第20話「日常への闖入者」

 舞踏会を逃げ出した翌日、思ったよりもすっきりとした気分で目覚めることができた。

 部屋に置いてあるベルを手に持って振ると、すぐにわたくしの部屋のドアが外からノックされる。


「リリアン様!お湯をお持ちしております、入室してもよろしいでしょうか?」


 その声に「どうぞ」と返すと、使用人はすぐさま扉を開け放ってワゴンを押しながら室内へと入ってきた。


「……随分大荷物ね」

「不足があるといけませんので!洗面具も着替えもバッチリ用意して参りました!!あ、それから朝食もございます!」


 何故か気合い十分な様子の使用人を横目で見ながら、わたくしは顔を洗うために使用人の持ってきたワゴンへ近づく。


 舞踏会のドレスを着る手伝いをさせた時も少しおかしな様子だったけれど、今日は一段と変ね。……何か企んでいるのかしら。


 桶に入った湯の中へ手を入れてみると、ちょうど良い温かさが手に伝わってくる。いつもは冷たすぎるか熱すぎるかのどちらかだというのに、珍しいこともあるものだと、わたくしは感心していた。

 ようやく仕事を真面目にやる気になったのかしら?それともわたくしに媚を売って何か叶えたいことでもあるのかしら。正面に立っている使用人の顔をチラリと見上げてみても、厭らしい感じはしない。わたくしはそのまま両手で湯をすくって自分の顔へそっと当てた。



「……あ、御髪が……し、失礼いたします」


 慌てたような早口でそう言うと、使用人は手を伸ばしてわたくしの髪へ触れた。顔を洗うためにかがんで垂れたわたくしの髪を、そのまま手でまとめるようにすくって止まっている。許可なく髪へ触れたことを注意をしようかとも思ったけれど、顔を洗っている途中で話すのも億劫でそのままにしておいた。


「……ん、」


 顔を拭くために布を掴もうと伸ばした手に、使用人がそっと嗜めるように触れた。こぼれ落ちる水滴に視界を奪われて、状況をよく把握できないわたくしが「ちょっと」と抗議の声をあげようとしても、彼にわたくしの言葉を聞くつもりはないらしい。

 顔に布を優しく当てられる感覚に、思わずわたくしは動揺して体を退け反らせた。


「リリアン様、じっとしていてくださいね」


 使用人は幼い子供に言い聞かせるようにそう言うと、わたくしの後頭部を優しい手つき撫でて彼の方へと引き寄せた。やたらと丁寧な手つきで顔を拭かれ、ようやく解放されたかと思えば、またしても勝手に手を取られ椅子へと座らされる。


「ちょ、ちょっと!あなた、さっきからなんなの?許可なく触れるのは無礼よ」


「もっ、申し訳ございません……!ただ、今まで務めをきちんと果たせなかった分、何倍もご奉仕させていただこうかと……」

「今まで通りで結構よ。あなたもわたくしも不便はなかったのだから。……それともあなた、やっぱり何か企んでいるの?」

「企む……?」


 聞いているのはわたくしの方なのに、気の抜けた顔をしている使用人に思わず小さく息を吐いた。


「急に態度が変わるなんて、変よ。わたくしに何か恵んでほしいのかしら?」

「え!?い、いえ!恵んでいただきたいだなんて、滅相もございません!」


 心底慌てた様子の使用人の表情に、嘘は感じられない。尚更意味がわからないけれど、問い詰めるほどのことではないわね。悪意は感じられなかったのでそのまま放っておくことにした。


「……まあ、いいわ。それより、朝食は何を持ってきたの?」

「はい、こちらです。……ハムとチーズとレタスを挟んだシンプルなサンドウィッチと、フルーツをふんだんに使用したサラダ、それから食後にいかがかと思いスコーンと紅茶もご用意いたしました!」

「多すぎるわね……」

「どれからお食べになりますか?差し支えなければ私がリリアン様に給仕させていただければと……」


 わたくしの前の床に跪き、やたらと嬉しそうな表情でナイフとフォークを手にした使用人を横目に見て口を開く。



「……結構よ!」





 執拗に干渉してこようとする使用人を適当にあしらい、結局朝食は食べないまま、おざなりに着替えて飛び出してきてしまった。


「この歳になって小さい子供のように面倒を見られるなんて、御免だわ」


 貴族の令嬢の中には顔の美しい従僕だけを集める者もいるとは聞いているけれど、ああいう風に世話を焼かせるのかしら?わたくしより少し上くらいの歳の従僕に甲斐甲斐しく世話を焼かれるなんて、わたくしだったら耐えられないわね……。



 ふと外へ視線をそらせば、昨日の雨が嘘のように外は晴れていて、眩い日差しが廊下の窓からも差し込んでくる。登校するには早すぎる朝のキリッとした寒さに、わたくしの頭もだんだん目覚め始めた。


「スパーク様には……お昼頃に会いに行こうかしら」


 頭の中で今日の計画を立てながら、まだ誰も登校していないはずの教室の扉を開いた。いつも通り自分の席の前へ立ち、筆記用具の入っている鞄を机の上へ置く。


 ……ふと視線を感じた気がして後ろを振り返れば、絶対に教室で見かけるはずのない赤い目に見られていた。

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