんな淡い期待を書き残し、恥の上塗りをすることだけはみずからの手で回避してもいいだろう。


 わたしはわたしの人生の最後に、もうひとつ物語を――〈死の原因〉の在りかを記した物語を書くつもりだ。そうして、それを職人たちの手に託し、人知れずこのルーミアから運び去ってもらうつもりだ。もし後年、ふたりがみずからからくりを解いて中身を取り出すことになっても一向に構わない。ふたりが見込んだ〈同類〉、あるいは〈同類の素質あるもの〉が物語を手掛かりに謎を解いてくれたのなら、わたしにとって忌まわしい〈死の原因〉だったものは、たちまち〈困難の先に待ち受けていた宝〉として輝きを得ることになるだろう。


 〈同類〉というだけでは職人たちのように中身を取り出すことは難しいかもしれないが、その場合はまた、誠実なる我が友人たちに依頼し、受取人の手助けをしてもらう手はずになっている。勇敢なる冒険者よ。正義の女神の裁きを恐れる必要のない、清廉な心を持つものよ! 君がどちらの部屋を先に開けたかはわたしには分からないが、宝とともに、わたしの心の真実をどうか受け取ってほしい! 


 これは茶目っ気などではなく、れっきとした復讐だ。もしレイクフィールドの関係者を名乗り、物語の謎を介さずして宝の正式な継承権を主張するようなものが現れたなら、その不届きものはわたしの祝福を受けていないということを、ここにはっきり書き記しているのだから。

A・T、またの名をA・L』


 「よこせ」


 エドワードの横から紙を覗いていたクレイハーが青ざめてつかみかかったが、彼より早く全文を読み終えたエドワードは素早く身をかわした。クレイハーは身構えたままじりじりとにじり寄った。


 「エルギン! 捕まえろ! 」


 クレイハーはそれまでまったく無視に近い扱いをしていたエルギンに喚き散らした。エルギンはぎくりと反応したが、おろおろするばかりで、クレイハーの役に立つようには思えなかった。クレイハーは舌打ちした。


 「ティリパットさんは、父さんと親方に仕事を頼んだんだ――ヴィクトリアの改装を」


 慎重に後ずさりしながら、エドワードは言った。管理人は、いつ戻ってくるのだろう?


 「『セオとブラン・ダムのおはなし』は、やっぱり最初から親方が持ってたんだ! 」

 「そうさ」


 クレイハーの声は、気味が悪いくらい冷静だった。


 「いい家の生まれでもないただの職人のくせに、よその家の事情に首を突っ込むとんだ間抜けだったのさ……君の父さんも、親方もね。僕らに身元が割れたとき、すぐに大人しく本を渡してりゃ、死なずに済んだんだ」


 クレイハーは懐から小ぶりの銃を取り出し、エドワードを眺めながら両手で弄んだ。エルギンはそれを見て落ち着かなげにそわそわし、クレイハーに睨まれた。


 「せっかくだから、君には本当のことを話しておいてやろうか。僕としても、結構手間のかかった宝探しだったしね……まず、じじいがこの時計台のことを書いた本を誰に渡したのか、それを突き止めるところから話がはじまったんだから。僕の母親が、じじいの話を立ち聞きしたんだ。だから、この本が必要なことは最初から分かってた。――もうろくじじいは、仕事を頼んだ職人の名前が絶対に外に知られないようにしたかったらしいけど、無駄だったね。関係者が増えれば増えるほど、秘密の出口は多くなるものさ――時計台の改造なんて、何人が関わると思う? それに、金で動かない人間よりも、そうじゃない人間の方がよっぽど数が多いってことも、あのじいさんは忘れちまってたわけだ。……なあ、エルギン? 」


 エルギンは返事をしなかった。彼は自分に向いたクレイハーとエドワードのまなざしから目を背けるように、黙っているだけだった。


 クレイハーはつまらなそうに鼻を鳴らした。


 「こいつは、君の父さんや親方の設計図を基に、ヴィクトリアの改造を担当したルーミアの建設会社の人間だったんだ――ポート・オブ・メイカーで君を捕まえた連中の、何人かもそうさ。確かに、あのじじいが見込んだだけのことはあって、首を縦に振らない連中だっていた……だけど、そんなやつばかりじゃなかったってことさ。一枚岩の会社なんて、この世にあるもんか。前金と、ヴィクトリアで手に入ったものの分け前をやると言ったんだ。偽名も、意味なかったね。こいつらは、君の父さんや親方の顔を見てるんだから」


 エドワードは嫌な予感がした――事実が、想像より残酷だったのではないか、という確信めいた予感……だが、当然クレイハーは黙らなかった。


 「じじいがうまい具合に病気で死んだんで、僕はポート・オブ・メイカーに行った。そのとき会ったのは、君の父さんだった――そうだな、君にももしかしたら、会っていたのかもしれないな。金なら払うから、ヴィクトリアを解体して中のものを取り出してくれって頼んだんだ。でも、断られた――それに、彼は本を持ってなかった。こっちのことを知られた上に、断られたんじゃ他にどうしようもない。……五年前のことだ。ちょうどよく、天気の悪い日でね。見通しが悪い場所を選んだから、不幸な事故だったと、警察も納得したよ」


 エドワードはエルギンを見つめた――ドルトン氏とコーディ氏をクレイハーに引き渡したも同然の、惨めな裏切りものの顔を。エルギンはうつむいたまま、一度も目を上げなかった。彼にわずかでも良心があるなら、上げられるはずがなかった。


 手が震え、唇が乾く――エドワードは、両親が死んだのは事故のせいだと思っていた――ずっとそう聞かされてきたからだ。聞かせた大人たち――ドルトン氏やリジーさんも、そう信じていたのに違いない。ふたりが町を歩いているときに車が突っ込んできたのだ、どうしようもない不幸な事故だったのだ、と。


 だが、本当は……。クレイハーは、まるで手柄話をするみたいな調子で続けた。


 「次は、君の親方だ。こっちは、少し難しかった――君の父さんが死んだあと、君の親方はすぐ共同経営の事務所を畳んで、新しく店を始めた。君がいた、あの店だ。それで、見つけるのに余計な手間がかかった。でも、僕らとしても五年くらいは待つつもりだったから、ちょうどいい暇つぶしにはなったかな……一緒に働いてたふたりがあんまり短い期間に次々死んだんじゃ、不自然だからね」

 「親方は、本を渡さなかった。理由は父さんがあんたに協力しなかったのと同じだ」


 エドワードの声は、自分でも驚くくらい低く、目の前の男たちに対する憎しみに満ちていた。ここへきてこんな話をしはじめたということは、クレイハーは最初から、時計台のもうひとつの部屋を探させたあとでエドワードを殺すつもりだったのだ。


 同じように死ぬなら、少しでもこのクレイハーにとって不愉快なことを言ってやりたかった。


 「あんたがティリパットさんの遺産を受け取るのにふさわしくないことを、知ってたからだ! たとえ撃たれたって、あんたに渡すよりましだと思ったんだ! ふたりとも、ティリパットさんが思ったとおりの〈同類〉だったってことさ! 」

 「それって、命と引き換えるくらい価値のある称号なのかい? 」


 クレイハーの目が底光りした。そして、子どもが新しいおもちゃをいじるような手つきで、弾丸を確かめた。


 「別に、そんなに珍しい話じゃない……君は、〈相続の粉〉って知ってるかい? 毒にそんな名前がつくくらい、ある程度の家柄の人間同士じゃこんなことはよくあることなのさ――君やエルギンには、一生縁がないことだろうけどね。そこに書いてあるジェームズとヴィクトリアを殺したのは、僕の母親さ。ついでに、僕の兄貴もね。どうしても、僕にクレイハーの家を継がせたかったんだろうな。でも、あんまりうるさいから、最後には息子に毒を飲まされたんだ。全部、あのじじいの遺産のせいだ――身内の誰にも継がせずに、こんなところに隠すから、こんなことになったのさ。まあ、全部君が悪いことになってくれて助かったよ」

 「じきに、管理人さんが戻ってくる」


 わずかでも彼が動揺すればいいのにと思いながら、エドワードは言った。


 「そして、ここで銃を持ったあんたたちと、僕の死体を見つけるんだ」

 「それがどうした? ここの管理人が、僕の命令を聞かないとでも? それに、君が襲いかかってきたから撃ってしまったとでも言えば、なんとでもなる。なんせ、君は時計台の遺産ほしさに自分の親方を殺した少年犯罪者なんだからな」


 クレイハーが一歩間を詰めてきた。思わず後ずさりしたとき、何か硬いものに足を取られて、エドワードは尻餅をついた。工具箱から飛び出して、床に転がったままのクランクだった。大時計の時間を合わせるために、錘の鎖を巻き上げる道具だ。なんて皮肉な結末だろう――クレイハーが銃口をゆっくりとこちらに向けるのをぼんやり目で追いながら、エドワードは思った。からくり職人の見習いが、時計を動かすための道具のせいで死ぬことになるなんて! ……


 ばたんと扉の開く音――銃声が一発。複数の足音。


 自分が撃たれたのかどうか、生きているのか死んだのかも分からず、エドワードはいつの間にか閉じてしまっていた目を恐る恐る開いた。――目の前に、誰かの背中がある。黒い上着に包まれた、影のような男の肩が上下している………エルギンが、エドワードを庇っていた。


 「エディ! 」


 次に目に飛び込んできたものがあまりに突然で、活き活きとしていたので、エドワードはそれが現実だと理解できなかった。まだ、自分が完全に助け出されたのだとうまく飲みこめなかったので、幻でも現れたのかと思ったのだ――そのくらい、彼女の大きな黒い瞳には現実離れした美しさがあった。


 「……アーシア? 」


 壁際で、ディケンズがクレイハーを取り押さえている。ヴィクトリアの管理人がいつの間にかエドワードのかたわらに膝をつき、手を添えてエドワードとエルギンを助け起こしてくれた。エルギンは肩を弾丸がかすめたようで、怪我はしていたが無事だった。身の周りではそんなふうに、騒がしくいろいろなことが起きていたのだが、エドワードはアーシアの登場にすっかり気を取られていた。


 「君……君、どうしてここにいるんだい? 」


 ようやくアーシアに言った声は、自分のものとは思えなかった。変に上擦っていたし、これだけはアーシアに気づかれたくなかったが、少し震えてもいた。


 「アンメリー号へ戻ったんじゃ……? 」

 「戻ってないわ。わたしはね」


 アーシアはこともなげに言った。


 「おじさまには、船を出してもらったけど。……説得するの、大変だったんだから」

 「おれが頼み込んだんだ」


 ディケンズがクレイハーを引っ張ってやってきた。クレイハーは拗ねたようにうなだれてそっぽを向いていたが、いじけようがふくれようが手錠を免れることはできなかった。


 ディケンズは往生際の悪いクレイハーとちょっとした格闘があったために険しくなった顔で言った。


 「お嬢さんが知らせてくれたんだ――クレイハーが君を連れ出したとな。君に捜査状況を明かさなかったのは、仕方のないこととはいえ悪かった。だが、万が一もしまたこういうことに巻き込まれたら、二度とこんな無茶はするな」

 「それって冗談のつもりかしら? 」


 アーシアが横目でディケンズを睨んだ。


 「部屋を見つけたら、エディを口封じする前に自白をはじめるかもしれないって言ったくせに! こんなに危険な目に遭わせなくたって、よかったのよ! 」

 「ああ、悪かった。隙を見て突入するのは、一瞬をよく見極めなくちゃならないんでな……助けに入った側が撃たれちゃ、元も子もないだろ」


 ディケンズは頭を掻きながら、床のクランクを拾い上げた。


 「こいつにつまづいてくれて助かったよ。君が立ったままじゃ、おれたちの位置から見えたのは君の背中だけだったからな」

 「こんなことが許されると思うなよ」


 クレイハーが歯を剥いた。彼は彫刻のような静けさで一同を見守っているヴィクトリアの管理人を憎々しげな目つきで睨んだ。


 「ゴーツ! おまえはおじさんの執事だったくせに、この僕を警察に売るっていうのか! 」

 「いいえ、ロナルド坊ちゃま」


 〈忠実なジャスティン・ゴーツ〉は冷ややかに返した。


 「執事だったから、でございます」

 「あんたには最初から、殺人の容疑がかかってたんだよ。正しくは、あんたたち一族の全員に。ジェームズ・レイクフィールドとヴィクトリア・レイクフィールド……それに、あんたの母親のクレイハー夫人と、あんたの兄貴のクレイハー卿の殺害に関与した疑いがな。突入が遅れたおかげで、他にもいろいろ勝手に明るみに出たわけだが……」

 「……殺人だって? 」


 クレイハーは聞き逃さないぞと言わんばかりににやにやした――この局面でまだ自分のしでかしたことをなかったことにできると思っているのだろうかと、エドワードとアーシアは顔を見合わせた。


 「あれはみんな、食中毒だって警察が言ったんだぞ。あんたのお仲間が! ジェームズも、ヴィクトリアも、僕の母や兄も! 」

 「ああ、そうだな。それがみんなおれの指示だったって言えば、あんたも少しは目が覚めるかい? 」


 クレイハーは笑顔を消した。ディケンズは続けた。


 「さっきあんたが自分で言ったように、あんたの一族から四人も犠牲を出したのは〈相続の粉〉、要するに〈ヒ素〉だ。今どきヒ素を飲ませて身内を殺すなんざ、めったに聞かないがね」

 「でも」


 クレイハーは食い下がった。惨めなありさまだった。


 「でも、あの小説には、確かに……」

 「あんた、小説と現実の区別もつかないのか。死んだ人間が、魔法で息を吹き返すとでも思ってるのか? 」


 ディケンズの怒号が飛んだ。


 「ヒ素が正体不明の〈見えない毒〉だったのは、何百年も前の話なんだよ! 」

 「本から得たものが人を殺すための知識だったなんて、かわいそうな人ね」


 ディケンズとクレイハー、そしてエルギンを見送りながら、アーシアが呟いた。



 ディケンズとアーシアはかなり早いうちから、ひとりになったエドワードのもとにいずれクレイハーがやってくると踏んでいたらしい。どうせ子どもの言い分など取り上げられやしないとタカをくくっていたふうではあったが、罪の発覚を少しでも真剣に恐れるなら、クレイハーはエドワードを生かしておくべきではなかった。


 しかし少なくとも、ヴィクトリアのからくりを正しく理解できる唯一の人物であろうエドワードを、宿を訪ねてすぐ撃ち殺すようなことはしないだろう、というのがふたりの一致した意見で、クレイハーとエルギンがエドワードを連れ出したのを確認したあと、管理人のゴーツ氏に話を通して、三人が〈女神の部屋〉――ヴィクトリアの管理人室にやってくるまで先回りして待っていた、ということらしかった。


 それではアーシアは、エドワードが連れ出されるところをどこから見ていたのだろう? 表向きはエドワードと別れ、マードックとともにソウルースの港に戻ったと思われていたアーシアは、なんと自分の宿の部屋からディケンズと交代でエドワードやクレイハーの動向を見守っていたのだという(エドワードとアーシアが最初に取った宿は、たまたまエドワードが過ごしていた高台の宿へ行ける唯一の道に面していたのだ)。


 「それじゃあ僕、何度も君の見ている前を通ったんじゃないか。何も気づかずにさ……毎日図書館へ行っていたんだもの」


 自分だけ遅れて事実を知らされるバツの悪さに顔を赤くしながらエドワードは言った。


 「まさか、ふたりでそんな探偵みたいなことをしてたなんて思わなかったよ……」

 「警察うちじゃ、ずいぶん批判もあったがな……一般市民を巻き込む気かと……なんといっても、君らは若すぎたんだ」


 とディケンズは頭をかいた。レイクフィールド邸の客間の大きな窓からは、赤い屋根瓦の並ぶルーミアの町と白いヴィクトリア、それに針葉樹の目立つ暗いヴィクトリアの森が額に収まった一枚の絵のように美しく見えていた。エドワードとアーシア、そしてディケンズ刑事を午後のお茶に招いたゴーツ氏は、静かにほほえみながらお茶とお菓子を用意してくれた。その手際のよさが、彼が長年優秀な執事として人に仕えていたことを物語っていた。


 警察内では、もう長いことレイクフィールド家とクレイハー家を巡る不審について調査を進めていたそうだが、ルーミアの歴史ある名家であることを理由に、なかなか内部の事情をつかむことができずにいた――そこへ、クレイハーからエドワードの話が持ち込まれたのだと、ディケンズは説明してくれた。


 最初からクレイハーに対して疑いを持っていたディケンズは、取り調べでエドワードとアーシアの話を聞き、これは両家の謎に切り込むきっかけになるのではないかと考えた。そして、危険を承知でクレイハーがエドワードと接触するのを待った。結果、警察の期待以上の大きな成果が上がった、というのが今回の事件の顛末だった。エドワードとアーシアは捜査への協力を感謝され、類まれなる勇敢さを持った若者たちであると表彰され、一時は自由を奪い、容疑者として扱わざるをえなかったことへの謝罪もきちんと受け取った。


 ディケンズはしばらく肩身の狭い思いをしたようだったが、エドワードは自分を(知らないうちにそうなっていたとはいえ)捜査の一員に加えてくれ、クレイハー家の人々の罪を暴くきっかけにしてくれたディケンズには感謝していた。ロナルド・クレイハーは実の母親であるクレイハー夫人とコーディ夫妻、ドルトン氏を殺害した容疑、さらにエドワードに濡れぎぬを着せて捜査を混乱させた罪、エドワードを手にかけようとした罪にエルギンを傷つけた罪が上乗せされて逮捕され、罰を受けることになった。


 クレイハーは例によってすぐには自分の罪を認めなかったが、意外な伏兵が現れ、さしものクレイハーも観念せざるをえなかったようだ――クレイハーと一緒に連れて行かれたエルギンが、すべての容疑を事実だと認め、何がどんなふうに行われたかをこと細かに証言し、連座した人物の名前も明らかにしたのだという。


 「あのエルギンという男は金に目が眩んだが、それだけだったんだ」


 ディケンズはゴーツ氏に渡してもらった壺の砂糖をお茶にたっぷり入れながら言った。


 「職人探しに協力するよう言われて金を渡されたときは、職人たちと〈交渉〉したいが他に手がかりがなく、困っていると話を持ちかけられたらしい。君の記憶が頼りだから、いくらでも欲しいだけ金は出すと……まさか、あれほど簡単に人の命を奪うような人間がいるとは思わなかった、とな。クレイハーがコーディ夫妻の事件を事故に見せかけたのを、すぐそばで見ていたのは彼だ――逆らえば、何をされるか分からない。だから、ドルトン氏が撃たれたときも、見ているしかなかった。君を庇ったのは、本人もほとんど無意識だったそうだ」


 アーシアが首を傾げた。


 「無理に折りたたまれていた良心が、思わず行動に現れたってことかしら」

 「さあな……なんにせよ、エルギンの罰はこれでいくらか軽くなるはずだ。身を挺して君を庇うところを、おれも見ていたしな」


 四人はしばらく無言で、それぞれの考えにふけった。ゴーツ氏は執事だった頃の癖で三人と同じ席に着こうとはしなかったが、促されてごく控えめに自分のお茶を淹れた。


 「みんな、僕らのあとをずっとついてきてたの? 」


 しばらくして、エドワードは聞いてみた。アーシアは首を振った。


 「最初、ディケンズさんとふたりであなたたちのあとをついて行ったんだけど、〈女神の部屋〉って聞こえたから、先回りすることにしたのよ……ゴーツさんに、会いに行ったわ」

 「ゴーツさんが〈女神の部屋〉のことを知ってるって、どうして分かったんだい? 」

 「分かってたわけじゃないわ――ほとんど賭けみたいなものだったわよ。でも、あれだけ大掛かりな仕掛けが隠れてたわけだし、誰かがヴィクトリアの謎を解いたとき、他に誰もそれを知らなかったら、きちんと謎を解いた〈心の正しいもの〉にとって不利な状況になるかもしれないじゃない? だから、管理人をしてるゴーツさんなら、少なくとも時計台の謎のことについて何か知らされてるはずだと思ったのよ。早いうちからディケンズさんとそういう結論を出してたんだけど、間違ってなくてなによりだったわ。……それに、ヴィクトリアのことを知っている人は、必ず誰かいるはずだとは、ずっと思ってたわ。ティリパットさんの意思を継いで、謎を解きに来る誰かを待っている誰かがいるって。あなたと、最初にあの森に入ったときから」

 「ええ? どうして? 」

 「木に彫られていた〈A・T〉が、新しかったからよ。上から何度も彫られたようになってたじゃない。謎を解きに来た人の目に必ず留まるように、定期的に見に来ている人がいるに違いないと思ったわ」


 アーシアは平然として続けた。


 「ゴーツさんに事情を説明したら、〈女神の部屋〉はここだって言うじゃない。それで、三人で扉の外で待つことにしたの。ゴーツさんが普段使っている、普通の扉の外でね。ゴーツさんはわたしたちが歯車の部屋を開けた日から、ずっと時計台で寝泊まりしていたんですって」

 「お嬢さまのおっしゃるとおり、わたくしは、アンソニーさまから時計台の秘密をすべて知らされておりました。ロナルドさまは、わたくしなど眼中になかったのでしょうが」


 ゴーツ氏はにっこり笑って言った。


 「いずれ、アンソニーさまのご本を手がかりに、その秘密を解き明かしてくれる人物が現れるのを、今か今かとお待ちしておりました。願わくばその人物が、アンソニーさまのお望みのとおりの人物であれば……そして、時計台の宝を見つけ出し、本来その宝を正統に受け継ぐべきであった方々の無念を晴らしていただければと。アンソニーさまはヴィクトリアの秘密を明かしてはくださいましたが、レイクフィールド家の方々やクレイハー家の方々の謎については、わたくしにお話しなさることはあまりありませんでしたから……」

 「ゴーツさんを巻き込みたくなかったんじゃないかな……自分に、一番近い人だったから。それに、やっぱり自分の一族のことを信じたかったのかもしれないし……」


 とエドワードは言った。ティリパット氏の思惑については推測の域を出なかったが、ティリパット氏がゴーツ氏のことを〈同類〉だと認めて信頼していたということは確かなのだし、やはり彼に余計な累が及ぶことを避けようとしたのだろう。


 「しかし、〈女神の部屋〉がどんな場所であるかは、分かっていたということですな」


 手帳に目を落としたまま、ディケンズが言った。彼にとって、この場は後日談を語るお茶の席という以上の意味があった。


 「その、管理人室のことである、ということの他に、ティリパット氏がどのような考えのもとで〈女神の部屋〉を謎の中に含ませたのか、ということについて……具体的な当事者が誰であるかということはあなたには伏せられていたかもしれないが、部屋の目的は明かされていた、ということだったのでは? 」

 「おっしゃるとおり。〈女神の部屋〉は、アンソニーさまの意思と復讐、そして真実の部屋なのです」


 ゴーツ氏が言った。


 「アンソニーさまは、ジェームズさまとヴィクトリアさまが亡くなられたときから、ごく近しい血縁ある方々の中に財産目当ての殺人犯が紛れているという疑いを持たねばなりませんでした。それも……実に、まことに残念なことに、心当たりのある方はおひとりやおふたりではなかったのです。そこで、ご自身の遺産を時計台の中に隠し、その在りかを解き明かす謎を書き記した物語をドルトンさまとコーディさまに託され――そして、わたくしに向かって〈宝〉と〈宝の在りかを見つけ出す鍵〉、〈ふたつの部屋〉のことなどを何度もお話になりました。これによって、ヴィクトリアの管理人に任じられることになったわたくしが時計台のことを知ることができると同時に、誰に注意すべきなのかを炙り出すことができました。他人のものを手中に収めようと苦心する人間は、盗み聞きのひとつやふたつで良心が咎めたりはいたしませんから」

 「それじゃあ、ティリパットさんの話を立ち聞きしていた人のひとりが、クレイハーだったのかしら? 」


 アーシアが顎に手をあてた。ゴーツ氏は頷いた。


 「結果的には。実際に立ち聞きなさっていたのは、アメリアさま……つまり、ロナルドさまのお母さまである、クレイハー夫人だったようでございます。アメリアさまは、ロナルドさまのためにアンソニーさまの遺産を手に入れようとしていらしたようで――直接アンソニーさまに尋ねていらしたこともございましたが、立ち聞きの方が得るものが多いとお考えだったのでしょう。そこで得たものを、ロナルドさまにお伝えになったようですね」

 「だけど、どうして? 」


 エドワードはクレイハーの言動を思い返しながら言った。


 「クレイハーは、その、クレイハー夫人にも毒を盛ったんでしょう? 自分のお母さんなのに……それに、そのクレイハー夫人が、クレイハーのお兄さんに毒を飲ませたんだって言ってた……」

 「ロナルドさまのお兄さまは、アメリアさまがお生みになったお子さまではなかったのです」


 ゴーツ氏は静かに言った。ディケンズがせわしなくペンを走らせた。


 「先代のクレイハー卿と最初の奥さまとの間のお子さまが、ロナルドさまのお兄さまだったのです。ですから、アメリアさまはロナルドさまをクレイハー家の当主にすることを、ご自分の使命のように感じておられたのかもしれません――それがご自身とロナルドさまのためであると、心から信じていらした。ご子息として可愛がっていらっしゃるのと同じくらいに、厳しい教育をなさっていました」


 ゴーツ氏は直接の主人ではなかったとはいえ、クレイハー家の人々について使用人の立場からものを言うことを避けたい様子ではあったが、この場に集まった人々には真実を伝えておくべきだという彼の信条はさらに固かった。


 「ロナルドさまは〈猫を飼って〉いらしたのですが、そのせいでお兄さまからは勘当されてしまっていました。なにぶんその〈猫〉は、ドレスや宝石やワインが大好物でしたので……ですから、アメリアさまは余計に気を揉まれていたのかもしれませんね」

 「〈飼わされていた〉んじゃないかしら? 」


 アーシアが小さな声で言った。ゴーツ氏は笑って、さようでございます、と言ったが、そのほほえみは長くは続かなかった。


 「アンソニーさまのご計画は、完璧だったはずでございました。身内を手にかけるような方々から遺産を守り、しかるべき方にお譲りしたい――これが、アンソニーさまが一番にお望みだったことでしたから。……しかし、個人的な意見を申し上げるのならば、そのお望みの中に〈復讐〉を意図すべきではなかったのではないかと思えてなりません。身内を手にかけたものに見当違いの場所を探させ、たとえそれで自分の命が危険にさらされても構わないから、愚者を愚者として笑ってやりたいと……ですから、あえて〈立ち聞き〉をさせたのです」

 「欲を出した人が童話じゃ冷遇されることくらい、よくご存じだったでしょうに」


 とアーシアが呟いた。


 「でも、それが守れなくなるくらい――他人に推し量れるようなことじゃないんだわ」


 ゴーツ氏はうなだれた。彼の伏し目からは、大きな後悔が読み取れた。


 「さようでございます。わたくしは、アンソニーさまをお止めすることをためらってしまった……結果、確実に守られるべき本の所有者であった、コーディさまご夫妻とドルトンさまがお亡くなりなったばかりか、その後継者であるエドワード君にまで危険が及ぶことになってしまいました。……〈復讐〉はうまくいきすぎてしまったのです。大変申し訳ないことをしてしまいました」


 完璧な姿勢で頭を下げられて、エドワードは慌てて手を振った。クレイハーが罪を重ねたのはティリパット氏のせいでも、ましてゴーツ氏のせいでもない――三者三様の弱さのためではあったかもしれないと、エドワードは思った。


 だが、だからといって目の前で悔いているゴーツ氏を責める気になどなるはずもなかった。ままならない人生の責任を誰かに求めることを、エドワードはいつからかやめていたのだ。


 ディケンズが無言でゴーツ氏の肩を叩いた。荒っぽく、不器用な励ましを受けて、ゴーツ氏はしばらくして立ち直った。彼は立ち上がり、ティリパット氏の遺言状の前に立った。大判の遺言状は今、美しい額に入れられて客間の壁に飾られていた。


 「さて、エドワード君とアーシアさん。おふたりが、まさしくアンソニーさまが願っていらしたとおりの〈同類〉でいらっしゃることは、わたくしのこの目で拝見したとおりです。物語に親しみ、知識と機転を使いこなす聡明さ。窮状に絶望せず、自他に誠実であろうとする勇気。そして、他者の心情を推し量る想像力と気高い優しさ。おふたりが、『セオとブラン・ダムのおはなし』の結末をどのように締めくくろうとお考えか、お聞かせいただけませんか? 」

 「エディ、あなたの望むとおりに」


 とアーシアが言ってくれた。エドワードはずっと温めていた考えを話すことにした。


 「ヴィクトリアの金の歯車は、あのまま残しておきたいんです。機構全部が金でできた時計なんて、きっと他にはないから……。遺産として相続してしまうより、ずっと価値のあることだと思うんです。だから、もともと動いていた歯車ではなくて、これからずっとあの金の歯車を動かしたままにしたらどうでしょう……一般に、公開してもいいと思います」

 「なるほど」


 ゴーツ氏は嬉しそうに言った。


 「では、このように結びましょう……〈セオとブランカは、時計台の秘密の歯車をばらばらにしてしまうことはしなかった。時計台は正しい時刻を知らせ続け、町の人々にいつまでも愛され続けたということだ。〉」

 「まあ、意外ってほどでもないんだが……」


 ディケンズがペンを動かす合間にしげしげとエドワードを見た。エドワードたちよりもクレイハーと関わっている時間の方が長かった彼にとっては、エドワードとアーシアの決断が眩しく思えたのかもしれなかった。


 「本当に、それでいいんだな。あの部屋の金を、全部おまえたちで山分けしたって構わないんだぞ」


 エドワードは頷いた。正直なところ、エドワードがヴィクトリアの金の歯車をそのままにしておこうと思ったのは無欲だからというわけではなく、あの素晴らしい時計台を残しておきたい一心だった。アルフレッドの息子としても、ドルトン氏の弟子としても。そして、ひとりの職人としても。


 だがまた、あれだけの金があれば、アーシアが夢の古書店を開くのには大きな助けになるだろう。アーシアはエドワードに決断を一任してくれたが、彼女に報いなくてよいものだろうか?


 「いいのよ、そんなの」


 とアーシアはあっけらかんと言った。


 「わたしの夢と大金は、あんまり関係ないもの」

 「でもさ、どこかのお城みたいな図書室を作って、一日中読書してたっていいんだよ」

 「もしそうなったって、どうせそのうちお店をやろうと思うに決まってるわ。だって、それがわたしの夢なんだもの。……あなただって、歯車を解体してどうしても受け取ってくれって言われてたって、断ったんじゃないの? 」


 その通りだったので、エドワードは沈黙した。にやにやしながらふたりを眺めているディケンズのかたわらでゴーツ氏もほほえんでいたが、ややあって大真面目な顔で咳払いした。


 「……さて、『セオとブラン・ダムのおはなし』はこれで無事完成を見たわけでございますが、少々困ったことになりました。古今東西のおとぎ話では、試練を乗り越えた主人公は大きな幸福を手にする、というのが定番でございます。しかし、わたしたちのセオとブランカは、後世のためにみずから宝を受け取る権利を放棄しました。これは、そのまま放置するわけにはまいりません」


 エドワードとアーシアは顔を見合わせた。ゴーツ氏は続けた。


 「それに、これはわたくしごとではございますが、管理人などという肩書を持ってはいても、わたくしは時計の仕組みはさっぱり分かりません。これまでは不調の折などは外から職人を呼んでいましたが、それは普通の歯車が作動しているときの話――世にふたつとない金の歯車の管理ともなれば、やはりそれにふさわしい職人に任せたいと思っています。エドワード君のご提案通り一般公開ということになれば、あれだけの珍しいものですからこれまでとは比べものにならないほど人が集まるでしょう。そうなると、今の施設状況ではやや寂しく、人手も足りないような気がいたします」


 ぽかんとしている一同を尻目に、ゴーツ氏は(彼にしては)うきうきした足取りで一度客間を下がり、どこからかティリパット氏の遺言書と同じくらい大きな巻紙の文書らしいものを持って戻ってきた。結ばれているのは黒いリボンなどではなかった――両端に宝石が縫いつけられた、目も眩むような黄金色のリボンだった。


 「こちらを、ぜひおふたりにお受け取りいただきたい」


 ゴーツ氏はエドワードとアーシアに文書を差し出した。


 「よく申し付けられております。〈セオ〉、あるいは〈ブランカ〉が黄金を望むなら黄金を、時計台の鐘の音を望むなら、時計台を、と」

 「時計台を? 」


 エドワードは急いでリボンをほどいて紙を広げた。アーシアとディケンズが左右から覗き込む。


 三人で確認し合うまでもない。それはヴィクトリアの権利書だった。

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