3、アンメリー

 目が覚めたときは半分寝ぼけていたのだが、なにしろ普段寝起きしている場所とは何もかもが違っていたのでエドワードは驚き、おかげで頭がはっきりした。潮風が肌に吹きつけ、床が上下に揺れている。


 昨晩男たちに追われて町の中を逃げたことは、人生最悪の夢だったと言っても差しつかえないくらい今となっては現実味が薄かった。人生最悪だろうが何だろうが、本当に夢だったならよかったのだ。だが残念ながら、膝に抱えた本と目の前の風景が今さら後戻りできない現実を教えていた。頭のずっと上の方まで、天を突くような立派なマストと、ところどころ傷んだ帆が見える。


 ほうほうの体で波止場まで逃げてきたエドワードは、停泊していた商船のひとつへ隠れたのだった。タラップがかけっぱなしになっていたが、甲板には誰もいなかったから、船員たちは酒場にでも繰り出していたのだろう。舷側から、追ってきた男たちが腹立ちまぎれに木箱や樽を蹴飛ばすのを見た。もしあの積み荷の中へ隠れていたら――そこから先は、よく覚えていない。


 男たちがよそへ行ってしまったら船を下りて、今度こそ警察署へ行くつもりだったのだが、なんということだろう! エドワードがうっかり眠っている間も、世界は待っていてなどくれなかったのだ! 


 開いた帆がいっぱいに風をはらみ、船員たちが忙しく働いている。船はエドワードを乗せたまま、港を離れたあとのようだった。


 「あれ、君……」


 ロープの束を持って目の前を通り過ぎようとした船員が、まじまじとエドワードを見つめた。まだまだ下っ端の、見習い船員というところだろう。エドワードと同じか、少し年上というくらいの若い日焼けの丸顔には、すきっ歯の笑顔が人懐っこかった。


 エドワードはこのときまで、乗組員に自分の存在が気づかれているとは思っていなかったので、勝手に船に乗ったことがばれたのかと身構えた。だが相手はこちらに笑顔を向けているし、身じろぎした拍子に、覚えのない毛布が体から滑り落ちた。


 大丈夫だ、とエドワードは思った。少なくとも、この船で撃ち殺されることはないだろう。


 「船長を呼んでくる。待ってて」


 船員はエドワードの返事も聞かないまま身軽に駆けていってしまった。船は波間に揺れながら海を進んでいたが(エドワードは慣れない上下の揺れに頭が痛くなりつつあった)、彼は波しぶきをものともせず、あっという間に姿を消した。そして、いなくなるのも早かったが、帰ってくるのもやはり早かった。


 飛び跳ねるように戻ってくる船員のあとから、ごくゆっくりとひとりの男が来る。自分を呼びに来た船員と真逆の、一歩一歩を堅実に踏み固めるかのような歩き方だ。


 「こっちです、マードック船長」

 「マリオ」


 張り切る青年に向かって、船長は重々しく言った。マリオがエドワードの前で呼んだとき、マードックはまだかなり離れたところにいた。


 「甲板を走るんじゃない。死にたくなければな」

 「アイサー! 」


 マリオははつらつと敬礼し、鼻歌も軽やかに持ち場に行ってしまった。返事だけはいい、とマードックが呟いた。


 「一度突き落としてやらんと分からんらしい」


 このもの言いが軽口なのかどうか、笑うべきなのかどうかエドワードは分からず、返事をしそこねた。マードックは口の端をちょっと上げるくらいのことさえしなかったし、鋭い目で静かにこちらを見下ろす姿からは、軽口や冗談の気配さえ感じられなかった。


 「アンメリー号船長のウィル・マードックだ」


 唸っているのとあまり変わらない、低い声でマードックが名乗った。エドワードが相変わらず黙っているので、マードックは片眉を上げた。


 「名前は」

 「エドワード・コーディです」


 ちょっとためらってから、エドワードはつけ足した。


 「ポート・オブ・メイカーのからくり職人の……」

 「ウィリアム・ドルトン氏の弟子か? 」


 マードックがこともなげに言い当てたので、エドワードは驚いて顔を上げた。マードックは赤い上着の襟を正しがてら、たくましい首をかいた。


 「一週間もいれば、その街の最新情報は集まるもんだ。宿屋も酒場も交易所も、方々の人間が混じりあうところってのは噂や秘密の吹き溜まりさ。ポート・オブ・メイカーじゃ、今その話で持ちきりだ」


 マードックは口をつぐみ、深い色の目でエドワードを見つめた。無愛想にも、公正にも、見ようによっては冷酷にも見える冷静なその瞳は黒かった。


 「ウィリアム・ドルトンというからくり職人の親方が、ある明け方、路地裏で死んでいるところを発見された。若い弟子がひとりいて、一度疑われて警察に引っ張っていかれそうになったが、どうもこれという証拠がなかったらしい。だとすると、犯人は一体誰なんだ、なぜドルトン氏は殺されたんだ、誰かの恨みを買うような不実な男ではなかったのに、とこういう酒のまずくなるような話だったな。だが、肴の好みはそれぞれだ。尾ひれがつけばつくほど、脂がのってくる」


 エドワードは嫌な予感がした。マードックの話の意図が分からない。この人は、一体どんな噂を聞いてきたんだろう? 


 マードックはエドワードの反応を窺うような間を空けた。この船酔いしている少年に、これ以上陰惨な話題が耐えられるだろうか、というような顔で。


 「どうやら、ことが起こる少し前から、職人街の酒場によそものが現れるようになったというので、大方はそいつらが怪しいと思っているようではあったがな。職人ではありそうだが明らかに知らない顔で、一度には来ないがみんな同じことを聞いてきたと――ドルトン氏のことを、だ」

 「だ、誰だったんですか? 」


 エドワードは勢いをつけすぎてむせながら言った。昨日の悪夢のような出来事が思い出される――あのクレイハーの一味が、ドルトン親方のことを探っていたのだとしたら……。


 「そのよそものっていうのは、いったい……? 」

 「悪いが、おれも人が話してるのを背中で聞いただけだ。これ以上のことは知らんし、興味もない。うちは警察でも海軍でもないんでな」


 マードックは濃い眉をわずかに寄せたが、その目に疑いや軽蔑の気配はなかった。単に話の腰を折られたくなかったのだろう。


 「そんな話を、滞在中に散々聞かされた後の話だ。昨夜波止場で、銃を持ったやつらが人を探していてな。本を持った少年を探していると言っていた。それは例のからくり職人の弟子で、自分たちの手に戻るべき高価な古書を盗んだから追っているのだと」

 「そんな! 」


 エドワードは絶句した。とにかく何か言わなければ、と焦れば焦るほど、何も言葉が出ない。


 マードックは手振りでエドワードを制した。


 「そんな少年を知らないかと聞かれたから、知らないと答えた。そのときはまさか、自分の船にそれらしい少年がいるとは思わなかった」

 「どうして僕を引き渡さなかったんですか? 」


 エドワードが半信半疑で尋ねると、マードックは鼻を鳴らした。


 「引き渡されたかったのか」


 この問いはお気に召さなかったようだ。エドワードは慌てて首を横に振った。マードックは機嫌悪く続けた。


 「あの連中、おれたちに気がついて銃を引っ込めやがったんだ。人の目から隠さなけりゃならんような銃が、マシなことに使われたためしがあると思うか? もっと忌々しいのは、これは例の職人殺しかもしれないと疑うだけの脳みそと情報がおれにあると、あいつらが思っていなかったということさ」


 それだけだ、と言って、マードックはエドワードに背を向けた。


 「さっきも言ったとおり、おれはこれ以上おまえの親方の事件に興味はない。歩けるならついてこい。この船に乗っている間は働け。海を横切る前にどこかの港で下ろしてやってもいい。おかでの安全は保障しかねる――まあ、海の上でもそれは同じだが」


 興味がない、というもの言いこそ冷たいが、エドワードが世間的にどれほど疑わしくても気にしないということだろう。リジーさんの顔が目に浮かんだが、エドワードは黙ってマードックに従った。船の乗組員をしている自分など想像したこともなかった。しかし、ふたつある道のうちのもう一方が死の運命では、他にどうすることもできないではないか。


 エドワードがついてきているのが分かったのだろう、マードックは振り向きもしないで言った。


 「盗み癖というのは、酒や煙草と同じくらい治すのが難しい。もしおまえが本当にコソ泥だというなら、海へ投げ落とすまでだ」



 アンメリー号は他の商船がよくそうするように、陸路では渡るのに不自由な土地を目指す旅客を乗せていた。仕事を求める労働者も、裕福な旅行客も、好奇心を抱えた学者も、みなが混ざり合って生活するのだ。


 何日も続く同じ顔ぶれの中に話の聴き手を求めて退屈していた昆虫学者のホプキンス氏は、新参者のエドワードに綺麗な青い蝶の標本を見せてくれた。わざわざ手帳くらいの大きさに手作りした専用の木箱の中に収まっている小さな蝶は、特別な宝石か何かのようだった。


 「僕がこれから乗せていってもらう島には」


 と彼は教え子を相手にしているような口ぶりで言った。


 「これのもっと大きなのが、ひらひら飛び回っているらしいんだ。もっとも、大きいものの方が魅力的とは限らないけどね。昔話によくあるだろ」

 「こんな綺麗なの、町じゃ見たことないや」


 エドワードはそんな感想しか出てこなかったが、ホプキンス氏は水を得た魚のように活き活きとしはじめ、大きな掛け図(旅先で講義などしないだろうに、なぜそんなものを持ってきたのだろう? )を何枚も部屋に広げた。


 「どんな学問も、入り口はその学問になにかしら〈美〉を見出すことだと僕は思ってる。蝶やら蛾やらというのはね、湿気が多くて暑い地域の方が種類が多いのさ。僕らが知らないのだって、まだまだたくさんいるに違いない。なんたって、今分かっているだけで蝶は約一万八千種もいるんだ。これがどのくらいかというと、哺乳類が約五千種、といえば分かりやすいかな? 分からない? では、蛾は? 蛾は、どのくらいいると思う? ……そう、蛾と蝶はね、同じじゃないんだよ。国によっては、はっきりと違う言葉で言い表されるんだ。蛾は、今だけで十五万種類くらい知られていて―――」


 だがホプキンス氏は、『セオとブラン・ダムのおはなし』については何も知らなかった。


 「君が大事そうに持ってる本は何だい? アンソニー・ティリパット? 蝶が出てくるところがあったら、僕にも読ませてくれよ。蛾でも大歓迎さ」


 エドワードは細々とした雑用の仕事をもらって働きながら、仲間の船員たちや旅客たちにそれとなく『セオとブラン・ダムのおはなし』のことを聞いてみたが、ホプキンス氏だけでなく、知っているという人は誰もいなかった。稀覯本を集めているという人がひとりいたが、それでも分からなかった。アンソニー・ティリパットを知らないという人もいた。それも、いかにも貴重なものを自宅に並べていそうな、身なりのいい旅行者や、毎日を本に囲まれて過ごしているはずの学者陣にそういう人が多かった。


 まあ仕方がない、とエドワードは甲板を磨きながら考えた。ポート・オブ・メイカーを出て、一週間が経っていた。あのリジーさんですら、知らなかった作品だ。中は手書きだったし、もしかしたら、あの一冊が世界唯一の『セオとブラン・ダムのおはなし』なのかもしれないじゃないか。本は今、あの慌ただしいマリオが都合してくれた麻袋にくるまれてエドワードの寝床に一日中置いたままになっていた。


 「本のことを調べているそうだな」


 マードックがやってきて、相変わらずの低い声でエドワードに聞いた。仕事中のぼんやりを咎められるのかとエドワードは首をすくめたが、マードックはそんなつもりで声をかけたのではなかった。


 エドワードが立ち上がるのを待ってから、マードックは言った。それは意外な一言だった。


 「アンソニー・ティリパットだと聞いた。いい趣味だな」

 「ご存知なんですか、船長」

 「『マリ姫とドラゴン・ラース』だろう? 」


 マードックは何とかそうと分かるくらいのほほえみをわずかの間だけ浮かべた。やんちゃで純粋な少年の顔が一瞬現れ、またすぐもとに戻った。


 「あれは傑作だ。間違いない」


 荒削りの木彫りのような厳しい面立ちに黙って見入るだけで、エドワードが何を考えているかマードックには分かったらしい。照れ隠しにか普段よりひどい仏頂面を作って、マードックは言った。


 「意外か。だがおれは、本の中の海に憧れて船乗りになったんだぞ」

 「本の中の海? 」

 「まあ、死ぬような目にも遭ったがな。後悔したことだってあるさ」


 だがまだぬるい、とマードックは横目でエドワードを見た。


 「本物の海は、嵐がなけりゃ真っ平らだ。セイレーンも化けものクジラもなけりゃ、世界の果てへ出て滝と一緒に滑り落ちることもない。――これからないとも言えんが」


 ついてこい、という代わりに、マードックは四角い顎をしゃくった。


 「アーシアに話を聞いてみろ。船酔いしていないときじゃなけりゃ無理な相談だ」

 「アーシア? 」

 「おれの身内だ。大した読書家だ」


 あとは会えば分かる、とマードックは言った。


 アーシアは女性だった。それも、エドワードと大して変わらないような少女だ。マードックが身内と言ったとおり、彼女も黒髪と黒い目の持ち主だったが、世の中に黒髪がかなり珍しいというのでもない限り、ふたりが同じ一族の出身だということは誰にも見抜けなかっただろう。本物のアーシアを見るまで、マードックの親戚というなら男だろうが女だろうが無口で無愛想なのだろうとエドワードは偏見じみた想像を抱いていた。


 アーシアはすらりとして背が高く、気の強そうな大きな目をして、鳥がさえずるみたいによく喋った。


 「あなたがエドワード? 」


 エドワードが彼女に割り当てられた小さな船室をマードックに連れられて訪ねると、机に向かっていたアーシアはすぐさまエドワードに尋ねてきた。


 「誰も知らないうちに船に乗って、朝まで目を覚まさなかったんですってね。マリオが言ってたわ」

 「アーシア」


 マードックは彼女のお喋りをやめさせようとして遮ったつもりだったのだろうが、厳しい意図があるようにはとても聞こえなかった。父親が娘を咎めるのに似たその声色で、名前を呼んだだけなのに、アーシアがいかに身内らしい愛情を向けられているかが分かった。


 「エドワードの相談に乗ってやってくれ。この問題について、君より頼りになりそうな人間はアンメリーにはいない」

 「おじさまにも解決できないの? 」


 アーシアが探るような目でマードックを見た。マードックは降参の形に手を上げた。


 「ある本のことについてだ」


 本と聞いた途端、アーシアの目の色が変わったような気がした。


 「いいわ。確かに、力になれるかも」


 言うなり、アーシアは机の上に大きな帳面を取り出した。マードックが頷き、船長室へ戻ってしまったので、エドワードはおずおずとアーシアの机まで近づいた。アーシアはエドワードが話を切り出すのを待っていてくれた。


 「あの、アンソニー・ティリパットって知ってる? 」

 「ええ、もちろんよ」


 太陽がどこから昇るか知っているか、と聞かれたみたいな調子で、アーシアは頷いた。


 「有名な人よね。出回っている数が多いから、値打ちは上がりにくいかもしれないけど」

 「値打ちって? 」

 「あら、おじさまに聞いてないの? 」


 アーシアは尖った顎をつんと上げた。エドワードはもごもごと言った。


 「聞いたよ。……大した読書家だって」

 「それじゃ、わたしの十分の六くらいね。ううん、十分の七、くらいはあげてもいいわ。すべてのはじまりは、本を読むことだったもの」


 アーシアがそう言うのを聞きながら、エドワードは思った――からくりの職人だっていうことを僕から差し引いたら、あとに残るのは僕の何分のいくつなんだろう。


 アーシアは机に置いた帳面をとんとん叩いた。


 「わたし、古書店を開きたいの。お客さんから買った本を売るのよ。だから、個人的な好みは別として、客観的に見て価値のある本かどうかをちゃんと見分けられるようになるつもりよ」

 「普通の本屋さんじゃだめなの? 」

 「だめってわけじゃないけど、古書店ってずっと個性の強いものだと思うのよ。誰にも見向きされない古本を二束三文で売ってる店だなんて思ったら大間違い。好きな分野の本だけを専門的に買い取ってもいいし、本だけじゃなくて、ちょっと変わったものを置いてもいい。美術館や博物館を相手に取り引きしているお店だってあるわ。ただ、あんまり珍しいものの場合は、よそから盗まれてきたものの可能性もあるから、気をつけなければいけないの。希書とか、古文書とか、古い地図、絵、切手、古い硬貨……珍しいところだと、有名人の手紙なんかもそうね」


 わたしはそういう高いものばかり扱いたいわけじゃないけど、とアーシアは肩をすくめた。


 「そういう意味じゃ、アンソニー・ティリパットの本をわたしが買い取ったとして、びっくりするような値段はつかないってことよ。彼の本は人気があるけど、珍しくないでしょう? まだちゃんと新品が買えるし、もう世の中にたくさん出回ってるわ。たとえば、手書きの原稿なんかが出てきたら話は別だけど」

 「じゃあ」


 エドワードはどきどきしながら言った。


 「たとえばだよ。ティリパットさんの手書きの原稿で、世の中に発表されていないのがあるとしたら――」

 「それは珍しいわよ、もちろん。まあ、それが値段に直結するかどうかはまた別の話なんだけど」


 アーシアはエドワードを観察しているらしいまなざしをよこした。アーシアが彼女の希望通り書店を開いたら、お客の様子を見てどんな本を探しているのか見抜けるような店主になるかもしれないなとエドワードは思った。


 「……もしかして、あなたが持ってきた本ってそういうものなの? 」

 「いや、そうと決まったわけじゃないんだけど……」


 と煮え切らない返事をしかけて、エドワードは書店員に迷惑がられたことを思い出した。


 「アーシア、『セオとブラン・ダムのおはなし』って、知ってる? 」

 「『セオとブラン・ダムのおはなし』? 」


 アーシアは目をぱちぱちさせた。怪訝な表情は、残念ながら次に口を開くまでそのまま変わらなかった。そして眉をひそめてかなり悔しそうに、ごめんなさい、と言った。


 「分からないわ。聞いたことない。それがあなたの本なの? 」

 「うん。誰に聞いても、分からないんだ。ただ、現物があるってだけで」


 エドワードは自分たちの部屋(船室に空きがなかったため、エドワードはホプキンス博士と相部屋だった)から本の入った麻袋を持ってきた。


 「裸で置いておかなかったのはとてもいいわ。こんなところじゃどうしたって湿気はかわせないけど、それでもずっとマシよ」


 そう言いながらアーシアは麻袋をせっかちにむしり取り、現れた本を食い入るように見つめた。


 「これ、本物の宝石かしら。綺麗に製本してあるわ。売りものみたい……ううん、普通に出回る本だったら、こんなふうには飾らないわ」


 アーシアは適当に開いたページを指でなぞりながら、手書きであることを確かめた。そしてどうやら、エドワードの相談があながち的外れでもないと認めたらしかった。


 「この本、どうしたの? いつからあなたが持っているの? 」

 「僕の親方の本棚に入ってたんだ。僕がこの本のことを知ったのはつい最近だけど、いつ、どうして親方のところに来たものなのか、僕もそれが気になってる」


 エドワードは本の最初にある、ドルトン氏とコーディ氏に宛てた中書きをアーシアに見せた。アーシアはまあ、というような声を上げた。


 「これ、あなたの親方とお父さまに宛てたものなの! すごいじゃない! 」

 「この本、価値があるかな? 」

 「そうね、まだなんとも言えないけど……本物かどうかとか、詳しく調べてみないと分からないわ。でも、世間的な評価がどうでも、あなたにとってはおもしろいものなんじゃない? おふたりは、なんておっしゃってるの? 」

 「分からないんだ。ふたりとも、もう死んじゃったから……」


 アーシアははっと息を呑み、静かにそう、と呟いた。それから何も言わずに机の帳面をめくり、目的のページの端をちょっと折ってから、エドワードに見せた。帳面のページの見出しは、〈アンソニー・ティリパット〉だった。


 「これは美術品や古書を扱う人のための作家情報台帳よ」


 アーシアは簡単に説明すると、本と台帳を照らし合わせだした。


 「この字、確かによく似てるわね」


 アーシアは中書きの署名〈A・T〉と、台帳に載っている署名の写真を並べてエドワードに見せた。ティリパット氏の署名を写した写真は小さかったが、字の特徴を見つけるのに苦労はなかった。彼の字は大きくて細長く、独特の美しい癖があった。


 「この、Aの書き方。特徴のあるものは真似もしやすいけど、そんなふうには見えないわね」


 あくまで「よく似ている」という結論ではあったが、アーシアは認めた。エドワードがすっかり感心して眺めていると、アーシアは台帳をぱたんと閉じてから、遠慮がちな目を向けてきた。


 「あなたがこの本をどうしたいのか、まだ聞いてなかったわね。値段がつけられるかどうかを知りたかったの? 」

 「いや、売りたいわけじゃないんだ。自分で持っていたいと思うよ」


 エドワードは中書きのふたりの名前を見つめた。


 「――ねえ、この本を欲しがる人がいるとしたら、どんな理由だと思う? 」

 「欲しがる人はきっとたくさんいるわよ。アンソニー・ティリパットを好きな人はもちろんだけど、珍しい本ばかり集めている人だとか」


 それって、本の持ち主を殺してでも? エドワードは尋ねたかったが、思いとどまった。


 エドワードの沈黙をどう思ったのか、アーシアは思いやり深く言った。


 「これはあなたが正統に受け継ぐべきものだし、あなたが持っていたいならそうすればいいわ。もう中を読んだの? 」

 「まだだよ。こういうの、もうずいぶん読んでないんだ」

 「読んでみた方がいいわ。本と深く関わりたいなら、まず書いてあることを味わうことからはじめなくちゃ。あなたのお父さまたちのために書かれたものだとしたら、あなたが読まなければ分からないことだって書いてあるかもしれないわよ」


 エドワードは『セオとブラン・ダムのおはなし』を両手に抱えて、表紙の〈セオ〉を見た。


 「読んでみるよ。毎日、空いた時間に」

 「そうこなくちゃ」


 アーシアはぱっちりとウィンクしてみせた。


 「自分の持っているものの価値を知っているのといないのとじゃ、大違いだもの」



 エドワードは、物語が嫌いなわけではなかった。かつては、伝説の剣を引き抜き、竜の背に乗ることを夢見たこともあった。小人と友だちになりたかったし、妖精にさらわれることを本気で恐れていた。そして、どんなことがあっても最後には必ず幸せがやってくるものと信じていた。陥れられた王子や王女、貧しくも善良な人々は、苦境を克服し、祝福を勝ち取るのだ。


 だが、いざ自分に降りかかってくる困難を前にして、エドワードは常に無防備だった。父や母が死んだとき、この先にこれまで以上の幸せなどないのではないかと思った。親方が殺され、自分に疑いがかけられたとき、この世にこれほど惨めな話があるだろうかと思った。物語の主人公たちが持ち合わせているような誇りを、エドワードは自分の胸に抱くことができなかった。最後に物語を読んだのは、いつだっただろう? いつから、妖精の魔法を信じられなくなったのだろう? 


 頭の中で中書きの文句を繰り返していることに気がついたとき、エドワードは自分がいかに両親や親方を恋しく思っているかを初めて自覚した。こうして自分が見過ごしてきた感情にひとつずつ気がつき、いつか物語の英雄のような揺るぎない勇気や誇りを見つけることができるとしたら――。


 エドワードは最初のページをめくった。まだ見ぬ〈セオ〉の辿る道の果てが、幸福であることを願いながら。

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