弐拾
昼に仕事の一段落をつけたサラは、朝に作り置いて水を吸った粥を運び、キラの寝床へと向かった。
だが、彼は座敷の布団の上ではなく、縁側のかたい木の板に、薄い座布団を置いて、丸くなっていた。
(そういえば、昔、時々庭に入り込んでいた、三毛の猫も、同じ場所で日に当たっていたっけ。あの、雄の三毛は、もう、どこかで死んでしまったのでしょうね)
キラは首を上げて、椀を持った妹に柔く微笑むなり、ゆったりと身を起こした。
サラは兄の隣に腰を下ろし、椀を渡す。一度に量を食べられない彼は、一日五回に分け、少量ずつの食事をとるようになっていた。
「ありがとう」
「なにを見ていたの」
「うン」
胡座をかいた脚の上に器を置いて、さじで粥を口に運ぶ。崩した豆腐と、ほんの香り付け程度に垂らされた醤油。味気ない、代わり映えもしない食事。妹の問いに、キラはずっと目線の先にしていた場所を、顎で示した。そちらにあるのは、緑に覆われた椿の樹。
の、根方で蠢く、なにか。
「あら。蛇」
「ずっと、交尾してる」
「まあ、本当だ。二匹だったのね。太り過ぎかと思った。縞蛇かしら」
「いいや、青大将だろ。小さいけれど」
「珍しいけれど、見てて、楽しいの」
「いや、べつに。暇なだけ。なんか、殺し合ってるみたいだ。あんなんされたら、骨が砕けて息の根も止まるぜ」
「首を締められるのが好き、っていう人も、いるらしいけれどね」
「はあァん。どこで聞くんだよ、そんなん」
理解しかねる、といったふうに、キラは首を傾がせた。そして、口に運んだ粥を、もごもごと転がして、嚥下する。
「羽虫の交尾は、偶に見かけるけどな。蛇は、これで二回目だ」
「二回目。ああ、そういえば、随分と小さな頃に、あったようね」
「もっと暑い日だったな。五つか、そのくらいだったっけ。やっぱり、ちょうどあそこだった。木陰の下で、なにか動いているのが気になって、勉強を投げ出して庭に出たんだ。そうしたら。あれはなんだったろうな。あのころは、大きく見えたけれど、縞蛇だったかもしれん。社の締縄みたいになって、ぐるぐる回ってる蛇らが、なにしてるのか分からなくてな。でも、珍しいもんだから、ずっと見てた。逃げねえんだよな、あいつら。それどころじゃねえんだって、か。まあ、おれもべつに、いじめてやろうとか、そんなことは思いもしなかったけれどさ。とにかく、なにをそんなに一所懸命にやってるんだろう、って、それしか考えなかった。いつの間にか、婆さんが近くにいたから、訊いたんだ。こいつら、なにをしてるんだ、って」
「なんて仰ったの」
「命をつくってるんだよ。って、言った」
「お祖母様らしいわね」
「交尾してる、って言ってくれりゃあ、おれだって理解できたし、それで興味も失せたはずなんだ。でも、そんな言い方されると、なんだか。なァ。すごく、面白いことを仄めかされた気がしたから、食い下がっちまった。虫も、魚も、鳥も、獣も、人間も、みんなそうやって命をつくって、繋いでいくんだ、とさ。そこで、おれはピンときちまったんだ。おれにもできるのか、って。できるかもしれない、って婆さんは言ったよ。今にして思えば、そんなことができる歳まで、生きられるか分からないが、って含みがあったんだろうけれど。その頃はまだ、寿命に関しては、なにも聞かされてなかったからな」
「七つのときだっけ」
「そう。その歳に聞かされた。とにかく、人間は一人では命をつくれないから、相手が必要だ、って言われた。おまえは男だから、女の相手が必要だ、って。そこでおれはひらめいた。女の相手なら、サラがいるじゃねえか、って」
「その後のことは、わたしも覚えているわよ。ドタバタと部屋に戻ってきたかと思ったら、サラ、おれと命をつくろうぜ、って大声で言うんだもの」
「ああ。追ってきた婆さんに、頭ひっぱたかれた。妹以外の女にしろ、って。わけわからんだろ。一番、おれのことを分かっていて、仲もよくて、信頼できる女が、すぐ近くにいるのに。他にしろ、ってさ。あとになって、婆さんの言いたかったことは分かったが、そのころには、もうな」
「手遅れ」
「そう。そもそも、無理があると思うぜ。常に見張ってる大人がいるわけでもなし。おれたちは二人して、好奇心が旺盛ときた。服を着てたら見分けがつかないのに、裸になれば違うところがある。じゃあ、どんなふうに違うんだろうか、って、調べてみたくなるだろう」
「それでも一応、後ろめたいことをしている自覚はあったのよね。隠れていたし」
「なんでだろうな。本能ってやつなんだろうか。てか、アレはさぁ、今思い出してもなかなかだと思うんだよ。おれが精通したばっかの頃、押入れの中でさぁ」
「ああ、もう。待って、待って」
「どんな感覚なのかって、いちいち説明させられながら、おまえの目の前で自慰したじゃん。あのときはさぁ、おれも大して気にしなかったけど。やって見せて、教えてよ、って。おまえ、なかなかだよな」
「だって、わたしにはないから、気になったんだもの」
「わかってるって。結局は、それ以上でも以下でもないんだよな。ただ、興味があったから、ってだけで。でもさ、おれはいい選択をしたと思うぞ。おれは、この世で一番、おまえを信頼しているからな。今になって色々考えても、やっぱり他の人間に、託す気にはならねえよ」
少量の粥を啜りきって、キラは椀を木板の上に置いた。そうして、頬杖をつきながら、相も変わらず椿の根方で絡み合っている蛇を、遠目に見守る。
「なんで、だめだったんだろうなぁ。あんなに、試したのに。やっぱり、おれの体が、良くなかったのか。自分自身の命さえ、まともに生きられないのに。繋げるもなにも、はじめから、そんなふうに、できてなかったのかもしれない」
(諦めるの、なんて。訊けやしない。それこそ、この人にはもう、そんな余裕はないのだから。ああ、でも。わたしはこれから、なにをよすがに、生きていけばいいのかしら。せめて、あなたとの子がいれば。ずっと、それだけを頼って、あなたのいなくなった世界を、かろうじて想像することができていたのに)
「今年の夏、越せるかねぇ」
と、キラが呟けば、かたい沈黙が降りる。
(あなたの体だもの。あなたが一番良くわかっている。わざわざ、そんなことを言うなんて。今年の夏を、越せる気がしないから、覚悟しておけ。って。そういうこと、なのでしょう)
サラは息を止める。嗚咽が漏れそうになるのを、こらえる。
(今年の春先は、まだ、雪かきも、お風呂の準備も、できていたじゃない。本当は、つらかったのかもしれないけれど、でも、できていたじゃない。それなのに、もう。あれから半年も、経っていないのに、起き上がっていることすら、ままならないなんて)
骨折が、キラの体力を大きく消耗させた。それがなければ、もう少し、ゆるやかな進行であったかもしれない。
(いずれにせよ、今年中には。そう、覚悟するつもりでいたけれど。あまりにも、早すぎるじゃないの。食事を変えたのは、良くなかったかしら。でも、少しでも、出血を抑えられるなら、そのほうがいいと、思ったのよ。お粥だけじゃあ、栄養が足りないのは、分かってる。煮込んで柔らかくした、野菜や魚も、体に見合った量は食べられない。出ていってしまうものを、補いきれない。出ていかないで、もう少し、留まっていて。わたしにできることは、せいぜい、祈ることくらい。それさえも、意味なんてないんでしょうけれど)
「眩しいな」
キラが目を細める。たしかに、ここのところは曇り空と雨続きで、薄暗い日が続いていた。梅雨の時期の、合間にときおり訪れる快晴の日の景色は、眩いかもしれないが。
「どうも、最近、目の具合が良くない」
とくに深刻そうでもなく、続けられる言葉。しかし、サラは知っている。先祖らが残してきた手記によれば、多くの男子が、死の前に視力を失う。
(あなたが死んだら、わたしも。なんて、ご先祖様が、許してはくれない。お祖母様と、お母様が、必死に繋いでくださった命だもの。わたしの身勝手で、捨てちゃあならないわ。分かって、いるけれど)
「明るさが負担になるのなら、そろそろ部屋に戻ったらいいわ。また、夕方に食べ物を持ってくるから」
「うん」
床に置かれた椀をとって、サラは兄の隣を立つ。キラは眩いと言う庭を、目を細めながらも、まだ少し眺めているつもりのようだった。
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