あたらしい青春を

吉日 凪(きちじつ なぎ)

本編

 梅雨の前になると、一面の水田が夕焼け空を映しだすような、そんな趣のある静かな町。

 そこに、とある女の子が住んでいました。

 その女の子は凪(なぎ)なんて名付けられていましたから。彼女の両親は町の景色を眺めながら「何にも動じない、お淑やかな子にしよう」といった具合に考えていたのかもしれません。

 けれども『名は体を現す』とはならず、彼女はわんぱくで、走り回ることが大好きな子に育ちました。

 それは、いつからなんて思い出すこともできません。

 曰く、初めて行った場所で面白い風景を見つけたり、その風景を眺めながら浸る疲労感が心地よいとのことで。

 凪は「自分が走るために生まれてきたのだ」と、そう信じて疑わない様子でした。


 その想いは彼女が中学生になっても変わりませんでしたが、もちろん変わったものもありました。

 とても恵まれていたことに、彼女は人よりもずいぶんと足が速かったようです。

 どのくらいかと言えば、一年生にして県の大会へ出られるぐらいの才能で。彼女は自分の大好きなことで、大好きな人達が喜ぶ姿を見られたのでした。

 凪は走れば走るだけ、もっともっと走ることが好きになりました。

 それで、いつの間にやら「将来は長距離走の選手として生きていこう」なんて心に決めていたそうです。

 だから、凪は誰よりも負けず嫌いになりました。

 周りの子がファッションやメイクの雑誌を読んでいる中で、彼女はトレーニングや食生活の本を読んでいました。

 数学の参考書を前にすると五分も座っていられない彼女でしたが、足を早くするためなら五時間でも図書館に籠ることができました。

 ごはんを食べてても、お風呂に入ってても、どうすれば速くなれるのか。そればかりを考えていました。

(——それなのに今は、もう……)


 凪は高校生になりました。

 それは、好きこそものの上手なれと言いましょうか。推薦を貰ってスポーツで名の知れた高校に進み、陸上を続ける運びとなります。

 よほど嬉しかったことでしょう。合格発表の時などは周囲の目を忘れ、飛んで跳ねて喜ぶありさまでした。


 とはいえ、そう全てが上手く行くほど陸上の世界は甘くなかったようです。

 あれは夏の、秋口にある新人戦へ向けた部内合宿でのこと。

 スランプと言えば聞こえは良いのですが、彼女のタイムは伸び悩みました。

 理由を挙げようと思えば環境の変化とか、故郷の人々からの期待を背負っていたからとか。単純に、無駄に気を張っていたからとか……まあ、いずれにせよ。それは当たり前に訪れる、誰もが一度は通る道だったんだと思います。

 きっと、今まで訪れなかったことが幸運だっただけなのでしょう。

 その初めての敵に、彼女はトレーニングの量を増やしてみたり、新しい練習に取り組んでみます。

 しかしながら、まったく成果が出ません。

 それで、今思えば、この時ばかりは少しだけ嫌いになっていた気もします。

 それは「走ることを」ではなく、「応援してくれている人に、嘘を吐かなければならない自分を」でした。


 ところがです、ここでも彼女に幸運が訪れます。

 それは、とある絵描きとの出会いでした。

「君を絵のモデルにしたい」

 彼は、大会の終わりを見計らったように声をかけてきました……まあ、率直に言えば、凪にとって気分の良いものではありませんでした。

 こんなボロボロの私を描きたいなんて、馬鹿も休み休み言って欲しい。本気で、そう思いました。

 彼は凪より一つだけ学年が上でした。

 ですが、この時ばかりは逆に見えていた筈です。

 普段、努めてヒョウキンに振る舞っていた凪でしたが、まだまだ彼女も子どもでしたから。そんな風に見えるぐらいには失礼な物言いで、彼からのお願いを突っぱねます。

 そうして、名も知らない彼が去って行って。また少しばかり、自己嫌悪が進行してしまうのでした。

(——もしも。ここで、諦めていたのなら……)


 けれども、先程『幸運だった』と記したように、これで終わりではありませんでした。

 その変わり者は翌日も、その翌日も、そのまた翌日も。そうあるのが当然だとでも言いたげに、それこそ「こんにちは」と挨拶でもするように、昼休みになると決まってお願いに来るのでした。

 いやはや『三顧の礼』とは良く言ったものです。

 それまで些かヘソを曲げていた凪でしたが、「話くらいなら聞いてやるか」なんて、促されるままに席を立ったのです。

 それで、長話をするならと中庭のベンチに座ります。

 凪は最初に先日の失礼をお詫びすると、それ以降はバツの悪さを隠すように、菓子パンを齧りながら彼の話に耳を傾けるのでした。

 しかしながら、その話は肩透かしでした。彼から手が届かないぐらいの距離を取っていたこと、それを馬鹿らしく思うくらいには。

 絵描きは本当に、ただただ単純に、描きたいものを描きたいといった……まあ、つまりは【絵描きバカ】だったのです。

 絵描きは凪へ、今まで描いた烏や猫のスケッチを見せながら、お願いしてきた理由を熱心に捲し立てました。

 けれども、凪もまた【陸上バカ】でしたから、大半の言葉は右から左へと流れていくばかりです。それはもう、その言葉を聞くまでは「どう言って断れば良いんだろう」なんて考えを巡らせていたくらいには。

「つまりは、そうだね。君の走りに、一目惚れしたってことになるのかな?」

 ピタリと凪の思考が止まり、その一言だけが頭の中でリフレインしました。

 凪が改めて彼の方へ向き直ると、照れくさそうに髪を弄っている少年がいました。

 それで……まあ、少しばかり心配になってしまいそうですが、凪は「騙されてやっても良いな」と思わず笑うのでした。

「わかりました、良いでしょう!……ところで先輩、先輩は何先輩ですか?」

 その言葉。今この時をもって、凪と秋一(しゅういち)、二人のヘンテコな友人関係がスタートしたのでした。


 光陰矢の如し。

 楽しい時間ほど、過ぎるのは早いものです。裏山が紅葉に染まって、更にはだんだんと、その鮮やかさを失ってゆく時期になりました。

 その景色はいかにも物の哀れを体現していましたが、そんな終わりを忘れさせるように、凪は次々とベストタイムを刻みます。

 たぶん、絵描きが細かな違和感の見える目を持っていたこと、それを元に彼女のフォームについて話し合ったこともキッカケにはなったでしょう。

 けれども、一番の薬になったのは、自分を飾ることもなく話せる相手ができたこと。今思うと、たったそれだけのことって気もします。

 ところで、そんな凪に対して秋一の方はどうしていたのか。

 週が明けた、とある昼食時のことです。今日も今日とて凪は楽しそうに、左へ右へと体を揺らしながら彼へ話しかけます。

「いやはや。これは、先輩の筆もガリガリ進んじゃうんじゃないですかー」

 この言い回しも、今では決まり文句みたいなところがありまして。つまりは秋一へ、「何か描いてないのか」と尋ねているのです。

 秋一は何を言うでもなくスケッチブックを差し出しました。

 いつもは、少なくとも絵に関しては口数の多い彼でしたから、凪は訝しむような素振りをします。

 とはいえ、見ないことには何もはじまりません。凪はスケッチブックを受け取って、その表紙を一枚めくります。

「えっ……すごい、すごいですよ先輩」

 凪は彼の絵の中で、初めて色づいた作品を見ました。

 それは両腕をいっぱいに広げて、満面の笑顔でゴールを走り抜ける。とある女の子を描いた、一言で表せば『血の通った水彩画』でした。

「あはは、どうかな。僕は、結構気に入ってるんだけど——」

「先輩。先輩は、偉い絵描きになりますよ」

 秋一は凪の予言めいた呟きを耳にして、言葉を失いました……まあ、ここは諸説ありですが。

 もちろん、彼女には絵の世界の知識なんて全くありませんし、おべっかを使えるだけの器用さもありません。

 その言葉はただ、彼女にとっての『本当』が口をついて出ただけでした。

「あっ。すみません、先輩!なんか今、偉そうな物言いをしちゃってましたよね、ごめんなさい」

「いや、『偉い絵描き』か……うん、褒めてくれて嬉しいよ。まあ、次回は失言をしないで済むように、いくつかコメントを持っておくと良いかもね、なんてさ」

「次ですか?……あの、いえ……先輩っ!その、何と言いますか、こういう絵は恥ずかしくなってしまうので……こんなに感情を込めて描くのは特別な時だけで良いですからね?」

「……そうなのか?」

 ほんと、この絵描きは変なところで察しが悪い……それから秋一は毎週のように、凪が恥ずかしくなるような作品を描き上げてくるのでした。


 はてさて、月日は流れて。

 桜は咲き乱れ、そして晴れやかにその花びらが舞う季節になります。

 春休みも終わって、いくらか経ちました。だんだんと暖かくなって、人も鳥も、辺りの景色さえ賑わって見えます。

 凪は今日も一人、部活動の終わりに走り込んでいました。まるで御百度参りでもするように、裏山の神社を目指して。

 いえいえ、彼女は特別信心深いわけではありません。元より少し歩いただけで神社仏閣に行き着く国ですから、彼女にとっては至って自然なことでした。

 それに、凪は自分の為に祈ったことがないのです。彼女は夢や目標を、あくまで自分の力で叶えたいと思っていましたから。ランニングのついでに祈るとしても、少し前までは「世界平和」とか「家族の健康」をお祈りしていました。

 しかしながら、今年の初詣から少しだけ内容が変わったようです。

 それは受験生になったどこぞの先輩が、美術系の大学を目指ざしていると知った時からです。毎日のように顔を合わせている人のお祈りをするのは、なんだかおかしな気もするのですが。

 凪は、手水舎からはじまる一連の所作を終えて、一息つきます。

 それで、彼女ができる最高のエールは、自分が走ってその姿を見てもらうことでしたから。

 慣れた手つきで脚のテーピングを巻き直すと、登ってきた道を早々に引き返すのでした。

 もうすぐ、彼女は最高の舞台へと歩み出します。それは全国高等学校総合体育大会、つまりは夏のインターハイへと続く道でした。


 テレビでは、もうすぐ梅雨入り間近だと特集が組まれるようになりました。

 ですから、夕方を示す時刻は日に日に遅くなってきて、夜を迎えるには、まだいくらかの猶予があります。

 秋一はコーラとオレンジジュースのおかわりを持って、席に戻ってきます。

 それで、小さな二人席ではありましたが、凪から届くようにオレンジジュースを置きました。

「どうもありがとうございます、先輩。あらためて、かんぱーい」

 些か横柄に見える彼女ですが、今回ばかりは凪のための壮行会ですので。むしろ、彼のご好意を無碍にする方が失礼というものでしょう。

 なんなら、彼女の脚を当の本人よりも気遣っている彼へなら尚更です。

「うんうん。ほんと、先輩と会ってから最高に調子良いです!明日だってこれまで通り走れば県はもちろん、全国への切符だってもらったようなもんですよっ!」

「……ああ、そうなるね」

「いやいや、これって凄いことなんですよ?『そうなるね』じゃなくってっ!それに先輩は激励するために来たんでしょ?もっとこう、モチベーションが上がるようなお話をしてくださいよ」

「モチベーションか……凪は全国へ進んだとして、その後はどうするんだ」

「んー、どうする?どうするって?そりゃあ走りますよ、今年は徳島ですからね、名産の和三盆でできた和菓子を副賞にしてやりますとも!先輩も楽しみにしていてくださいね」

「ああ、お土産はありがたい……けれど、もっと先を見通したら。君は、大会に出られれば良いってわけじゃないだろ」

「もー、そればっかじゃないですか、どうして先輩は私の楽しみを奪おうとするんですかー?」

「……君は、僕の前でもそうやって強がるのか。だったら……だったら僕は君の親御さんに――」

「先輩。違うんです、ダメなんですよ」

 凪は何を言わんとしているか分かって、秋一を制止しました。

 誰よりも彼女を見てきただろう彼なのに。いや、だからこそ言わずにはいられなかったのかもしれません。

 凪はせめてもの誠意として、話を続けます。

「ダメなんです。私、酷いことを言いますが。きっと、夢のためとか、誰かさんに勇気をあげるためとか……そんな綺麗な願望を掲げていたとしたら頷けてたんだと思います。先輩が言うように、逃げることもできていたんだと思います――」

「……それでも、」

「あははっ!まあまあ、そんな深刻そうな顔をしないでくださいよ!私、こう見えてラッキーガールですから、なんだかんだで上手くいきますって――さあ、続けましょー!たった二人っきりの壮行会をっ」


 それから夜が訪れて、ファミリーレストランから、散歩ついでに近場の公園へ。

 そこで暖かいココアを一本ずつ空けて。それを左側、ベンチの端っこに置いて。

 そろそろいい頃合い、お開きにしようかといった流れになりました。

「先輩、今日はありがとうございました。なんというか、充電満タンって感じです!」

「そうかい、ならよかった」

 呆れ半分かもしれません。けれども、やっと奥歯に挟まったものが取れてきたようで、その声色はいくらかの明るさを取り戻してきました。

「はい。よかったよかったです……それでは先輩。今日のところは、これでお終いですかね?」

「――夜だからさ」

 はて、なんだろう、声が上擦るのを誤魔化すように凪は聞き返します。

「ふむふむ、夜だから?」

「寮まで送るよ」

「……ほう、その心は?」

「まあ、夜道は危ないだろ」

「なるほどー、一理ありますね。他には?」

「他?」

「そうです、他です。あるはずですよ、もっと良さそうな理由が」

「…………」

 秋一は黙りこくって、高々と輝く半月でも眺めるように夜空を見上げます。

 そんなに難しい話でしょうか。マンガにでもアニメにでも、こういったシーンに持ってこいなセリフがありそうなものです……まあ、それを彼に求めるのは酷かもしれませんが。

「……そうだな。たぶん、言っておくべきだと思ったんだ。じゃないと、卑怯だろ」

「?なにを自己完結してるんですか?」

「いいや、何でもない」

「あの、流石の私でも分からないですよ」

 いやはや、変な人だとは思っていましたが。いよいよ、この先輩は月の兎とでも交信してるのでしょうか……完全には否定できないってのが恐ろしいところです。

「――最後まで見届けたい、できることもないけどさ」

「え?先輩も徳島まで来るんですか」

「……そうだけど、そうじゃない」

「んー、もうっ、何なんですかッ?私にも分かるように話してくださいよ!」

 そう問いただすと、彼はいつになく柔らかい声色でこたえます。相変わらず月を見据えたまま。

「もう、諦めろなんて言わないよ。君の、凪のゆく先を、僕がこの目で見届ける。一人の先輩として、一人のファンとして、一人の人間として……だから、君が自分の為だけに走るとしても、君は一人じゃない……少なくとも今は、そんな風に思えてる――伝わったかな?」

「なんとなくは」

「そっか、何となくか」

「はい、なんとなくです」

 どこぞの自動音声のように凪は返答しました。

 それで、秋一の用件は済みました。

 なので、今度こそさっさとお別れをして、凪は長椅子に座ったまま。

 後ろ髪を引かれるように手を振り続ける秋一を、彼女は微笑ましく見送ったのでした。

「……まったく、この朴念仁め」


   ◆


 ここで文章は途絶えている。

 これは彼女がまだ夢を失う前の、僕がまだ絵を描けていた頃の話だ。

 どうして凪は……五十嵐は、こんな自叙伝を読めと言ってきたのだろう。

 原稿を封筒へしまって窓の外、校舎に囲まれた庭へ目線をやる。

 作中に出てくるベンチと、それに座る少女が見えた。その少女こそ封筒を渡してきた張本人。

 彼女は待っている。読み終わったからには声を掛けない訳にもいかない。逃げるわけには……いかない。

 椅子に張った根を一本一本引きちぎるように立ち上がって、昼の光へ背を向ける。

『果たし状』

 原稿用紙よりも一回り大きな封筒には、そんな時代錯誤も甚だしい言葉がありありと書かれていた。だというのに、その全文を読み終えても意図がまったくもって分からない。

 ――五十嵐はこんな僕に、今になって何を求めているのだろう。

 ただ口に出すだけで、君を本気で止めなかったことも。

 病室で強がる君から、逃げてしまったことも。

 走れなくなった君から、距離を置いてしまったことも。

 あまつさえ、それらを言い訳に絵を辞めてしまったことも。

 ……全ては取り返しのつかない、過去の出来事だ。

「あっ、先輩!読み終わったんですね!どうでしたか?どこか気になったところとかってありました?」

 気がつけば中庭まで出ていた。ベンチに座ったままの五十嵐が声をかけてくる。

 立て掛けられていた松葉杖が目に入って、思わず顔を背けてしまった。

「……ああ、読ませてもらったよ。けれど、分からなかった」

「えー、分からなかった?それって、どこら辺のことですか?今後の参考にします」

「いや、僕にはこの現状自体が分からない。そもそも『果たし状』って……どうすれば良いんだ」

「あー、そうでしたそうでした。まずは、本題に入らないとですね……よっと!」

 五十嵐は松葉杖を手に取ると、上半身で反動をつけて立ち上がった——反射的に彼女の腕をとる。

「危ないっ!」

「あたたたっ!ちょっと先輩、強く掴み過ぎです!」

「あ、ああ。すまない」

「……まったく、先輩は怪我人の扱いがなってないですよ。それに『危ない』とか酷くないですか?もう、歩けるぐらいには治ってるんですからね」

 五十嵐は袖のシワを伸ばしながら、語り聞かせるように続ける。

「良いですか、先輩、結論から言いましょう。先輩にはイラストを担当してもらいます」

「…………は?」

「先輩って私の話を聞いてくれないじゃないですか。だからその話、最初は『手紙でも書こうかな』ってのがはじまりなんですよ。でも、自分でも意外なんですが、相手を思いながら書くのって案外楽しくてですね、」

「待ってくれっ、五十嵐……本当に分からない。僕に、そんな資格があるわけないじゃないか」

 分からない。あまりにもついていけない話に、ザッピングされるテレビにでもなりそうだ。

「はあ。落ち着いてくださいよ、先輩。そんなことを言い出したら断る資格こそないですよ?」

「いや、違う。僕は赦されて良いような――」

「先輩」

 その声量は特別大きなものではなかった。けれど、彼女の決意と強がりとを含んだ……母親が子どもへ向けるような優しい笑みに何も言えなくなった。

「思い出してください」

 彼女は言う。

「凪ちゃんは、一言でも秋一を責めていましたか?」

「……それは怪我をする前までの話だろ」

「いいえ、そうではありません。凪ちゃんは秋一と出会えて良かったと思っています。だって、凪ちゃんは秋一からいっぱい幸せをもらいました。競技者として、後輩として、一人の女の子として……だから、思い出してください。これまでたくさん元気をくれてたんです、たくさん救っていたんですよ、秋一は」

「……そんなの詭弁だ」

「はい、詭弁でかまいません。私が秋一を、島村先輩を赦します。貴方が赦せなくても私が赦します」

 彼女が断言する。

 何がそこまで彼女を突き動かすのだろう。僕には分からない……けれど。そうか。

 ははは……僕の目なんてまったく当てにならないじゃないか。

「貴方も、貴方の絵も私には必要なんです。文句ありますか、先輩」

「……ないよ。ただ、それでも、」

「ダーっ!デモもヘチマもありませんっ!……彼女を先輩の中で、勝手に『終わった人』にしないでください。彼女はもう、走りはじめてるんですよ。新しいの道を、先輩がキッカケになって」

「……良いのかな?そんな簡単に赦してしまって、過ちをなかったことにしてしまって」

「違いますよ、先輩。過ちを背負って、この中途半端な話の続きをこれからはじめるんです。思い出の、誰のためでもなくって!」

 五十嵐は、松葉杖をほっぽり出して。

 遥か遠く、明日や明後日でも仰ぎ見るように。

 果たし状の、いつかの水彩画でそうしたように。

 自らの腕を翼のように広げながら、高々と宣言した。

「――今ここにいる私達のために、新しい青春をっ!」


「ところでさ、五十嵐」

「なんですか」

「これに書いてある『朴念仁』ってのはどういうことだ?」

「……――これより【五十嵐】呼びを禁止します。【凪】って名前で呼ばないと無視します」

「なんで?」

「なんでもですっ!」

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