第九話

 どこからか擦れた音で時報チャイムが聞こえてくる。真昼はとっさにスマホを取り出した。


 画面には18時と表示されている。


 7月ともなるとこの時間でも日の力は健在であり、鳥居の外側にはとても夕方とは思えない昼のような景色が広がっている。


 しかし、もうじき穂実が夕飯の支度を始めることを考えると、そろそろ帰らないと後が怖そうだった。


「今日のところはそろそろ引き上げようか?」


 真昼は鳥居付近を調べていた桃香に声をかけた。


「――そうだね」


 桃香は振り返ることもなく、一心に何かを探しながら答えた。


「一応、大網君達にも伝えてくるね」


 真昼は桃香の返事を待つことなく石段を上りはじめた。


 勾配の緩やかな石段を数段上ると狭い踊り場のような場所があり、その先には急勾配の石段が拝殿前の広場まで続いていた。


 踊り場から拝殿を見上げた真昼は軽いため息を漏らすと、何気なく後を振り返った。そこには薄暗い中で懸命に雑草をかき分ける桃香の姿があった。


 何とも言いがたい罪悪感のような重苦しいものが真昼の心に圧し掛かり、それは拝殿までの道のりをより険しいものへと変えていった。


「あっ」


 真昼は何かを探すように上着のポケットをまさぐった。ポケットから取り出されたのは浅葱色の勾玉だった。


 桃香に見せようと部屋から持ってはきたものの、とてもそんな話をするような状況ではなさそうだった。真昼は勾玉をポケットにしまうと再び石段を上りはじめた。



 手すりを頼りにどうにか上の広場まで到着すると、意外にも恒美と義丸の姿は見当たらなかった。


(森の中にでも入っていったのかな?)


 真昼は辺りを見回しながら広場を真っ直ぐ進み、拝殿のすぐ手前で立ち止まった。


 久々に見る木造の拝殿は最後に見た記憶そのままの姿であった。至る所が灰色に朽ちかけてはいたが、社殿特有の重厚な造りと細部にまで施された意匠の数々が、周囲に漂う非日常的な雰囲気と相まって不気味に神聖な存在感を示していた。


 そのたたずまいは信心の薄い真昼にすら畏敬いけいの念を感じさせた。


 真昼は柱の一本を見つめながら、以前、お参りに来た時に輝夫が話してくれた事を思い出していた。



 小さな真昼が「何で神様はこんなボロっちいおうちに住んでるの?」と、拝殿を見上げながら疑問を投げかけると、輝夫は笑みを浮かべながら「それだけ歴史のあるおうちなんだよ。それに昔はこのおうちもキレイに色が塗られていて、田舎の社とは思えないような、それは見事な神社だったそうだ」と、教えてくれた。


 もっとも輝夫が言うには自分もお爺さんから教えてもらった話だそうで、そのお爺さんも自分で見たわけではなく別の年寄りに聞いた話らしかった。


 さらに昔の大昔にはこの場所は諏訪の神様を祭る諏訪神社ではなく、別の神様を祭る小さな神社があったという話だが、そんな大昔の記録を記した書物はどこにも見当たらず、「どこまで本当なのかわからない世代を超えた伝言ゲームみたいだな」と、輝夫は笑いながら言っていた。


 当時、純朴だった真昼は「前に住んでいた神様はどうなっちゃったの?」と聞いてみたが、父親は深く考えもせず「多分、追い出されちゃったんじゃないかな」とそっけなく答えた。


 その言葉に幼い真昼は人知れず衝撃を受け、それ以来、この神社で手を合わせることはなくなってしまった。



 本当かどうかもわからない話を真に受けて何をそんなにムキになっていたのかと、高校生になった真昼は自嘲した。それでも拝殿に手を合わせる気にはなれず、機械的な一礼だけに留めている自分がなおさら可笑しかった。


 真昼は広場の中央まで戻ると大きく腰をひねりながら周りを見回してみたが、やはり2人の姿も痕跡さえも見当たらなかった。


 周囲の木々は肩を組みながら拝殿を覆い隠すように枝葉を伸ばしており、声を潜めた植物達のざわめきが暗がりに深く響いていた。


 真昼は急に心細くなった。


 明るい場所で聞けばどうということもない生き物の鳴き声すらも、得体の知れない恐怖感を伴って真昼の細った心に襲い掛かる。真昼は無意識に体を強張らせた。


「大網くーん、大野くーん」


 真昼はどこともなく呼びかけてみた。しかし、返事はなかった。


「大網くーーん、大野くーーん」


 羞恥心を追いやり、今度はもう少し大きな声で呼びかけてみた。


「おーーーい」


 恒美の声が拝殿の後方から聞こえてきた。


 真昼はその声に安堵感を覚えると、改めて拝殿の方に目を向けた。よく見ると拝殿の右側には人為的に踏み固められたような細い道があり、それは建物の側面に沿って奥に延びているようだった。


「日向さーーん、こっちーー」


 再び恒美の声が拝殿の向こう側から聞こえてくる。真昼は小走りに脇道へと向かった。


 道は拝殿の外郭を刻むように伸びていたが、そのままぐるりと一周することはなく、裏側の中央付近で途切れていた。そこからは山側に向かって地面が踏み固められており、自然石と見間違えそうな石段らしきものが坂道の所々に顔をのぞかせていた。


 真昼は周囲の木々に服を引っ掛けないよう気を使いながら、おぼつかない足取りで斜面を登って行くと、道の先に小さな建物があることに気が付いた。


 それはこの神社の本殿だった。


「気をつけて」


 本殿の前では恒美と義丸が真昼の到着を待っていた。


「はーー、この神社にこんな場所があったんだ」


 本殿に到着した真昼は心身の疲れから大きなため息をついた。


「まぁ、普通はこんな場所こないからな」


 真昼の様子を見た恒美が笑いながら答えた。


「さっきまで拝殿の周りを2人で調べてたんだけど何も見つからなくてさ、じゃぁ本殿の方も見てみるかって話になって、こっちを調べてたんだよ」


 饒舌な恒美とは対照的に義丸は黙ったままだった。


「何か見つかった?」


「いや、何にも」


「そっか」


「やっぱりここは関係無かったか……」


 恒美は落胆した素振りで大げさに肩を落とした。


「まだ、上のほこらを見てねぇだろ」


 義丸が聞き取りづらい声でボソッと言った。


「祠?」


「あぁ、この本殿の少し先に小さい祠があるんだよ。一応そこも調べてみるかって、さっきヨッシーと話しててね」


「何の祠なの?」


「さぁね、この山の神様でも祭ってんじゃないかな、っていうか日向さん、何か俺達に用があったんじゃないの?」


「そうそう!もう18時過ぎちゃったから私達そろそろ引き上げようと思って、それを言いにきたんだ」


「あぁ、もうそんな時間か。確かに気持ち暗くなってきたね」


「気付いてなかったのかよ……」


「あはは、でもここまで来たついでに私もその祠を調べてみるよ。すぐそばなんでしょ?」


「そうそう。じゃぁウチらもそこをサクッと調べてお開きにしますか」


 恒美の提案に義丸は黙ってうなずいた。


 3人は本殿の裏側に回り込むと、もはや道とは呼べないような獣道を真っ直ぐに進んでいった。


「これ、本当に道なの?」


 山野の散策にあまり馴染みの無い真昼にとっては土の道を歩くことにすら冒険心を感じていたが、やぶをかき分けながら進む今の状況は、冒険を超えた命がけの行軍にさえ思えた。


「道かどうか知らんけど、こっちにあるんだよ」


 真昼の心境を知ってか知らずか、先頭の恒美はあっけらかんと答えながらズンズンと先に歩いて行ってしまった。


 後に続く義丸の速度が遅いため、恒美と2人の距離は少しずつ開いていった。だが、それは最後尾の自分が少しでも歩き易いようにと、義丸が広めに薮を踏み固めてくれているからだと真昼は気付いていた。


「ほら、ここだよ」


 先の方から恒美の呼び声が聞こえる。真昼は義丸の背中を追って必死に歩いていくと、ほどなくして少し開けた広場に出ることができた。


 そこには周囲の樹木の数倍はあろうかという大きなクスノキが生えており、恒美はそのクスノキの前でしゃがみこんでいた。


 クスノキの根元を見ると膝の高さほどの小さな祠が立っており、人知れず風雨に晒され続けてきたであろうその姿は、今にも簡単に崩れ落ちてしまいそうだった。


 辺りは藪と大小雑多な木に覆われていたが、なぜかクスノキの周りだけが綺麗に開けており、それはまるで周囲の植物がこの祠とクスノキを避けているかのようにも感じられた。


「――何も無さそうだな」


 祠の周辺を見渡しながら義丸は言った。恒美も祠を見つめながら気の無い声で「そうだな」と答える。真昼は祠の前に立ち大きなクスノキを見上げていた。


「それじゃあ戻りますか」


 恒美はうつむいたままの姿で腰を上げ2人に呼びかけた。義丸は黙ってうなずいていたが、真昼はクスノキの外周をなぞるように木の裏側に向かって歩いて行った。


「何かあった?」


「いや、なんとなく気になって」


「1人で奥に行くとヨッシーにイタズラされるぞ」


「馬鹿か!」


 間髪入れず義丸が叫んだ。薄暗い里山に恒美の笑い声が響き渡った。


 2人は本殿に戻る獣道の手前で真昼の戻りを待った。ところがいつまで待っても真昼は戻ってこなかった。


 不審に思った2人はクスノキの裏側に回り込んでみたが、そこにも真昼の姿はなかった。


「日向さん、まさか本当に1人で奥に行っちまったのか?」


「そんなこと……」


「俺、ちょっと奥行ってみるわ」


 恒美は慌ただしく薮をかき分けながら森の奥へと向かって行った。


 一人残された義丸は、頭の中で感情の濁流に翻弄されながら散り散りになっていく思考を懸命に押し固めていた。


(そもそも日向さんが1人で森の奥に行くわけがない、行く理由が無い……彼女の姿を隠していたのはこのクスノキだけだ。こっちから裏手に回って反対側まで歩いたとしても数秒あれば……なぜ消えた……誘拐、神隠し?隠れた?)


 義丸はとっさにクスノキを見上げた。それは複数の木が絡み合うように成長したかのような荒々しい幹を持ち、その幹を裂くように別れた2本の太い枝がそれぞれ正反対の方向へと伸びていた。

その姿は、まるで2人の人間が共に支え合って成長しながらも、ある時を境に別離して、それそれ真逆の道を歩み出しているかのようでもあった。


 2本の太い枝はその先で幾重にも分かれた細い枝を持ち、義丸にはそれが何かを掴み取ろうとする何本もの手のように見えた


 義丸は上を見上げながらゆっくりと祠の前まで戻った。幸か不幸かその手中に真昼の姿は見当たらなかった。


(……穴か?)


 義丸は足元に目を落とした。


(どこかに穴でもあいてるとか?)


 義丸は注意深く周囲の地面を観察しながらクスノキの裏側に向かった。



「だめだ、見つからねぇわ!」


 しばらくすると、千切れた雑草と小枝にまみれた恒美がクスノキの前まで戻ってきた。


「多分あっちじゃねぇな、それっぽい跡が全然ねぇわ」


 恒美は服の汚れを大雑把に払いながら、そばにいるであろう義丸に語り続けた。


「ヨッシー?――なぁ、ヨッシー!」


 どれだけ声を掛けても義丸の返事はなかった。恒美の懸命な呼びかけは、誰もいない里山の森に虚しく響き渡っていた。

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