第22話「日常への闖入者-3」

 ゴーン、ゴーンと遠くの方で鐘の鳴る音が聞こえる。授業が終わり、休憩時間が始まる合図。その音を聞いて教壇に立っていた教師が「本日はここまで」と授業の終わりを宣言した。わたくしは教材を鞄に入れながらどうやってグースと待ち合わせるかと考えを巡らせていた。


 わたくしから声をかけるべきなのかしら?グースの席……一番後ろということは平民ということよね。それなら、やはりわたくしから……。



「リリアン嬢」


 グースに声をかけるために立ち上がろうとした時、不意にウェルター様に呼び止められ、わたくしは椅子から半ば立ち上がった妙な姿勢で固まってしまった。


「ど、どうされましたか?ウェルター様」

「昨日……、具合が悪いと聞いた。今はもう平気なのか?」


 凛々しい翠色の瞳が心配そうにわたくしを捉える。ウェルター様がわたくしのことを気にしてくださっているとは思っていなかったので、わたくしはわかりやすく動揺を顔に出してしまった。


「昨日はみっともないところをお見せしてしまい、申し訳ありません……」

「……いや、私はそういうつもりで声をかけたわけではない。誤解をさせてしまったのならすまない……ただ、」


 ウェルター様は椅子から立ち上がり、気遣うような優しい手つきでわたくしの肩にそっと触れた。大きな手から伝わってくるウェルター様の優しい熱に、体の緊張がほぐれていくのが自分でもわかった。横に立つ彼の顔を見上げれば、優しげな瞳と目が合う。


「リリアン嬢が体調を崩すなど、初めて聞いたものだから……心配に思ったんだ」

「……ご心配をおかけしました、今はもうこの通り……元気ですわ」


 婚約者だというのにぎこちないやり取り……わたくしとウェルター様の会話は、昔からこうだった。幼い頃から口数の少ないウェルター様に、わたくしが沢山の言葉で話しかけてようやく成り立つような関係。……だからこうして、ウェルター様の方から話しかけてくださるのは本当に珍しいことだった。驚きと同時に、淡い喜びがわたくしの胸に広がるのを感じる。



「おい、中庭行くぞ」


 そんな幸せの余韻を切り裂くようにして、男……グースの声が聞こえた。グースはいつの間にそばに来ていたのか、わたくしとウェルター様の間でつまらなさそうな表情をして立っている。気付かないうちにウェルター様の手はわたくしの肩から離れていたらしく、心地よい熱はもう感じられない。


「引き止めてすまない。……彼と何か用事があったんだな」


 ウェルター様は気遣うようにグースにも視線を向けたけれど、グースは素知らぬ顔でそっぽを向いているため目が合うことはなかった。わたくし以外にも無礼な対応をするグースを非難する言葉が喉まで出かかっていたけれど、ウェルター様の目の前で叱責するのは、はしたないと思い控えることにした。


「……この平民の無礼を代わってお詫びいたしますわ、申し訳ありませんウェルター様」

「いいや、かまわない。私の方こそすまなかった……それではまた、リリアン嬢。それから……」


 ちら、とウェルター様はグースを伺うように目を向けたけれど、やはりグースは対応する気がないようで無言を貫いている。


 先ほどのノアへの対応も考えると、グースに人と円満な関係を築こうという気持ちはないのね。それにしても返事くらいするべきだけれど。



「彼はグースですわ。取り柄もない平民ですので、ウェルター様のお気になさるような相手ではございません」

「……」


 わたくしの言葉に反応したのか、グースが一瞬だけわたくしの方を見たような気配を感じる。本当に一瞬だったのか、それともわたくしの勘違いだったのか、わたくしがグースの方を向けば相変わらず彼はそっぽを向いていて、表情は見えなかった。


「平民だろうと貴族だろうと、人の価値はそんなものでは決まらない」

「え?」

「……私はそう思っている。父上に言えば戯言だと笑われてしまうだろうが」


 そう言って小さく笑ったウェルター様は、「邪魔をしたな」と呟き、わたくしとグースに背を向けて教室を出て行ってしまった。他の生徒たちは昼食を食べに行ってしまったのか、教室にはもうわたくしとグースしか残っていない。静かな空間に溜息が一つが聞こえる。



「待たせすぎだ」


 面倒臭そうな態度に暴論、目の前の傍若無人な悪魔はこの学園の生徒のような顔をして、周りの生徒たちに当然のように受け入れられている。どう考えてもおかしな状況、それでも誰も彼を不思議がらない……それはすなわち。


「……これも、悪魔の力なの?」

「それ以外の理由があるか?……いちいち人間を相手にするのも面倒だからな。元から俺はこの学園に通っていた平民の生徒ということにしておいた」


 なんてことないような口ぶりでしれっとそう言うグースに、改めて悪魔に常識は通用しない事を思い知らされる。そうわかっていても、わたくしの口からは言葉が出ていた。


「人として、この学園の生徒として過ごすのなら!受け答えくらいはするべきよ、仮にもあなたは平民という立場を選んだのですから!」


「……」


 グースは目を細めてわたくしを眺めている。血のように赤い瞳からは、考えなど読み取れない。

 言葉を口にする度に感情が抑えられなくなってきている自分を自覚していた。どうしてこんなに感情が昂っているのか、自分でもわからない。今のわたくしには溢れ出る言葉を止める術がなかった。



「……何をしても許されるの?悪魔だからって、人の認識を勝手に書き換えて、人を雑に扱うことが許されるの?自分より弱い人間は自由に扱ってもいいと思っているの!?」



 言った後に後悔するような言葉が口から飛び出していくのを、遠くの方で聞いているような感覚だった。自分の意思で言っているわけじゃないと、すぐに言い訳したくなるような……そんな惨めな感覚。


「……ふん、くだらないな。人間の事情をなぜ俺が汲まなくてはいけない?そんなくだらないことを言うために、俺に時間を取らせたのか?」

「くだらないこと!?ふざけないで!わたくしは、本気で……」


「“本気で”、なんだ?“本気で言っている“?……それこそ、まさにくだらない。言ってて自分で自覚すらしないか?それとも本当に理解できていないのか?無自覚というのは本当に罪深く、愚かで――いかにも哀れなお前らしいな」


 グースは口元に手を当て、愉快そうに口の端を歪ませて笑みを作った。わずかに細められた目は、わたくしを馬鹿にして笑っているようにも見える。



「“何をしても許される“、“自分より弱い人間は自由に扱ってもいい”……それをお前が俺に問うのか?」


「な、何を言って……」


「お前は平民を下に見ている。お前の家はくだらない貴族を食い物にして成り上がった。どれだけの汚い手を使ってきた?どれだけの人間を切り捨ててきた?……俺のやっていることとお前のやってきたこと、どこがどう違うんだ?」


「え……」


「再度問おうか。……何故、俺が人間の事情を汲まなくてはいけない?俺よりも遥かに下等で弱い生き物を、どうして気にしてやらねばならない?俺にとって大切なことは『契約』、ただそれだけだ。それ以外のことに割く時間は無駄でしかない」


 美しく笑みを浮かべたグースは、確かに人間の姿をしているのにわたくしには恐ろしい悪魔に見えた。……指一本で人を自在に操るような、そんな悪魔に。悪魔は、言葉の出てこないわたくしを詰めるようにして言葉を続ける。



「……お前は俺のことを無礼だなんだと言うが、お前も俺と同じだぜ。お前は大切に思っているウェルター・アンダースカー以外の人間を下に見て、ノアに至っては殺そうとしている。……だが俺はそんなお前を否定しない。むしろ好意的だ」


 汗が頬を伝っていく感覚がする。俯いて自分の足元を見れば、すぐそばに水滴が落ちていくのが見えた。グースはそんなわたくしの顎を人差し指で支えるようにして、無理矢理わたくしの顔を上げた。目線を強引に合わせられる。


「正義感だとか、思いやりだとか、そんなものはクソの役にも立たない。純粋さや素直さなんて性質はゴミに等しい。ノアとかいう不愉快な人間よりも、俺にとってはお前の方がずっとマシだ。利己的で慢心的で打算的で、可愛げのかけらもないアホな女。哀れで孤独なお前ほど、悪魔と契約するのにふさわしい人間はいないだろうな」


「……それって、結局わたくしを侮辱しているじゃないの!」


 思わずわたくしが言い返せば、悪魔はふっと息を軽く吐き出しながら微笑んだ。その笑顔が、楽しそうに見えて少し困惑してしまう。

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